The Cask 1920

デビュー作であり、クロフツのパターンを確立した古典的名作。

その日、ロンドンの波止場では、いつものようにフランスのルーアンから着いた貨物船の積荷おろしが始まった。ところが、4つの樽を吊り上げた途端に吊り索がはずれて樽が転がり落ちてしまった。
幸いなことに怪我人はでなかったが、転がり落ちた2つの樽が破損し、その一つからはワインがこぼれだし、もう一方からはなんと金貨がこぼれだした。
現場の作業員たちが金貨を拾い集め、さらに壊れた樽を調べるうちに、その中に人間の手が見えた。おどろいた現場主任が、会社の重役に相談に行き、これまた驚いた事務員とともに現場に戻って来たが、樽はその間に現れた受取人によって運び去られてしまった。
受取人はレオン・フェリックスと名乗り、それは樽の送り状の名前と同一であった。海運会社では事態を隠していったん引き渡しを拒否したが、フェリックスは海運会社重役の偽の指示書を作って、樽を持ち去ったのだ。
海運会社では事の重大性に鑑み、スコットランドヤードに相談し、樽の捜索は警察の手で行われることになった。送り状に記載されていたロンドン市内の住所はでたらめで、樽を運んだ荷馬車の行方も杳として知れなかったが、その夜遅く、ふとしたきっかけで樽の所在が判明した。

樽はロンドン郊外のフェリックスの住居であるサン・マロ荘の納屋に隠されていたのだった。それを発見したのは非番だった巡査で、さっそく本庁に通報され、捜査主任のバーンリー警部がサン・マロ荘に駆けつけた。
フェリックスに事情を聞くと樽に入っているのは金貨で、フランス旅行した際にワイン商のル・ゴーティエと共同で富くじを買い、それが見事に当選し、その懸賞金のうちフェリックスの取り分を送ってきたのだと言う。さらにル・ゴーティエは、いたずら心を起こして金貨を樽に詰め、偽の住所を書いて発送したから、フェリックスは自分の才覚で樽を手に入れなければならなかった。
そしてフェリックスはル・ゴーティエからフェリックスに宛てられた手紙を警部に見せたが、たしかにその手紙にはフェリックスの言った通りのことが記述されていた。そのためにフェリックスは、波止場に直接荷馬車を乗り付けて、強引に樽を奪わざるを得なかったったと陳述した。
経験からフェリックスの話に嘘はないと判断したバーンリー警部が、念のために樽を見たいと納屋に行くと、今度は樽が消えていた。再びロンドン中を行方不明の樽を見つけるために警官たちが走りまわり、その結果、再び樽を取り戻した。
運送を請け負った荷馬車の作業員が盗んだのだった。やっと見つかった樽をフェリックス立会いのもと開けてみると、中からは金貨や詰め物のおがくずとともに、女の死体が転がり出てきた。それを見てフェリックスは卒倒してしまった。

死体の主はフェリックスの知人で、パリのポンプ製造会社の重役ラウール・ボアラック氏の妻アネットと判明した。アネットは数日前から家出をし、行方不明になっていた。
樽の発送地も発送人もフランス人だし、被害者もフランス人ということでバーンリー警部はフランスに渡り、パリ警視庁のルファルジュ警部と共同で捜査を開始することになった。
捜査が進むにしたがって、奇妙なことがわかってきた。フランスからはフェリックスに宛てて樽が2つ送られていたのだ。ひとつはル・アーブルからサザンプトン経由で、彫刻を詰めた樽が、美術商デュピエール商会によって発送されていた。
その2日後に今度はロンドンからパリに向けてその樽が送られ、パリに着くと直ちに荷馬車に乗せられて、約1時間後に今度はルーアン経由でロンドンに向けて発送されていた。
つまり同じ樽がパリからロンドン、さらにパリにもどり再びロンドンに向けてというように、行ったり来たりしていたのだ。死体が出て来たのは二度目にロンドンに着いた最後の樽で、その樽の荷揚げ中に事故が起きたのだった。
最初にパリからロンドンに向けて発送された樽には確かに彫刻が詰められていたのは間違いなく、彫刻を発注したフェリックスの手紙もデュピエール商会に保存されていた。 その後英仏海峡を樽が行ったり来たりする中で、その樽の中に死体が詰め込まれたはずだった。どこでいったい誰がそんなことをしたのだろうか。さらに複雑な樽の動きの意味するものはなんだろうか
クロフツのデビュー作「樽」は、北アイルランドで鉄道技師をしていたクロフツが、病気療養の際に暇をもてあまして執筆したものであった。書かれた当時はあくまで暇つぶしが目的で、出版する意思など全くなかったという。後日、回復したクロフツが読み直してみると、さほど悪い出来とも思えず、ためしに出版社に送ったところ、出版されることになったという。
その「樽」は驚きを持って迎えられた。なぜなら、「樽」はそれまでのミステリとはまったく異なるタイプのものだったからだ。純粋な謎ときに徹し、その謎も完成された構成美に彩られ、また探偵もそれまでの超人型ではなく、一般人同様コツコツと証拠を集め仮定に基づいて推理を重ねていくという、今では当たり前のような話だが、こういうスタイルのミステリを初めて世に問うたのがクロフツであり、ためにその初作である「樽」がこれだけ名声を浴びることになったのだ。
それから一世紀近くがたち、今やクロフツは英米では忘れられた作家になってしまったというが、わが国ではそのスタイルを鮎川哲也が受けつぎ、さらに近年のトラベルミステリに至っているのは周知の通りだ。そのスタイルが日本人の好みなのか、あるいはこれもクロフツの特色であるアリバイやトラベルなどが日本人に受け入れられ易いのか、ともかくクロフツが日本のミステリ界に与えた影響は計り知れないものがある。

