歴史の勉強

柳川一件

柳川一件の概要

朝鮮との国境に位置する対馬は、古くから朝鮮半島と九州を結ぶ交路の中継地点であった。対馬は鎌倉時代に少弐氏が守護となったが、少弐氏は大宰府にいて対馬は守護代宗氏の支配下にあった。
やがて南北朝期以後少弐氏の衰退に伴って、宗氏は対馬守護となり名実ともに島主としての地位に昇りつめ、以後その地位を相伝していく。
対馬は山がちの島であり耕地は少なく、その経済は朝鮮との交易によって成り立っていた。対馬の存在は朝鮮なしでは考えられなかったのである。

宗氏の当主は代々朝鮮との外交に神経を使ったが、豊臣秀吉による朝鮮侵攻は宗氏にとって痛恨の出来事であった。秀吉の死によって朝鮮侵攻が終わったが、しばらくの間朝鮮との外交は断絶状態が続く。
宗氏は朝鮮との復交に努力し、やがて朝鮮からの通信使の派遣に結びつくが、この過程において日朝両国間で交わされた外交文書である国書を改作改ざんした。日朝関係は、その危うい行為のうえに成り立っていたのである。
宗氏の重臣に柳川氏がいた。柳川氏は調信が秀吉の九州平定から朝鮮侵攻のころに宗氏十六代の義調に仕えて頭角を現し、朝鮮役の終了後も外交面で活躍し重臣筆頭と言っていい立場になった。
柳川氏は調信死去の跡を景直(智永)、調興と続く。一方、宗氏も義調の死後義智、義成と代が替った。

柳川調興が柳川氏の家督を継いだのが慶長18年(1613年)であり、宗義成が襲封したのが慶長20年(1615年)であった。ともに家督を継いだとき10代前半であり、年齢は調興の方が1歳年上であった。
この調興と義成が不和となり、やがて双方が幕閣に訴えを起こす。調興は九州に2千石の領地を持っており、そのうち千石は調信が宗義智から知行されたもので、残り千石は幕閣の実力者であった本多上野介正純の肝煎りで、宗氏の領地から柳川氏に加増されたものであった。
調興はこの2千石をもって自領とし宗氏の支配を脱して幕府直臣になりたいというのであった。宗義成は幕閣の肝煎りで宛行われた千石はともかく、宗氏が宛がった千石を柳川氏の自領とするのは横領であると訴えたわけだ。

その争いの過程で、対朝鮮外交の中で行われた国書偽造が調興から暴露され、問題は一気に大きくなった。国書偽造となれば徳川将軍家の権威の否定であり、外交問題であった。
三代将軍徳川家光は江戸城中に調興と義成を呼び、老中、諸大名列座のなかで、両名を対決させる。
家光親裁の結果、義成勝訴となり、義成は幼少のゆえに国書偽造には関わりなく、よって咎めなし。調興は津軽に配流となった。この一連の騒動のことを柳川一件という。

柳川氏の台頭

柳川氏が宗氏の家臣となった経緯は、まったくわかっていない。柳川氏の出自についても不明であるが、伝えられているところでは、柳川調信(甚三郎、権助)は商人であって、兄の調長とともに対馬に渡り、当時の対馬の島主宗将盛の弟津奈弥八郎調親に仕え頭角を現した。
調親が謀反を起こして滅んだ後、島主に直接仕えるようになり、やがて伊奈郡に領地を与えられて、勢力を伸ばしていったと言われている。

秀吉の九州征伐の際、秀吉政権との折衝にあたったのは調信であり、それ以前から調信は朝鮮との交易で得た珍品を石田三成に献上していたと言う。
調信の下交渉のあと宗義調が九州に入り秀吉に拝謁し、宗氏は対馬島主としての地位を安堵されるのであるから、調信はこの頃にはすでに宗氏の重臣の中でも抜きん出た存在であった。
また、交渉役として適任であったとされたことからも、商人であったかどうかはともかく、豊臣政権中枢と何らかの繋がりがあり、才覚に長けていたのであろう。

