歴史の勉強

津軽騒動

近世大名としての津軽氏の礎を築いたのは、津軽為信である。北辺の地にあって敵する南部氏と抗争しつつ地歩を固め、中央へも眼を向けて中央政権への服属を決断して、大名の地位を確立した。英傑と言ってよい。
為信には3人の男子がおり、長男を信建、二男を信堅、三男を信枚といった。このうち二男信堅は早逝し、関ヶ原役のころには信建と信枚が津軽氏の将来を担う2人に育っていた。
関ヶ原役は全国の諸大名にさまざまなドラマをもたらした。中には東西両陣営を股に懸け、どちらが勝っても家が安泰となるような動きをした大名もあった。皆、家を守るため必死である。

津軽氏の関ヶ原の際の動静ははっきりと伝えられていないが、津軽為信も東西を股に懸けていたらしい。
というのは、豊臣政権下における津軽氏の後ろ盾は石田三成であったからだ。敵対する南部氏の後ろ盾は前田家であり、前田家は南部氏の為に津軽氏を逆徒として豊臣秀吉に認識させたほどであった。
これを覆し、津軽家を秀吉に認知させたのは三成であったという。その後も前田家は津軽氏を排斥し続け、文禄の役の際も肥前名護屋の陣営において為信を蔑視したが、これも三成が取り成したとする。
為信は三成に恩義を感じ、関ヶ原の際にもすんなり家康に与することはできなかった。為信は長男信建を大坂城に入れ、三男信枚は兵を率いさせて家康本陣につけ、自身は京にいて動かなかった。

結局、関ヶ原での家康の勝利によって大坂にいた信建は京で蟄居、三男信枚が実質的に為信の後継者となった。
為信はその後、津軽の地で藩政の基礎を固めるが、その間の信建の動静は不明である。津軽に帰国したともされるし、京にい続けたともされるが、慶長12年(1607年)に死去したとき、京で病に臥せっていたというのは事実である。
この慶長12年という年は、津軽家にとって不幸が続いた年であった。10月に信建が死去し、12月には為信が京で客死している。
為信が京に行ったのも信建危篤の報に接したためであり、為信はその死に間に合わなかったばかりか、自身も京で病に臥し、そのまま死去してしまった。

ここで三男信枚が為信の後継として津軽の家督を許されたと史書は述べているが、現実にはこの相続に異議が出た。長男信建の子大熊(熊千代)が正統な後継者であるというのである。
この異議は義叔父の津軽左馬助信広や信建に従っていた重臣たちにより建議され、幕府に対して訴状が提出された。
それによれば、津軽信枚は我儘であり、惣領の筋目を違え、このままでは津軽は庶流の国となり、家臣領民一同迷惑このうえないというのである。
なぜ、このような異議が出されたかというと、一説に大熊の母方に南部家の血筋があるためという。南部の一族である一戸氏の姻戚の娘が信建の奥に入り、大熊を生んだというのだ。
信広の戦略は南部家の血を引く大熊を擁立することによって、対立する南部家との仲を好転させ津軽家の安定を図り、自身の地位を確立するというところにあったのであろう。
確証となる史料があるわけではなく、まったく根拠に欠けるといえばそれまでだが、いかにもありそうな話ではある。

信広は訴状を提出するとともに、既成事実を積み上げるために大熊を江戸に向わせたが、これに気づいた高坂蔵人という重臣が大熊一行を追いかけこれを阻止し、信広の計画は頓挫した。
しかし信広は諦めず、次には自ら手勢を率いて大熊を江戸に入れて、津軽の後継者としての箔付けに躍起となった。
時の幕府の実力者は本多正信・正純父子であり、信広は本多父子に対して相当な根回しを行なったようである。
これにより信広らの訴状は正式に幕府に取り上げられることとなった。訴状を取り上げるということは、基本的には訴えを認める可能性がかなり高いということであり、信広の画策も成功したかに見えた。

だが老中安藤直次が猛然と反対を唱える。
まず第一に信枚後継は為信の遺言であるという。為信は自身の後継に信枚を考えていたようで、これは関ヶ原役とその後を考えれば当然の選択であり、さらに信建には粗暴な面があったようで、為信はこの信建の性格を心配していたようだ。
第二には関ヶ原役の際における信枚の行動を評価すべきであるという。津軽氏で実際に家康に味方し、それを行動で示したのは信枚だけであった。戦力としては取るに足らぬほどで、ほとんど活躍もしなかったようであるが、積極的に家康に与した行動は評価しなければならない。
第三に信枚は将軍家にもお目見得を済ませ、日頃から奉公しているのに対して、大熊はわずか9歳であり、北狄に備える津軽の地を任せるにはあまりに心もとないという。
いずれも正論であり、いかに本多父子といえど、この論の前には大熊家督を押し通すわけにはいかなかった。

慶長14年(1609年)正月25日に幕府は、津軽年寄衆宛に津軽の家督は越中守信枚と決定し、津軽左馬助は追放とする、という文書を下された。
信広、大熊は江戸で蟄居となったが、勝った信枚側は信広・大熊一派に対して、徹底的な弾圧を加えている。
特に津軽では、信広の居城である大光寺城の明け渡しを拒否した信広の家臣が城に立て籠もって抵抗したために、高坂蔵人率いる討伐軍との間で戦闘となった。
結局、大光寺城に籠った一党は全て討ち死にし、さらに信広・大熊派に与した関ヶ原の際の功臣金主水信則も知行召し上げの上切腹、大熊の母方の一戸一族もことごとく討伐された。

以上が近世津軽氏初頭における後継争いで、一説に津軽騒動と呼ばれる御家騒動である。
主役の津軽左馬助信広という人は、もと小田原の後北条氏の家臣で、大河内兵部建広と名乗っていたが、後北条氏の滅亡後慶長4年(1599年)為信の二女富姫の婿となり、大熊の後見を託された人物である。騒動後の消息は知れないが、「寛政重修諸家譜」には津軽宗家、黒石津軽家とともに津軽左馬助家の記録があって幕末まで続いているという。
また大熊のその後についても、加藤肥後守に仕えたが元和8年(1622年)12月28日に23歳で死去したとも、岩木山で死去したとも、元和元年(1615年)16歳で病死したとも伝えられているが、いずれにしても若くして死去したようである。

参考文献:奥羽津軽一族(新人物往来社)、歴史と旅昭和54年3月号「実録御家騒動」(秋田書店)

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