ジグニット号の死
The End of Andrew Harrison 1938

失踪騒ぎを起こした評判の悪い証券業者が、自身のクルーザーの船室で死体となって発見された。

富豪の証券業者アンドリュー・ハリソンの評判は、あまり芳しくなかった。その経営姿勢は利益第一であり、趣味も成り上がり者の域を出なかった。最近ではひそかに貴族の地位を望みはじめ、貴族になれるならなんでもやった。
アンドリュー・ハリソンの家族は、後妻のリティシアと実子の娘グロリア、息子のルパートの4人だったが、ご多分にもれず夫婦仲、親子仲ともよくなく、一家の中では諍いが絶えなかった。
ある日のこと、そのアンドリュー・ハリソンが失踪した。その前々日からハリソンはパリに渡り、ハリソン証券に対するよからぬ噂を調べていた。ハリソン証券の経営がもうすぐ破綻するとの噂が流れ、株価が下がっていたが、ハリソンはその噂の出所がパリにあると睨んでいたのだ。
パリで同業者に会い、噂の出所の調査を終えてたハリソンは、ドーバー海峡を渡って英国に戻ってくる途中、ドーバーの駅から忽然と姿を消してしまったのだ。このことはすぐに新聞社に知れた。というより新聞社に情報提供の電話があったのだ。
記者が動き出し、ハリソンの屋敷にも取材に来たが、ハリソン家では寝耳に水であり、ただちに行方不明説を否定した。ハリソンの行方はハリソン家でも会社でもつかんでいなかったが、それ自体は珍しいことではなく、すぐに戻ってくると考えていたのだ。

ところが翌朝、新聞にハリソンの失踪が報道されてしまい、ハリソン証券の株は急激に値を下げだした。会社では必死になって否定したものの、ハリソンの行方がわからないのも事実であり、根本的に打つ手はなかった。
ハリソン家ではこの期に及んで仕方なくスコットランドヤードに相談し、フレンチ警部の出馬となったが、その翌日にひょっこりとハリスンが現れた。ハリスン曰く、軍事機密の兵器の実験のためにヨットで海に出ていたといのだ。
突然の予定変更だったが、ことは軍事機密であったために、おおっぴらに出来なかった。ドーバー駅から家族宛の電報を赤帽に託したのだ、何かの手違いで届かなかったらしい。
すぐにハリスンは記者発表をし、その結果株価は持ち直したが、一連の騒動で大損をしたり破産をするものが続出し、なかには自殺する者まで出る始末であった。今回の騒動はハリソンがわざと仕組んだもので、世間の小口投資家の資金を吸い上げハリソンの懐を太らせたものだと噂された。それほど世間ではハリソンの評判は悪かったのだ。

騒動から暫くたってハリソン一家と秘書たちは、ハリソン所有のクルーザー「ジグニット号」でテムズ川を遡り、ヘンリー市に向かった。ヘンリーでのレガッタを見たあとで、さらに上流に遡って休暇を過ごす毎年恒例の行事で、船上では友人知人を呼んで連夜パーティーが開かれた。
そんなある夜のこと、船上ではハリソン一家の諍いが繰り広げられた。原因はグロリアの結婚だった。ハリソン夫妻はグロリアを貴族マナリング卿と結婚させたいと考えていたが、グロリアはジャスパー・コールマンという青年と結婚したいと願っていた。グロリアとコールマンを前にハリソンは真っ赤になって怒り、2人の仲を裂こうとしていた。
結局喧嘩別れをしたが、その後ハリソンは妻とも喧嘩に及んだ。不機嫌になったハリソンは早々に自室に入ったが、それがこの世でのハリソンの最後の姿だった。翌朝、いつまでも起きてこないハリソンを不審に思った乗組員や秘書の手で、掛け金をかけられた寝室のドアが壊されると 、中にはハリソンの死体があった。

最初は単に病死と思われたが、医者が呼ばれると状況は一変した。死因は一酸化炭素中毒だと言うのだ。枕元に大理石を入れたボールがあり、その中に酸を入れて大理石を腐食させ一酸化炭素を発生させたらしい。
病死や事故死は考えられず、自殺か殺人ということになった。しかし船室はドアも舷窓も中から掛け金がかけられ、そのほかに不審な点はないことから検死審問では自殺ということになった。
しかし現地の警察署長はこれに納得せず、スコットランドヤードに調査を依頼した。そこで再びフレンチの出番となった。フレンチの調査でも最初は自殺の線が濃かったが、大理石のボールを置いたテーブルのワニスが、酸化した時の熱で溶けていなかったことから、大理石を置いたのは見せかけに過ぎず、何者かが何らかの手段によって船室内のハリソンを一酸化炭素中毒死させたものと判明した。