何事もおろそかにしないというのがクロフツ作品の特徴でもあり、それはまた短所でもある。その表現の細かさは、裏を返せば冗長と捕えられ、登場人物の心理や葛藤は描かれず、人間ドラマなどは皆無だから、まるで梗概を読んでいるようだといわれる。だが、クロフツはまったく気にせず、最後までそのスタイルを貫き通した。逆にそのことが、忘れられる運命にクロフツを導いたのかもしれない。
さて「樽」であるが、クロフツらしくきっちりと整理されて、全体は三部に分かれている。第一部は怪しい樽の出現からその樽の追跡という事件の根底の部分で、いわば起の部だ。ここではスコットランドヤードのバーンリー警部が主役である。
第二部はバーンリー警部が事件の主要な舞台であるフランスに渡り、そこでパリ警視庁のルファルジュ警部とともに事件を追跡する。一日の行動の終わりに警視総監を交えて事件をおさらいする凝りようだ。やがて一つの樽がパリとロンドンの間を行ったり来たりしていることがわかり、そのことから出発した推理によって犯人が逮捕される。起承転結の承の部分だろう。
第三部は第二部で逮捕された犯人の友人が冤罪と確信し、有名な探偵ラ・トゥーシュを雇って事件を再調査させ、真犯人に迫る。転のであり、結の部分だが、この結は実はあまり重要ではない。というのは途中で犯人はほぼ明らかにされ、さらにその犯人の持つアリバイも大したものではない。最大の樽の謎、なぜ犯人は樽を行ったり来たりさせたのかも、ラ・トゥーシュの口を借りて早い段階で明かされる。
「樽」では犯人の正体も、そのアリバイも、トリックもさして重要ではなく、あくまで事件そのもの、さらに真相が暴かれる仮定と過程が重要なのである。このことがクロフツがリアリズムを重んじる作家とされてしまっている最大の所以なのだろう。


ここから先はネタバレです。そのため背景色と同色で記述してあります。 お読みになりたい方は、カーソルで反転させてお読みください。
第二部で犯人として逮捕されたのはフェリックスであり、警察は見事に真犯人の罠に落ちたのだ。真犯人が仕掛けた最大のトリックは、2つの樽を1つに見せかけることであった。
犯人はアネットの夫のラウール・ポアラックで、ラウールはアネットとフェリックスの不倫を知り、自宅でアネットを殺害し、樽に詰めて(ラウールは美術品収集家でデュピエール商会から美術品を入れた樽が届けられていたのだった。つまりたまたまあった樽を死体運搬用に活用したのだ)ロンドンに送った。これはフェリックスに罪を着せるためだ。もちろん富くじの当選話も創作であった。
ところが、これだと樽の行方を追えば、すぐにラウールの犯行とわかってしまう。そこでラウールはフェリックスに化けて偽手紙でデュピエール商会に美術品を注文し、それを商会から実際に発送させる。すぐにロンドンに渡り変装して樽を受け取り、その樽をすぐにフランスに送り返す。今度はフランスにとんぼ返りし樽を受け取って、自分宛ての樽に擬装してデュピエール商会に送り返すのだ。犯人の目的はあくまでもう一つの樽を手に入れ、それを利用して自分を事件の圏外に置くことであった。
謎がわかってみれば、さして複雑なものではないが、ラウールはあくまで一つの樽が行ったり来たりのように見せかけたので、警察もものの見事に罠にはまり、ほかの状況証拠(これもラウールがちりばめたもの)と合せてフェリックスを逮捕してしまったのだ。

Freeman Wills Croftsのメインページにもどる
Mystery Collection Mainへもどる


Last modified -