歴史の勉強

津和野騒動

山陰の小京都とも呼ばれ、観光地として有名な石見国津和野は、千姫事件がもとで元和2年(1616年)に江戸屋敷に立て籠もり、自刃して果てた坂崎直盛が改易になると、短い天領期間を経て、翌元和3年7月に因幡国鹿野から亀井政矩が4万3千石で入封した。
亀井氏の出自は宇多源氏佐々木氏流とも紀伊の鈴木氏ともいうが、信頼できるものではなく、はっきりしない。歴史の上に現れるのは戦国期からで、尼子氏の重臣として活躍した。
秀綱のとき子がなく、女婿であった山中鹿介が亀井氏を継いだが、鹿介の兄が早世したために、鹿介は山中家に戻った。
鹿介は妻の妹を養女にし、同じく尼子氏の重臣であった湯新十郎慈矩を婿に迎えて、亀井氏を相続させた。この慈矩が政矩の父である。

周知のように尼子氏は毛利氏により滅ぼされたが、鹿介や慈矩ら重臣たちは、京に上り東福寺にあった尼子の血を引く孫四郎を還俗させて、勝久と名乗らせ尼子再興をを図る。
鹿介、慈矩らは豊臣秀吉に与して毛利に対抗したが、籠城した上月城を攻められて、勝久は自害し、鹿介は毛利氏に殺されて再興は失敗に終わった。
このとき慈矩は生き残り、尼子の重臣たちは慈矩のもとに集まった。すなわち多胡、湯、塩冶、加藤、富田、牧、磯江などの諸氏である。

慈矩はその後も秀吉に与し、天正8年(1580年)に因幡国気多郡に1万3千石を与えられて大名となり、九州征伐や文禄・慶長の役でも活躍した。
関ヶ原役では東軍に属し、加増を得て3万8千石となったが、慶長17年(1612年)に鹿野で没した。跡を政矩が継ぎ、この政矩が津和野に移された。
政矩は幼少時より家康に仕え、さらに秀忠の近習となった。これは父である慈矩の希望によるものといわれるが、外様の慈矩の生き残り策の一環であることは間違いないだろう。

慶長14年(1609年)に家康の命により、松平(松井)康重の女を娶り、5千石を賜っていたので、父の遺領と合わせ4万3千石となった。
政矩は襲封すると、伏見で浪人をしていた多胡主水真清を補佐役として重臣に据えた。主水は慈矩の甥にあたり、慈矩に子ができなかったときにその養子になったという。
しかし政矩が生まれると慈矩に疎んぜられ、出奔して浪人となった。したがって政矩が話を持って行っても、拒んだといわれるが、政矩の強い説得にあって補佐役として初期藩政の確立にあたることとなった。 ちなみに石高は1000石であり、これは1600石の多胡信濃(のちの勘解由)に次ぐものである。この主水と信濃(勘解由)が津和野騒動の中心となるのである。

政矩は元和5年(1619年)8月、病をおして上洛したが、伏見狼谷で落馬し、それがもとで30歳で死去してしまう。
後継の男子大力はまだ3才であり、幕法では嗣子幼少の理由で改易となるところだが、大力の生母光明院の父が家康の信任厚い松平康重であったことから、特に相続を許された。
康重が大力の後見を務め、重臣一同は公儀への忠誠と大力への服従を誓い、さらに家中が団結して、徒党を組んで分裂することがないよう誓約した起請文を提出した。

このことはs津和野藩政が幕府の監理下におかれたことを意味するし、亀井家中の複雑な事情を考慮して上でのことであった。
というのは、先に述べたように亀井家の家臣団は、かつての尼子の重臣たちの集合体といってもいいからで、大力の祖父慈矩も同僚であったからだ。
それもわずか30年ほど前のことである。しかも出奔していた主水を高禄をもって誘い、重臣に据えたのだ。幕府が騒動を警戒するのも当然である。
起請文の日付は元和8年(1622年)正月21日、連署した重臣は神代次郎兵衛(300石)、塩冶内匠(350石)、牧図書(600石)、磯江平内(500石)、河田忠右衛門(300石)、加藤蔵人(400石)、塩冶権兵衛(400石)、多胡信濃(1600石)、草刈三郎右衛門(300石)、湯木杢(400石)、湯掃部(500石)、新庄左馬助(300石)、 多胡主水(1000石)、富田織部(400石)、牧四郎兵衛(300石)、塩冶大学(500石)、湯八郎右衛門(600石)、加藤理右衛門(200石)の18名にのぼる。
それから13年目の寛永12年(1635年)に騒動は起きた。

津和野騒動は簡単にいえば、幼君のもとで家中が二派に分かれて、お互いがその正当性を主張し主導権を取ろうとしての争いである。片やの親玉は多胡主水、もう一方の親玉が多胡勘解由である。
多胡主水は小原豊前守宗勝の二男で、母は亀井慈矩の姉である。先に書いたように伏見で浪人となったが、そのときに外祖父の姓である多胡を名乗った。
一方、勘解由の方は尼子の家臣多胡治右衛門重盛の二男であり、姉が亀井慈矩に嫁ぐなどしており、重臣の筆頭といっていい。勘解由にすれば、新参者の主水が面白くなく、両者派閥を組み、その争いは日を追うごとに激しくなっていった。

