ホッグズ・バックの怪事件
The Hog's Back Mystery 1933

自宅から突然消えた老医師。単なる失踪か、それとも事件か…

イングランドの南東部サリー州の町で、引退した老医師ジェームズ・アールが失踪した。失踪の直前に自宅の居間で新聞を読んでいたが、妻のジューリアが3分ほど台所に行っていた間にアールの姿は、かき消すように消えていた。
くつろいでいたアールは、部屋着と室内履きのままであり、着替える暇もなかったはずだ。自分の意思で居間を出たのなら、とても遠くに行ける格好ではなく、また遠くに行くとも思えなかった。だが邸の付近をいくら捜しても、アールの姿は発見できなかった。
ジューリアの妹マージョリーやジューリアの旧友でアールの家に遊びに来て滞在していたアーシュラ・ストーン、さらに近くに住んで親しくしている医師のハワード・キャンピオンたちが警察に相談することを勧め、ジューリアは警察に電話を入れた。警察では失踪、事故、誘拐などの面から捜索が行われたが、足取りはまったくつかめなかった。
アーシュラは、アール家に着いてからアールとジューリアの関係が冷えきっているのを感じていた。原因はジューリアにあったようで、若い男と不倫をしているのは明らかだった。一方、アーシュラはロンドンに出かけたときに、アールが自分の車に若い女を乗せて一緒に走っているのを偶然に目撃した。
これらの事情から、いまは表面上取り繕っている夫婦のあいだに、やがて騒動が起きても不思議ではないと思っていたが、そこにこの失踪騒ぎが起きたのだ。アーシュラはアールがロンドンで一緒にいた女性と駆け落ちしたのではないか、そしてその根本の原因はジューリアの不倫にあるのではないかと疑った。

地元警察も最初はアールが自発的に失踪したと単純の考えたが、そう考えると納得できない点がいくつか出て来た。第一に部屋着室内履きのままいきなりいなくなったのが最大の謎だった。
さらに少しでも多く必要なはずの現金を銀行から引き出していなかったり、姿をくらますにしても旅行のふりをするなど時間稼ぎをしていない点なども、自発的失踪とは思えなかった。
むしろ誘拐されたと考える方がいいのかもしれないが、それはそれでアールがまったく騒がなかったことや、理由がないことなどから誘拐説も不自然だった。そんなわけでアールの失踪事件は地元の警察では手におえなくなり、スコットランドヤードに救援が要請され、フレンチ警部が派遣された。
フレンチは持ち前の粘り強さで、ささいな手がかりをもとに、アールの足取りを追っていくが、追えば追うほど不自然さは残るものの、アールは若い女との新生活のために失踪したように見えてきた。
失踪からしばらくたってもそれらしい知らせはないことから事故の可能性は低く、同じ理由で誘拐の線もないだろう。だとすれば自分で失踪したか殺人など事件に巻き込まれたかのどちらかだ。
事件であるとすれば、恐らくアールは殺されているだろう。そう考えるとジューリアが動機の点で一番怪しいのだが、死体が見つかっていないことから容疑すらかけられない。ジューリアの不倫相手のスレイドも同様で、スレイドにはアールが失踪した時のアリバイもあった。いったい事件はあったのかなかったのか、なかったとすればアールはいつどこへ行ったのか?


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さすがのフレンチもあまりの手がかりの少なさ、進展のなさにあきらめかけていたところに、アールがロンドンで会った若い女の住まいが見つかった。フレンチの粘り強さの成果であった。その女は看護婦をしており、名前をヘレン・ナンキヴェルといった。
だがなんとヘレンも失踪していたのだ。しかもその時期はアールの失踪ととほぼ同じ頃であった。スコットランドヤードの同僚タナー警部が捜査にあたっていたが、ヘレンの足取りもまったく掴めていなかった。
しかも調べていくと、アールとヘレンはフレーザーという病死した金持ちの老人のところで知り合っていたことがわかった。アールはフレーザーの主治医であり、ヘレンはフレーザー家に雇われてフレーザー老人の世話をしていた看護婦だった。
医者と看護婦、世間によくある出来事で、俄然事件性は低くなった。フレンチは、それでも完璧を期すために関係者のアリバイを調べたりしたが、事件性は立証できず、捜査の幕が下ろされるのも時間の問題だった。
ところが、そこにもう一つの失踪事件が起こった。今度はアーシュラ・スト−ンの行方がわからなくなったのだ。ここまで失踪が重なると事件性を否定できなくなった。
すると今までのフレンチ警部の捜査と推理にはどこかに欠陥があるのだ。再びフレンチ警部はこの厄介な事件に立ち向かった。

