歴史の勉強

富田信濃守信高

山陰、出雲国に月山富田城という戦国期に尼子氏が築いた名城がある。この富田城を築いたのが、本稿の主人公富田信高の祖である師泰という人物である。
その後、富田氏は近江に流れ、そこで富田信広が信長、次いで秀吉に仕えて、その側近として重用されて伊勢安濃津(津)5万石に取り立てられた。
このころ信広の嫡子信高も5万石のうち2万石を領しており、秀吉から与えられた朱印状も父子連名で宛てられた。慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去したが、翌慶長4年にはその後を追うように信広も死去した。
嫡子である信高が安濃津5万石を相続した。信広は秀吉側近であったころ、石田三成と反目したらしい。仲が悪かったという。そういうこともあって信高も三成とは関係が悪く、当然の如く家康に接近した。

やがて関ヶ原の戦いとなるが、このとき家康に属して会津に向っていた信高のもとにも、三成挙兵の報がもたらされる。さらに三成は伊勢国攻略を目論んでいるという。
濃尾国境を流れる木曽川を防衛線と考えれば、側面にあたる伊勢を押えることは重要な戦略だから不思議はないが、伊勢に所領を持つ信高としては気が気でない。
家康からも急遽帰国命令が出て、自領の防衛にあたることになった。これは伊勢上野に所領を持つ分部光嘉や松坂の古田重勝も同様であった。
帰国後の信高は分部光嘉とともに安濃津城に籠城する。三成方の西軍は伏見城攻略の余勢をかって安濃津に押し寄せ、城を包囲した。

包囲陣の大将は毛利秀元、3万の大軍であったといい、吉川広家、長束正家、長宗我部盛親らも加わっていた。対する籠城側は松坂からの援兵を加えても1700名程度に過ぎなかった。
圧倒的に西軍が有利であり、三の丸、二の丸が落ち、分部光嘉は負傷した。このとき信高の妻が緋縅の甲冑を着け、片鎌の手槍を振って戦った話はあまりにも有名であるが、高野山の木食上人興山が仲に入り城は開城、責を負って信高は光嘉とともに高野山に入った。
戦後、家康は信高、光嘉を賞し、信高は2万石を加増され7万石となった。
この関ヶ原の戦いで家康は天下を獲り、幕府を開き、さらに将軍位を秀忠に譲って徳川家の覇権を確定させる。しかし大坂にはまだ一大名になったとはいえ、豊臣秀頼がいる。

元和元年(1615年)に豊臣家が滅ぶまでの15年間、家康は豊臣対策に専心したといっても過言ではなかった。その過程で最終的に大坂を攻めることを決意した。
大坂攻めの際の前進基地であり、後方兵站地として伊賀、伊勢を考え、ここに外様大名ながら家康の腹心となっていた藤堂高虎を置くこととし、信高は高虎と交代する形で、伊予板島(宇和島)10万1千石に転封となった。これが慶長13年(1608年)9月15日のことである。
その転封の3年ほど前の慶長10年(1605年)6月、まだ信高が安濃津の復興に努めているころ、事件があった。坂崎直盛に訴えられたのだ。
坂崎直盛、のちに千姫を大坂城から救い出して有名になる人物である。この直盛と信高は縁戚であった。先の安濃津城籠城戦で活躍した信高の妻は、備前岡山の宇喜多氏の一族宇喜多忠家の娘であった。
坂崎直盛は忠家の長男であり、信高の妻は姉(妹説もあり)にあたる。関ヶ原の戦いで主家の宇喜多家は西軍であり、宇喜多当主の秀家は副大将格であったが、秀家と衝突して脱藩した直盛は東軍につき、西軍の猛将島勝猛を破り、戦後はその功により石見津和野3万石の大名となった。

この直盛の甥に宇喜多左門という男がいて、人を討って逃走し、信高の許に身を寄せた。左門は信高の妻にとっても甥にあたるから、それを頼ったのかどうか真偽のほどはわからない。
このことが直盛の耳に入り、直盛は信高に談判に及んだ。直盛という男はのちの千姫事件を見ても明らかなように、典型的な戦国武将で、直情径行的な人物だ。
信高は直盛の申し入れに対し、行方知れずだと答えた。これも本当に知らないのか、かくまっているのかわからない。
直盛は安濃津城を自ら探索しようとしたともいい、また当時信高は伏見にいたので、伏見で一戦に及ぼうとしたとも言うが、いずれにしても穏やかな話ではなく、周囲の諫言もあって家康に訴えた。
家康は秀忠に訴えるように諭し、直盛は江戸で秀忠に再び訴えを起したが、証拠がないとして訴え自体が却下された。直盛の性格からして面白かろうはずがなく、これが数年後に火を噴く。

さて、板島に移封された信高は、丸串城に拠って領内の基礎固めを行なった。その中で慶長15年(1610年)から佐多岬半島の地峡の開削をはじめた。
塩成、三机間に運河を開き、海上交通の難所とされた佐多岬沖の通過を避け、あわせて良港であった三机の港を九州への拠点港として整備しようとしたのである。しかし、これが相当の難工事であり、動員された領民の怨嗟の的となったという。
一方の左門の方は慶長10年以来、肥後に逃げていたが、肥後の太守加藤清正の死後に上方に向おうとして三机に立ち寄り、米を無心した(富田宗清覚書)とか、信高のもとで身を隠くせなくなって、信高と親しかった日向国延岡藩主高橋元種のもとに奔った(台徳院殿御実記)など、いくつかの説がある。
が、左門の家臣の一人が、左門を裏切って直盛に帰参を願い、左門と信高の妻との手紙を、信高が左門を匿っていた証拠として直盛に提出した。

これに狂喜した直盛は、再度幕府に訴えを起し、慶長18年(1613年)10月8日、江戸において秀忠の前で直盛と信高の直接対決となった。
この結果、直盛の勝訴となり、訴えられた信高と元種は改易となった。信高は所領没収のうえ陸奥岩城平藩主鳥居忠政に預けられ、寛永10年(1633年)2月29日に配所で没した。
信高の長男知幸(ともゆき)はのちに水戸中納言頼房に仕え、二男知儀(とものり)は綱吉に仕え、知儀の子の知郷は7千石の旗本となった。
連座改易となった高橋元種は、筑後柳河の立花宗茂に預けられた後、陸奥棚倉の丹羽長重に預けられて同地で没した。
また、信高の弟の下野佐野藩主佐野信吉も連座して改易となり、信濃松本藩小笠原秀政に預けられた。
一方の直盛は、この2年後の元和元年(1615年)5月の大坂夏の陣で、大坂城内から秀忠の娘で豊臣秀頼の正室になっていた千姫の救出に関わり、1万石を加増された。
このとき家康は千姫と直盛の婚姻の約束をしたが、後日千姫は姫路藩主本多忠刻に嫁ぐこととなったために、怒った直盛は千姫の行列を襲い姫を奪う計画を立て、それを知った幕府は直盛の屋敷を囲み、柳生宗矩が直盛に自害をさせたという。元和2年9月11日のことで、直盛も結局は改易となった。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、歴史読本スペシャル29「お家取り潰し」

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