九州平定後に秀吉は「唐入り」として、明国侵攻の意思のあることを明らかにした。その後小田原征伐、奥羽の仕置を経て国内の統一が成ると秀吉は、いよいよ唐入りの実現に向けて動き出す。
そのためにまず朝鮮国王を服属させ唐入りのルートを確保すべく、宗氏にその交渉を命じた。当時明国の属国であった朝鮮が交渉に応ずるはずもなく、宗氏も柳川調信もそのことは充分承知していた。
交渉は決裂して文禄・慶長の役といわれる秀吉による朝鮮侵攻が行われる。調信もこのとき宗氏当主義智のもと渡鮮して戦った。
慶長3年(1598年)に秀吉の死去によって戦役は終わり、在陣の諸将も引き揚げたが、日朝間の国交は断絶されたままであった。また戦役の兵站基地であり、男子のほとんどを朝鮮には派兵しなければならなかった対馬は荒廃していた。

生活を朝鮮にある程度依存せざるを得ない対馬島主宗義智は朝鮮との復交に全力を挙げた。度々朝鮮に使節を派したが、いずれも戻らず朝鮮との関係の回復は容易ではなかった。
やがて朝鮮人捕虜の送還によって曙光見え始め、慶長9年(1604年)に朝鮮から僧惟政が対馬に派遣されて来て、朝鮮との間の交易が再開される。
これは朝鮮との復交を望んでいた徳川家康の意に適うものであり、この功によって義智には肥前国内において加増がなされ、そのうち千石が幕府の実力者であった本多正純の意向で柳川氏に与えられることになった。
これと前後して柳川調信は急逝し、跡を景直(のちに智永と改名)が継ぐ。智永は惟政らの来日、上洛の際に従五位下、豊前守に任ぜられている。
もはや柳川氏は宗氏の重臣でありながら、幕府からもその存在を重要視されるまでになったのだった。

国書偽造と朝鮮との国交回復

宗氏の領地対馬国は山がちであるために自給自足が出来ず、そのために文禄4年(1595年)に秀吉によって薩摩出水郡に1万石の領地を与えられており、このうち千石が調信に給されていた。
朝鮮役終了後に島津氏に対する加増の一環として出水郡の宗氏の領地は島津氏に与えられ、宗氏にはその替地として肥前基肆・養父両郡内で1万石が宛行われた。
基肆郡田代がその支配の中心であったために、これを田代領と称した。耕地面積の少ない対馬において、この田代領は貴重であり、田代領の年貢は対馬島民の支えでもあった。
朝鮮との交易再興を成した功によって、この肥前田代領に加増が行われ、うち千石が柳川氏に与えられたのは前に述べたとおりである。

柳川氏は田代領に合せて2千石の領地を持つこととなり、宗氏の家中において更に台頭していく。朝鮮との条約交渉が始まり、慶長11年(1606年)に朝鮮から2つの条件が提示された。
条件の一つは日本が先に国書を朝鮮に送ることで、もう一つは朝鮮国王の墳墓を荒らした犯人の引渡しであった。犯人引渡しの方は適当な人物を送ったが、国書の方は簡単にはいかない。当時の外交の慣例では、国書を先に出すということは、相手への恭順の意思表示であるからだった。
弱り果てた宗氏は家康の文書を偽造して朝鮮に渡した。これには智永も深く関わっていた。この偽国書を受けた朝鮮は、翌慶長12年(1607年)に回答使兼刷還使呂祐吉を筆頭とする使節を派遣してきた。

使節の持つ朝鮮の国書は偽国書に対する返書であるから、そのまま差し出されては具合が悪い。ここで再び朝鮮の国書が偽造された。
この取替えは使節の隙をうかがって智永自らが行ったという。宗氏は日朝両国の国書を偽造したのである。この偽国書のやり取りの上に慶長14年(1609年)5月慶長条約(朝鮮では己酉約条という)が結ばれ、両国間に通交に関する条約が成立し、正式に交易が再開された。