騒動の直接の幕が開いたのは、寛永12年4月6日のこと、多胡勘解由、湯太郎左衛門、湯八郎右衛門、塩冶権兵衛、富田織部、塩冶弥五衛門の6人の重臣が、松平康重をはじめとする一門に訴状を提出することで始まったのであるが、その前年の寛永11年10月に津和野領内飯田村の増野源兵衛という元庄屋が江戸町奉行に訴状を提出している。
その訴状では、主水や湯木杢の悪政により領内の百姓の生活は苦しく、妻子まで売り払うような状態であり、自分源兵衛は年貢算用のあり方を巡って役人と対立して浪人したが、それが為に兄弟親戚が主水や木杢らによって処刑されてしまったと書かれ、その理由を聞かせてほしいとあった。さらにほかにも主水と木杢の悪政批判も書かれていた。

この減兵衛の訴状に対して主水と木杢はその大半を否定し、源兵衛は年貢に欠損を出し出奔したので、兄弟親戚はその見せしめの為に処刑したとの返答書を出している。
さらに源兵衛は、湯八郎右衛門と共謀して蔵米を盗み萩に出奔し、嘘の訴状を提出したことが判明した。この源兵衛の一件は松平康重の耳にも入ったが、どうなったかは不明である。
いずれにせよ源兵衛の一件は、勘解由らが画策した疑いが濃厚であるが、それから半年ほどして勘解由らから正式な訴えがなされたわけである。

勘解由らの訴状の内容は11ヶ条あり、主水と木杢が藩主大力と重臣家臣らとの間を隔離し、専横を図り、金品の流用や着服など不正を行っているほか、飯田村増野源兵衛の一族を処刑するなど、悪政に走っている。
また家臣の相続や扱いに依怙贔屓があり、出府する際に倅を伴い、他人の脇差を取り上げるなどの行動に及んでいる、というのが大意である。
要するに藩主を専有して、やりたい放題に及んでいるという内容であった。これに対し主水と木杢は、そのすべてに対して答弁書を提出している。

その答弁書の冒頭で、そもそも重臣らの訴状の提出自体が、起請文で戒めている徒党行為にあたると痛烈に皮肉ったあと、源兵衛一件は年貢欠損と出奔の見せしめの為であり、家臣に対する依怙贔屓はなく、そもそも相続や処遇は後見役の承認もとっている。
さらに金品の着服も不正もなく、藩主大力と重臣家臣の間を隔離した事実もないと言い切っている。
次に出府の際に倅を伴ったのは、兄は奏者番、弟は小姓を務めるために伴ったのであり、脇差の件は無くしたもので後に代りのものを与えている、としている。

またこの答弁書とともに、勘解由ら訴状提出者6名の専横ぶりを記した訴状も併せて提出している。
その訴状によれば、勘解由らは藩政に非協力的であり、大火で藩主が焼け出された際に、警護の協力を求めても応ぜず、公儀御用の材木搬出の際には現場にも行かず、秋の検見実施にも不参加であり、湯八郎右衛門などは奉行職にありながら仮病を使って出仕しない、などと具体的に書かれていた。
また彼らは藩主大力や松平康重の意向を無視して出府したうえその路銀を要求し、源兵衛一件も彼らが画策したものであるとしている。ほかにも具体的な事実を挙げて、彼らの専横を批判している。
さらに勘解由らは主水の長男監物が、伏見で辻斬りをしたという偽証を仕立てた。浪人三宅十助が勝田七郎左衛門から聞いた話ということにしたのだが、これについては勝田七郎左衛門が、そんな話は全く知らないと述べて、事実無根とされている。

両者からの訴状や答弁書を受けて、寛永12年5月5日(7日とも)及び29日に、松平康重、金森出雲守重頼(大力の正室の父、飛騨高山藩主)、寺社奉行松平出雲守勝隆、大目付柳生但馬守宗矩、同神尾内記元勝の立会いの下で、主水・木杢と湯八郎右衛門、塩冶権兵衛、塩冶弥五左衛門、富田織部(勘解由と湯太郎右衛門は在津和野のため欠)の対決となった。
この結果、主水と木杢の答弁には越度なく、一方勘解由らの訴状にはまったく根拠なく、また一言も申し開きができず、勘解由らの全面敗訴となり、次いで8月21日に柳生宗矩より「大力次第」との将軍家光の上意が達せられた。つまり主水側の全面勝訴である。

これにより湯八郎右衛門と塩冶権兵衛は松平康重へ、塩冶弥五左衛門と富田織部は金森重頼にそれぞれ預けられたが、湯八郎右衛門は岸和田に送られる途中、脱走して高野山に逃げ込んだ。
そのため高野山に使者を立てて、捕えられている。その後4人は岸和田と高山で切腹となった。また勘解由と湯太郎右衛門は追放され、源兵衛と三宅十助は死罪となった。
同時に勘解由派の磯江八左衛門以下多数(人数は46〜77人と諸説あってはっきりしない)が追放や改易となった。
一方、主水は600石加増されて1600石となったほか、主水派の多くの者に加増がなされている。 この騒動により津和野藩の家臣団は再編成され、同時に中世的な体制を脱した。多胡主水は重臣層を一族で固め、その後裔も津和野藩政に大きな役割を担った。

本稿は「御家騒動の研究」(清文堂)のうち石見国津和野藩、津和野騒動についてを参考に書いています。

亀井氏のページに戻る
大名騒動録の表紙に戻る
歴史の勉強
Last modified -