クロフツはデビュー以来、一定水準の作品の質を維持してきた稀有の作家だという人がいる。確かに一冊ごとに出来不出来はあるものの、比較的起承転結がはっきりしており、叙述的なトリックもないから安心して読めるのは事実であり、冬の日の当たる窓辺でまったりした気分で読むには最高である。ちなみに私は年末年始はクロフツと決めているほどだ。
だが逆の見方をすれば、クロフツの作品は類型的でパターンも決まっており、誤解を恐れずにいえば、どの作品も同じようなものばかりだといえるのではないだろうか。確かにクロフツを5冊くらい連続して読むと、変化に乏しく、食傷気味になる。
とくにフレンチ警部が登場してからは、フレンチの地味な捜査活動と大衆的な性格が相俟って、その傾向は強くなってきたように感じる。それはクロフツが緻密なプロットと(主としアリバイ)トリックを武器に、正面切ってフレンチを立てて読者に挑んだからであった。
推測すればクロフツにはそれ以外の選択肢がなかったからではないだろうか。クロフツは決して器用な作家ではないし、考え方も古風である。それはクロフツ作品から容易に読み取れる。つまりクロフツにはアリバイや交通機関などの得意分野で古典的正攻法を使って勝負することしかできなかったのではあるまいか。

しかしさすがに出る作品がすべて同じようなものであれば、考えざるを得ない。クリスティはじめ同じ黄金期の作家たちは、一作ごとに工夫を凝らして、今でも名作とされる作品を世に問うていた時代である。
そこでクロフツは「クロイドン発12時30分」で倒叙という形を借りて、それまでの古典的正攻法から心理重視の作品を問うた。フレンチ警部は登場するものの、あくまで付けたりであり、主人公は犯罪者であった。同じ形式で「サウサンプトンの殺人」を続けたが、この2冊はクロフツの画期とならなかった。
これ以後、クロフツの作品は正攻法に回帰し、人間心理の代わりに詐欺や横領、企業犯罪など社会的な要素が盛り込まれるようになった。この「ジグニット号の死」もそんな作品のひとつである。
本作品で扱われるのは悪徳証券業者の株価操作疑惑とその証券業者の死。その死はジグニット号という豪華クルーザーの中で起こるが、クルーザー自体は単に犯罪の場であり、犯罪構成の主役ではない。

ここから先はネタバレです。そのため背景色と同色で記述してあります。 お読みになりたい方は、カーソルで反転させてお読みください。
クロフツ作品によくあるように、サブの事件とメインの事件が絡み合う構成だ。サブはハリソンの失踪であり、これが本人の意思による失踪か誘拐かで、メインの殺人事件の様相が大きく変わってくる。これがどちらかであるか、クロフツは容易に明かさない。
フレンチも最初は両方の線から捜査をし、やがてハリソン失踪事件は誘拐であった事実をつかむ。ハリソンは株価操作の道具にされたのだったが、それに気づいたハリソンは逆手にとって誘拐犯から金を巻き上げる。それがサブの事件の真相であった。フレンチはその結果、メインの事件の犯人を特定するが、最後の最後に大逆転を食らう。証拠固めの最中に、事件の局外に置いた人物が犯人であることがわかったのだ。つまりサブの事件とメインの事件は、まったく関係がなかったのだ。
導入部でハリソンを巡る人間関係が描かれ、サブの事件が起き、続いてメインの事件が起きる。最初はメインの事件は自殺とされたが(ここまではハリスンの社交面担当秘書のマーカム・クルーの視点で描かれ、この先はフレンチの視点に変わる)、フレンチの出馬で殺人とわかりフレンチの捜査が開始される。ここからがクロフツのうまいところで、ひととおり容疑者の検討がなされ、いつしかサブの事件がメインの事件のように思わせられるのだ。サブの事件の全容が明らかになり、その中の誰かがメインの事件の犯人のごとく語られる。
ただ、こういうパターンはクロフツ作品では決して珍しくないので、読み慣れた読者なら逆転があるなと感づいてしまうだろう。そうはいっても逆転劇がクロフツの持ち味であって、真犯人の名などは付け足しのようなものなのだ。事実、この事件の真犯人もまるで存在感はない。

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