歴史の勉強

徳川忠長

徳川忠長は慶長11年(1606年)に二代将軍徳川秀忠の第3子として生まれた。長子の長丸は早世し、次子が三代将軍となる家光で、家光と忠長は同母の兄弟であった。
母は於江与の方。織田信長の妹で浅井長政に嫁し、長政滅亡の後は柴田勝家に再嫁して勝家とともに越前北庄で死んだお市の方の女である。
於江与には姉が2人いて、長女が秀吉の側室となり秀頼を産んだ淀殿、次女が京極高次に嫁した初であった。於江与は美しくもあり、また勝気であったが、そんな於江与には秀忠も頭が上がらなかった。
秀忠は生まじめで律儀な男であり、於江与に遠慮して側室すら置かなかった。於江与は慶長9年(1604年)に男子を産み、その子は竹千代と名付けられた。のちの家光である。

竹千代には乳母がつき、もっぱら乳母の下で育てられた。乳母の名はお福、のちに春日局と呼ばれる人物である。お福は信長を本能寺に襲った明智光秀の重臣斉藤利三の女であった。
於江与から見れば母お市の方の兄に謀反を起した人物に連なるわけだから嫌悪感を覚え、お福と於江与は対立していったとする説も根強いが、浅井長政も信長に反逆して滅ぼされているし、長姉の淀殿などは柴田勝家を滅亡させた張本人の秀吉のところに側室として入っている。
時代的な感覚からいっても、於江与がお福を本能寺にまで遡って恨んでいたとも思えない。それほど恨んでいたなら、乳母になることを反対すればいいだけだが、そんな形跡もない。穿ちすぎだろう。

江戸幕府は家康、秀忠と経て、その体制が磐石なものになったのは三代将軍家光のときであったが、その功績は家光によるものではない。
家光将軍の能力は並であり、けっして卓抜したものではなかった。家光が実績を残しえたのは、家康と秀忠の治世の余光と、秀忠時代からの有能な重臣がいたためである。
その家光の少年時代、竹千代と称していたころは、どちらかというと陰気であったらしい。おっとりしていて無口であったという。
一方、竹千代の弟で国千代と称していた忠長の方は、兄に比べて才気煥発、明朗闊達であったという。国千代は於江与のもとで育てられ、於江与は国千代を溺愛した。

こうなると問題となるのが秀忠の後継ぎである。竹千代か国千代か、側室も置かない秀忠の正室が国千代を愛しているのである、周囲は敏感に悟る。
この頃はまだ長子相続制は必ずしも確立していない。理由はあるにせよ秀忠自身も兄秀康を差し置いて将軍になっている。国千代が三代将軍になることは、おかしいことではない。
秀忠自身も於江与の影響で、国千代を後継ぎに考えていたらしい。とにかく後継ぎは国千代有利に展開し始めていた。
この情勢にお福は起死回生の策に出た。竹千代対国千代というのはお福対於江与の戦いでもあるのだ。しかも2人とも勝気であり、頭もいい男勝りの性格だから、意地を張り合って妥協などしない。

お福はまず幕閣の実力者土井利勝を味方にする。利勝こそ幕府の体制固めの功績第一といっていいほどの人物であったから、長幼の序を誤っては世の乱れの基と冷静に判断して、竹千代に軍配を上げる。
利勝の後援を得て次にお福は駿府の家康に直訴した。家康の裁定は明確であり、竹千代後継は確定した。元和元年(1615年)10月頃のことというから大坂の陣が終った、家康最晩年のことである。家康の最後の仕事のひとつとなった。
父家康を畏怖する秀忠であるから、於江与がなんと言おうが、この裁定は絶対であった。於江与はがっかりしたろうが。こればかりはどうしようもない。
どちらにしても国千代は将軍の直弟であり、しかるべく処遇はされるから、その処遇をできるだけ有利にするしかない、と考えたし、これは国千代も同じで、しかるべく処遇されるはずと思い込んだ。

