悪霊の館

時は昭和43年8月、所は東京都国分寺市。当時の国分寺はまだ武蔵野の面影を残していたが、その中に建つ志摩沼家の広大な屋敷は異様な雰囲気に包まれていた。
志摩沼家は戦前から医学コンツェルンであり、武蔵野医科大学も設立した志摩沼伝右衛門が一人で築き上げ、戦後まで当主として君臨していた。
伝右衛門には3人の娘がいたが、伝右衛門亡き後に志摩沼の家の当主となったのは長女昌子の夫で、元陸軍の高級官僚であった志摩沼征一朗であった。
征一朗には息子の路夫と娘の達子がいたが、路夫は戦死しその子の卓矢が征一朗の跡取りであった。達子には双子の姉妹茉莉と沙莉がいた。
志摩沼家の屋敷は、大正時代にエンゲルというユダヤ系ドイツ人が建てたもので、エンゲルも武蔵野医科大学の創立時には多額の資金を提供していた。
エンゲルは屋敷をアロー館と名付け、妻と娘の3人で住んでいたが、戦争中に3人とも行方がわからなくなった。アロー館は戦後に伝右衛門に買い取られ、今の志摩沼家の屋敷になっていた。

その本館は西洋館で正面に大時計がついていたが、伝右衛門が買い取って移り住むと何人もの人間が時計塔のあたりから墜落死する事件が続いた。
さらに幽霊が出るとの噂もあって、周辺の人々はいつしか志摩沼家の屋敷を悪霊館と呼ぶようになった。悪霊館には大きな本館に付属して、白の館と黒の館と呼ばれる別館があった。
黒の館の方には昌子の妹である徳子の一族が住んでいた。徳子は既に亡く、当時住んでいるのは徳子の双子の娘である志摩沼須賀子と石坂加屋子、加屋子の夫の石坂吉夫の3人であった。
白の館には昌子のもう一人の妹である美園倉宮子とその娘婿の郁太郎、その娘の美幸の3人が住んでいた。昌子、徳子、宮子のそれぞれの家は長年憎しみ合って生活してきた。
そして咋昭和42年に奥の院と呼ばれていた伝右衛門の妹堀野山きぬ代が106歳で大往生し、そのときに志摩沼家の莫大な財産を、卓矢と美幸が1年以内に婚約することを条件に卓矢と美幸に残すと遺言したことが、志摩沼一族の間に起こった恐ろしい事件の発端となった。

事件の最初は昭和43年8月に茉莉が自室で殺されたことで幕を開けた。茉莉の部屋はドアには鍵とラッチが内側から掛り、窓も施錠されていたうえに、人間が隠れるところも抜け穴もない密室であった。
その中で茉莉は死んでいた。しかも絨毯には白ペンキで星型が描かれて死体はその中央にあり、首は切り落とされてどこかに持ち去られていた。
死体の周囲には引き裂かれた本が円形に積み上げられ、部屋の四隅には西洋の甲冑が四体死体に背を向けて置かれていた。
甲冑は伝右衛門が趣味で集めたもので、本館にあるギャラリーに展示されていたものであった。また、茉莉の双子の妹沙莉の姿も事件の直前から見えなくなっていた。
この猟奇的な殺人事件に志摩沼家とは知己の間柄である二階堂家の当主であり、警視庁幹部の陵介が陣頭で捜査にあたり、陵介の養女の二階堂蘭子たちも事件に関わる。
ところがそれらをあざ笑うように、今度は美園倉郁太郎が時計塔から墜落死したのだった。

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