歴史の勉強

横田騒動

横田騒動とは、伯耆国米子藩中村家で江戸開幕直後の慶長8年(1603年)11月に起きた御家騒動で、ごく簡単に述べれば、少年藩主が藩政を牛耳る先藩主時代からの老臣を成敗した、きわめて事件性の高い(いまで言うならば、三面記事やワイドショーの格好の標的となるような)騒動である。
時代はまだ戦国の色が濃く残り、また大坂には豊臣氏があって、家康の幕府も草創期で不安定要素も多いという時代に起こった事件であった。

中村氏は秀吉政権時代に堀尾氏、生駒氏とともに三中老といわれ、五大老五奉行の間の潤滑、調停をその役割とされた家であった。
しかし中途半端な役割であったことは否めず、当時の当主一氏も、堀尾吉晴、生駒親正とともに政治的には小者であり、期待された役割は果たしえなかった。
その結果、秀吉没後は周知のとおり五大老筆頭の家康と、五奉行筆頭の石田三成の確執から、やがて東西に分かれた関ヶ原合戦に至る。
このとき中村一氏は駿河府中14万5千石の大名であった。駿河は、小田原北条氏滅亡後に秀吉によって家康が関東に移封されるまで、家康の領地であった。家康移封後、その旧領には秀吉が目をかけた大名が、続々と移された。
一氏もその一人であり、しかも家康領と接する駿河入封ということは、対家康への備えの意味であることは当然であった。

しかし、世の情勢は大きく変化しており、関ヶ原の前段階である家康の会津上杉征伐の際に一氏は、通過する家康を駿府城で丁重にもてなしている。
このとき一氏は重病であったが、重臣横田内膳正村詮(むらあきら)の屋敷で家康の謁し、家康への忠誠を誓い、病身のために弟の中村彦右衛門一栄を従軍させることを申し出ている。
その後、三成の蜂起によって家康は上杉征伐を中止して反転し西方に向い、関ヶ原における合戦に勝利して天下を手中にするのであるが、ちょうどそのころ一氏は駿府城内で病死した。
一氏に代って従軍した一栄は関ヶ原本戦を前にした犬山城攻めや大垣城攻めで功を挙げた。戦後、一氏の子の一忠が、わずか10歳で相続を許されて、伯耆一国17万5千石に加増転封され、一栄は一忠領内の八橋で1万3千石を与えられた。

先の駿府城内での家康接待の場とされた横田村詮が、この騒動の一方の主人公であり、もう一方の主人公が若き二代目一忠である。
横田村詮の出自などは詳らかにはなっていないが、これは中村氏自体にもいえることである。中村氏についても、その出自など詳しいことは不明である。
村詮は一説には、戦国大名三好氏の家臣であったとも言われているが、駿河時代には筆頭家老的な立場にあって、領内の治世全般に深く関与し、大きな権限を有していたと考えらていれる。
これは村詮の発給文書が多く残されているほか、慶長4年((1599年)には5ヶ条の村詮法度を布れるなどしていることからも明らかである。また一氏の信頼も篤く、その妹を正室に迎えたともいわれる。

一氏が没し一忠の世となり、伯耆米子に転封となってからも村詮の立場に大きな変化はなかったと考えられるが、騒動が転封2年後という短い期間で起きていることから、その原因は駿河時代から醸成されていたとするのが自然である。
もっともその頃は一忠は幼すぎるから、実際は村詮を中心とする一派と反村詮派の派閥対立があり、一氏生存中は表立っての対立はなかったものの、一氏没後に反村詮派が少年といってもいい藩主を抱き込んで、抗争へと発展していったという図式であろう。
騒動については「中村記」「中村一忠伝記」「中村一氏記」「中村一氏伝記」などの実録では、いずれも横田村詮の専横にその原因があったとする。
すなわち、村詮は弁舌優れ、威勢は日々に増し、6千石の加増を受け、藩主一氏の妹を妻とし、一氏死去後家康から一忠の後見を命ぜられて、その権勢は絶大となった。
村詮はこれを笠に、利欲を恣にして民を貪り、侫臣に賞を与え忠臣を遠去け、寺社領にまで検地をするなど政治を私して、悪意非道に走ったという。

一忠の近習安井清十郎は、村詮の行為を見かねて一忠に村詮誅伐を進言し、一忠も同意した。
慶長8年(1603年)11月14日、一忠は祝宴の後で村詮を側近くに召し、不意を襲って手討ちにしようとしたが非力のために果たせず、近臣らが村詮を追い詰めて近藤善右衛門が村詮を討ったという。村詮52歳であった。
このことが城下に伝わると、村詮の一族、一門、一党たちは村詮の屋敷に集まった。横田主馬、三好右衛門兵衛、三好左内、三好玄蕃、高井左吉右衛門、安井久右衛門、安井太平、近藤九右衛門ら、その数90余名ともいい、武装して屋敷に立て籠もった。
米子藩兵だけでは鎮圧できず、急遽隣国の出雲松江藩主堀尾吉晴に援軍を頼んだ。吉晴自ら藩兵(500名余りという)を率いて救援に駆けつけ、米子藩兵が正面から、松江藩兵が裏門から挟撃し、多くの死傷者を出しながらも騒動は鎮圧され、籠城軍の大将横田主馬は切腹して果てた。