混沌というか、それとも漠然というか、あるいは五里霧中か、今回フレンチ警部が遭遇する事件は、そういう事件だ。事件と表現したが、そもそも事件かどうかもわからない。
最初は老医師の失踪からはじまる。居間で新聞を読んでいた老医師が、わずか3分の間に消えてしまった。部屋着室内履きのままで、付近をくまなく捜しても行方はわからず、警察の捜査でもそれは同じだった。
自発的失踪なのか、事故なのか、誘拐なのか、フレンチ警部の地道な捜査にもかかわらず、皆目わからなかった。どれをとっても不自然な点が残ってしまうのだ。自発的失踪にしてはまったく準備がないし、事故にしても部屋着室内履きのまま居間から消えた理由は説明できない。誘拐といっても理由がわからないし、第一居間で新聞を読んでいるところを誘拐などするだろうか。
さすがのフレンチ警部も、この厄介な事件にはいらだちを隠せなかった。そのいらだちが文面からも伝わり、さすがに粘り強いフレンチも捜査を投げだしそうになる。そしてついには不自然な点は残るものの自発的失踪の線でいったん幕が引かれそうになるのだ。

しかしそれではミステリにならないので、クロフツらしい方法で場面転換がなされる。新たな失踪事件が起きるのだ。今度は老医師の家に滞在していた女性アーシュラが消えてしまった。
実はこの前にも老医師と関係があったと思われる、つまり自発的失踪の原因になったと思われる女性看護婦が失踪しているのだが、これは老医師と合意の上の失踪と思われ、この看護婦の失踪がフレンチに駆け落ちの感を強く抱かせ、事件の幕が引かれようとする。
だからアーシュラの失踪がなければ、不自然ながらも事件性は否定され、フレンチの黒星となる事件だったのだ。さすがにわずかな間に3人も連続して失踪するなど、誰が考えてもおかしい。フレンチは決意新たに捜査をやり直す。ここまでで物語の半分が費やされるが、この時点でも死体すら出てこない。3件の失踪事件があるだけだ。これはクロフツの作品では異例なことだ。

クロフツ作品は比較的早い時期に事件の目的物、たいがいは死体だがが見つかり、その死体を調べたり追ったりするなかで事件の輪郭が現れ、いくつかの仮定による試行錯誤(たいがいはフレンチ警部による)が行われるというのが、パターンだが、本作品ではまったく違うパターンだ。
クロフツらしくないといえばいえるが、現実の世界などこんなものだろう。ただミステリとしてはあまりに事件が進展せず、同じような場面ばかりでいささか退屈という感は免れない。
もうひとつ本作品で特徴的なのは、真相の解明の場面だ。ここでフレンチ警部の口を借りてクロフツは64の手掛かりを示して、フェアプレイを強調している。手掛かりとなる伏線のページ数まで示しているのだ。
この手法はヴァン・ダインの「僧正殺人事件」やカーの「盲目の理髪師」、同じくカー(ディクスン名義)の「孔雀の羽根」でも見られる。嚆矢となったのは僧正で、クロフツ同様にフェアプレイに拘りを持つヴァン・ダインの作品に刺激されたのは間違いないだろう。

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事件はフレンチの精力的な捜査が実り、やがて死体が見つかる。失踪した3人はすでに殺されて、表題にもなっているホッグズ・バックの道路工事現場に埋められているのが見つかったのだ。この発見も車の中に付着していた粘土が手掛かりとなったが、それだけの手掛かりで工事現場の土を掘り返してしまうとは、さすがにフレンチだ。
だがそこでも事件は停滞する。3人の失踪が強制的だとすれば、動機と機会の面から容疑者を特定しなければならない。動機面では候補は何人か出てくるが、全員が機会の面で実行不可能なのだ。つまり全員に不完全ながらもアリバイがあるのだ。
ここでまたフレンチは暗礁に乗り上げ苦悩する。そして終盤を前の産みの苦しみとなるが、クロフツの筆のクサイこと。思わせぶりな描写が続き、フレンチの気分転換などまで描かれている。
そして犯人逮捕から64の手掛かりをあげての解明。そのトリックは複雑で巧緻を極めている。はっきりいって一度読んだだけでは理解できないレベルだ。犯人は2人の男で、それがアリバイを補完し合うのだ。
つまりAが被害者を殺している間にBがアリバイを作り、次にBがその死体を運の案している間にAがアリバイを作るというパズルのような方法で犯行を行ったのだった。そしてその動機は失踪とはまったく関係のないフレーザー老人の死にあった。
犯人たちの目的はフレーザー老の遺産にあった。その死が病死に見せかけた砒素中毒による殺人であり、それがナンキヴェル看護婦に見つかり、さらに看護婦から相談を受けたアールに知れてしまったのだ。
それが事件のミッシングリンクであり、退屈な場面の後には複雑巧緻なアリバイトリックとミッシングリンクという、ごちそうが用意されているというのが本作品の趣向だ。

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