トスカの接吻

ニュー・トーキョー・オペラハウスは、東京上野に100%民間の資金で作られたオペラ劇場として、国内外の注目を集めていた。昨年落成したばかりのその劇場では、プッチーニの歌劇「トスカ」の公演が行われていた。
演出は日本を代表するオペラ演出家郷田薫、カバラドッシ役は世界で最も多忙なテノールのひとり藤枝和行、トスカ役はイタリアから帰国したばかりの期待のプリマ・ドンナ中里可奈子、さらに悪役スカルピア役は日本オペラ界の重鎮でベテランのバリトン磯辺太であった。
その日の公演は、藤枝、中里、磯辺の3人が絶好調であり、観客を魅了した。二幕目、スカルピアはトスカを自分のものにしたとして両手を広げトスカを抱きしめようとするが、抱擁を受け入れるふりをしたトスカは隠し持ったナイフをスカルピアの首筋に突き刺す。
その瞬間、スカルピアの首筋から血が噴き出て、スカルピアは舞台に倒れこむ。誰もが息を呑む迫真の演技であった。スカルピアは断末魔の叫びを残して絶命し、トスカが燭台のろうそくを吹き消して、あたりを見回し舞台下手に走り去る。
オーケストラの後奏の中、幕がゆっくりと閉まる。幕が閉まり、オーケストラの余韻が消えると、観客の嵐のような拍手が続いた。まさに芸術であった。
一方、幕の裏ではスカルピアは横たわったままだった。カーテンコールの為にスタッフがスカルピアに近づく、がそこで驚愕の表情に変わる。スカルピア役の磯辺太は、喉に本物のナイフを突きたてられて絶命していたのだった。

警察が呼ばれ、公演は中止となった。当初事件は単純なものと考えられたが、関係者から事情を聞くうちにそう単純ではないということがわかってきた。
第一にナイフ、演出家の郷田薫は細部まで拘ることで有名で、小道具の刃が引っ込むナイフは、本物と重さも大きさもまったく変わらないものが作られた。
さらに演出で細かくナイフを突きたてるのは頚動脈の位置で、それも思いっきり突くことと指示されていた。したがって中里はいつものように小道具のナイフを指示通りに突き刺したのだった。
誰かがナイフをすり替えたのだ。事実しばらくすると、小道具のナイフがゴミ箱に捨ててあるのが発見された。しかも、そのすり替えを行うことがすこぶる難しい状況であった。ナイフのすり替えを誰かに見られずに行うことは不可能だったのだ…
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