柳川調興と宗義成の不和

慶長18年(1613年)に柳川智永が没し、調興が家督を継いだ。宗氏においても慶長20年(1615年)正月に義智が死去して、義成が封を継いだ。
調興は慶長8年(1603年)に江戸で生まれ、その後駿府で家康に小姓として仕え、家康没後は秀忠に近侍していて幕閣にも知己が多かった。
こういう背景もあって一歳しか違わない義成との間が次第にぎくしゃくとしてきた。調興にすれば、先二代に渡り宗氏を支え、さらに日本の唯一の外交であった朝鮮との国交回復を成し遂げたのは実質的に柳川氏の力であった。

それが証拠に柳川氏の幕府での評価は高く、また朝鮮側も柳川氏に一目置いている。しかるにわずか2千石の領地とは、あまりに少ないということであろう。
さらに藩主義成に替わって領内支配や朝鮮との交易の指図も実質的に柳川氏が行っている現実から、ついに調興は宗家から独立して幕府直参となるべく画策する。
この独立の基盤としたのが柳川氏の領地2千石であった。2千石の支配者が柳川調興であることは事実であり、このこと自体は問題ではない。

問題は誰から与えられたかということである。調興は幕府からと言い、義成は違うと言う。宗氏側は本多正純の意向で与えられた千石はともかく、もともと薩摩出水郡に与えた千石の方は宗氏からの支給であるとした。
調興の側は独立を目指して画策する中での主張であり、義成は独立など認めるわけにはいかないから、両者の間はいつまで経っても平行線のままである。
結局、寛永3年(1626年)に江戸で調興と義成の間で話し合いが持たれ、諸家からの仲介もあって、このときは調興が折れた。

だが、これで調興が独立をあきらめたわけではない。いずれにしても宗氏からの独立の意図はあからさまになってしまったわけで、調興と義成の間の不和は続く。
5年後の寛永8年(1631年)に調興は再び義成に所領返還を申し入れる。義成は当初慰留を図ったが調興の姿勢は強硬であり、ついに義成は幕府に訴えた。これに対し調興も義成横暴を訴え出る。
この事態を幕府では初め、よくある君臣間の不和に基づく御家騒動と思っていたが、寛永10年(1633年)に調興から国書偽造が暴露されるにいたって大事件となった。
さらに元和7年(1621年)には無許可で国王使を朝鮮に派遣していたことも発覚し、国家の一大事となった。

騒動の結末

幕府の取り調べに対し調興は、これらは全て義成が主導して行ったと主張し、義成は対朝鮮外交は柳川氏に任せており、柳川氏の独断で行われたと述べた。
幕府は対馬に役人を派して証人の調べを行い、将軍家光自ら老中・諸大名列座の中で裁決する。義成はその席で不正については関知しておらず、調興の権勢を恐れて家臣が義成に不正を報告しなかったために、一切が不明であったと答えた。
結局、義成の言い分が認められて、義成は幼少であったために国書偽造への関与は認められず、国王使派遣問題も柳川氏の独断とされた。

結果、義成は一切咎めなし、調興は津軽に流され、調興の家人松尾七右衛門らは死罪となった。また、国王使を勤めた僧規伯玄方、副使であった義成の従兄弟の宗智順は奥羽への配流となる。
義成の夫人は日野大納言資勝の女で、家光の正室鷹司氏と親戚であったために、裁決に影響したとされる。
また、田代領のうち本多正純の意向による千石は義成も係争しなかったために柳川氏固有の領地であったことが既成事実になってしまい、この千石は幕府に返還された。
以上が柳川一件であるが、国書偽造という大問題が背景にあり、単なる正悪の対決で決着をつけるわけにもいかなかったことが、このような結果を生んだといえる。


本稿は新選御家騒動上巻・柳川一件(新人物往来社)、別冊歴史読本「御家騒動読本」・柳川一件(1991年新人物往来社) を参考に書いています。

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