物心つかないうちから父母に溺愛され甘やかされて、何の苦労もなく育ち、一時は次期将軍かもしれないと噂されて周囲がチヤホヤし、後継競争には破れたとはいえ二代将軍の子であり、三代将軍の弟であるという境遇である。
こういう過程で育ったわけだから我がままであり傲慢である。それは必ずしも本人が意識しているわけではなく、そういう世界観しかもてないのだ。
それを補正して、しかるべき人物にするのが帝王学であり周囲の役目なのだが、国千代の場合は父母の溺愛、偏愛の情が強すぎたから周囲が遠慮してしまったのだろう。ここに国千代の不幸があった。
有名なエピソードがある。国千代8歳のとき、というから元和4年(1818年)の頃だろう、江戸城西の丸の堀で国千代が鉄砲で鴨を撃ち落した。
於江与は喜んでその鴨を料理させ秀忠に供した。鴨を国千代が射たと聞き最初秀忠は目を細めたが、場所が西の丸とわかると顔色を変えて「自分が大御所からいただき、後に竹千代に譲るべきこの城に鉄砲を向けるとはもってのほかだ」と、あらあらしく席を立った。温厚な秀忠にしては珍しいことである。

元和3年(1817年)信濃小諸10万石を賜ったのを皮切りにして、国千代=忠長は将軍の弟らしいスピードで出世する。翌元和4年に元服して忠長と名乗り、従四位下左近衛権少将に叙され、甲斐一国を加増された。
元和9年(1823年)秀忠は将軍位を家光に譲り西の丸に移って大御所と呼ばれる。同時に忠長は従三位権中納言に進む。
寛永元年(1624年)に駿河、遠江両国を与えられ、55万石の領主となり駿府に居住した。駿府は東海道の要衝であり、家康が隠居城とした特別の地である。
家康没後にお気に入りの子供であった十男頼宣が領していたが、頼宣を紀伊に移して忠長に駿府が与えられたのである。55万石といえば御三家筆頭の尾張家62万石に次ぎ、紀州家と同じである。
さらに寛永3年(1626年)には従二位権大納言に昇る。駿河大納言といわれたのはこれ以後のことであるが、21歳の青年には申し分ない待遇といっていい。

しかし本人には不満であったようだ。駿遠両国加増の際に上使として、それを伝えに来た青山幸成が「おめでたき事」と祝ったのに対し、「将軍の実弟であれば当然のこと、何がめでたい」と言い放ったという。
このときは付家老のひとり鳥居成次が直諌して、忠長を御礼言上に向わせたという。一事が万事の調子であった。自分の思いが適えられない限り、それが不満となって鬱積されていき悪循環となるのだ。
寛永3年(1626年)7月の家光上洛の際に大井川に舟橋を架けた。見方によっては家光の渡渉の便を図ったと取れなくもないが、無許可でやったのがまずかった。大井川は幕府の防衛線の重大なポイントである。無許可で橋を架けるなどとんでもないことであり、不興をかった。
また駿府では武家屋敷造成のために寺社を郊外に移そうとして、反対されて摩擦を生じた。舟橋の件といい本人は深く考えずに地位をバックにして命じただけかもしれないが、周囲はそうは見ない。家光への挑戦であり、ますます両者は不和となる。

この年9月にはは忠長の最大の庇護者であった於江与が没した。これは家光にとっても忠長に遠慮しなければならなかった最大の障害がなくなったということだが、忠長はそんなことに気がつかない。
寛永7年(1630年)以降、忠長の乱行とされる事件が続く。まず同年11月の浅間神社の猿狩りである。駿河の浅間社は大同元年(806年)平城天皇建立以来800年の歴史を持つが、この一帯には多くの野猿が棲んでいた。
野猿は神獣とされていて、神域は殺生禁断の地である。だから猿が田畑を荒らしてもどうしようもなかったのだが、忠長は浅間山に入って猿狩りを行ったのだ。
家臣は諫止したが、「駿河の領主が領国の猿を狩るのに、何の不都合があるのか」と言い切り、1240匹といわれる猿を殺した。
ところがその帰途にわかに神経が狂い、輿の中から担ぎ手の尻を刺した。驚いた担ぎ手が逃げ出すと忠長は「首を討て」と叫び、とうとう担ぎ手を殺してしまったという。

いまひとつは翌寛永8年12月に小浜七之助手討の一件である。鷹狩りに出た忠長であったが、天候が急変し雪が舞いだしたので、小さな寺に入って休息した。
忠長は七之助に火熾しを命じたが、薪が雪に濡れていてなかなか火がつかない。いらだった忠長が催促し狼狽した七之助が炉の中に首を突っ込むようにして火を吹こうとすると、刀を引き抜いて一太刀で七之助の首を落としたというのだ。
一説には七之助は一行に遅れ、忠長が寺で休息しているのを気づかずに乗り打ちして馳せ去り、後で引き返してきたのだが、そのことを詫びなかったのを不快に感じて手討ちにしたともいう。
この件は七之助の父である旗本小浜忠隆によって幕府に訴えられた。幕閣では捨て置けずに付家老朝倉宣正を呼び出して責めた。