しかし他藩からも援兵を受けなければ鎮圧できないほどの大規模な武装反乱だから、公儀も捨て置くわけにはいかず、江戸からは調査の為に鵜殿兵庫助が下ってきた。
一方、米子藩からも重臣河毛備後を急ぎ江戸に上らせるとともに、一忠もまた江戸に向った。しかし一忠は公儀から、品川宿で逼塞を命じられて江戸入りは許されなかった。
その後、安井清十郎は家康から切腹を命ぜられたほか、藩主側近の天野宗把は打ち首(切支丹のために切腹できなかったことによるという)、また藩主正室付の道家長右衛門、道家長兵衛も切腹となった。
なお、一忠はのちに許されている。ちなみに一忠の正室は将軍秀忠の養女(実は関宿城主松平康元の女)であり、それによって一忠は松平姓を賜っていて、道家長右衛門らは、その付人として下っていた。

これらの処分は家康自らが下したものといわれるが、この処分は「中村一氏記」や「中村一忠伝記」など実録ものが伝えるところからいえば、少し変である。
実録が伝える村詮専横を忠臣が藩主とともに絶つという筋からは、到底こういう処分にはなるはずがない。幕府では実録が伝えるのとは、まったく違う見方をしていたのだった。
「徳川実紀」では、忠一(一忠ではない)15歳、その行いは凶暴であり、横田内膳(村詮)が何度も諌めたが、これに怒った忠一が宴にことよせて自ら殺害、更に居城飯山に立て籠もった一党を隣国堀尾の軍勢を得て鎮圧した、と記すという。
新井白石の「藩翰譜」もほぼ同様であるといい、この騒動を聞いた家康は、幼弱な藩主一忠を諌めるべき家臣が、その責を果たさずに迎合し、騒動を引き起こしたことを厳しく咎め、安井らに腹を切らせたとしている。

ここで注目すべきは処分理由のうち、藩主の補佐の責を果たしていないことが最大の問題であるとしていることだ。村詮が実録ものが書くように悪玉であったかどうかは問われていない。
実際に派閥対立的なことがあったわけだから、欠点の多い人物であったことは確かであろうが、反面また有能でもあったのだろう。
どちらにしても善玉、悪玉というような対立を問題としているのではなく、幼弱な藩主のもと、ただでさえ不安定な移封直後の時期に、重臣たちが対立し、抗争に明け暮れていることを問題にしたのである。
本来ならば一忠にも改易などの厳しい処分が下されてもおかしくはなく、中村家が豊臣系大名であることをもってすれば、むしろ本領安堵が不思議なくらいである。
将軍養女を正室に迎えているという事情はあったにしろ、後年の比較しても格段に甘い処分である。

吉永昭氏は「御家騒動の研究」(清文堂)のなかで、一忠の父一氏の家康に対する忠誠と、同時に若年のことゆえ反村詮の勢力に利用されたとしてもやむを得ないという事情を考慮した判断であったとしている。
さらに当時はまだ戦時体制下にあり、何よりも治安維持と秩序の確立が至上命題である中で、一忠がたとえ豊臣系大名であったとしても、藩政の安定と藩体制の整備には必要不可欠な存在であったと書いている。
おそらくそのとおりであり、開幕直後という時期に、藩主自身に重大な落度がない今回の騒動で、改易処分を下したときの混乱を憂慮したものであろう。
諸大名に対して家臣の統制、あるいは家臣のあり方について、一つの類型を示す意味もあったのかもしれない。

最後に2つほど記すが、一忠の叔父にあたり、それなりの力を持っていたと思われる一栄は、騒動には直接登場しない。これは、一栄が病気であったことによる。
もう一つは、この騒動で生き延びた米子藩中村家であったが、その6年後の慶長14年(1609年)5月11日、一忠は20歳で急死し、嗣子がなかったために断絶している。一忠には妾腹の男子はあったというが、正室の猛反対にあい家督相続できず、無嗣断絶となったという。

本稿は「御家騒動の研究」(清文堂)のうち藩政の確立をめぐる対立・抗争と御家騒動(伯耆国米子藩、横田騒動について)を参考に書いています。

中村氏のページに戻る
大名騒動録の表紙に戻る
歴史の勉強
Last modified -