宣正は一身に責めを負い酒井忠行に預けられたが、これを聞いて忠長は罪は全て自分にあるといい、御三家や千姫、天海僧正などを介して宣正の宥免を願った。
この願いは聞き入れられたが、忠長は甲府に蟄居させられた。この頃、大御所秀忠はすでに病身であった。秀忠は忠長を見限っていたようだ。
一説にはかつて駿遠両国が与えられたときに秀忠に対して、「百万石か、大坂城をいただきたい」と書面で訴え、これを見た秀忠が忠長を見限ったともいう。
その秀忠も寛永9年(1632年)正月24日に死去し、家光は完全に天下を握り、忠長を庇うものはひとりもいなくなった。ここから翌寛永10年12月6日に忠長が自刃するまでの経緯は明朗さを欠く。
というより秀忠の死去により家光は忠長処分を誰に遠慮することもなく行ったということであり、それは忠長処分ありきであったからだ。

謀反説はある。ひとつは付家老朝倉宣正が謀反を進めたとし、または忠長が宣正を嫌い幕閣に専横を訴えたのに対し、宣正が忠長謀反を訴えたというもの。
朝倉宣正は忠長に連座して改易されるが、終始忠長に尽くした家臣だから、どちらもまったくの虚説である。
もっともらしいのが土井利勝の陰謀に乗せられたというもの。秀忠死去の際に利勝はわざと家光との不和を装い、そのことを噂に流した。
しばらくして利勝の名で諸大名に対して、「家光を除き忠長を将軍に立てよう」という内容の秘密の廻状が廻った。この書面を受取った各大名は直ちに幕府に届けたが、なかで忠長と加藤忠広だけが届けなかったというもの。
もちろん利勝の芝居であり、利勝にはそのような事実はない。忠広がこの年6月改易となったのも、この為だという。確かに忠広は忠長とは親しかったらしいが、忠広の改易は家政の乱れが原因であり、忠長事件とは無関係であろう。

どちらにしても今や忠長の運命は決まっていた。家光、春日局、利勝など実力者すべてが忠長処分を決めていたのだ。
甲府に蟄居していた忠長のもとに内藤伊賀守、牧野内匠頭が上使としてやって来て、「上州高崎の地で心静かに病気保養をさせるべし」と伝える。
早い話が高崎藩主安藤左京進重長に預けられたということだ。いくら忠長でも、それはわかる。小姓数名と槍一本、馬一頭で高崎に移った。
間髪を入れず幕府は永井信濃守、北条出羽守を駿府に、青山大蔵少輔、水野監物を甲府に遣して忠長の所領を没収した。付家老鳥居成次、朝倉宣正以下家臣20余名は流罪となった。
これが秀忠の死去した寛永9年正月から9ヶ月後の同年10月までのあいだに起きたことである。

さらに寛永10年(1633年)家光は側用人阿部重次を呼び、忠長の切腹を命じた。少年時代の悔しさであろうが、家光の冷酷さであろうか、重次に不首尾のときは刺し違えて死ねとまで厳命したという。
重次は高崎に向い、重長に面会して忠長切腹の意向を伝える。重長は、「これほどの大事、口上だけではなく御墨付をいただきたい」と言う。時間稼ぎであった。
重次も家光が冷静になって翻意するかもしれないと考えているから、江戸に戻り重長の意を伝える。家光は翻意どころか、直ちに一筆認めたという。
こうなってはどうしようもない。重長は雪の日に忠長の居館の周囲に鹿垣を結った。板囲いであったともいう。これを見た忠長は、その日の夕刻、童女2人を残して侍臣たちを下がらせ酒を飲んでいた。
そのうち童女ひとりに「酒をもう少し持ってまいれ」と命じ、もう一人には「肴をもってまいれ」と下がらせた。童女2人が戻ったとき、忠長は短刀で頸の半ばを刺し貫いて自害して果てていた。
まさに家光の執念による死と言っていいだろう。忠長には幸いなことに正室にも側室にも子はなく、その遺骸は高崎の大信寺に葬られた。

参考文献:大名廃絶録(南條範夫・新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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