歴史の勉強

龍野騒動

吉永昭氏の「御家騒動の研究」(清文堂、2008年)によれば、脇坂氏支配下の播磨国龍野藩で御家乗っ取りの騒動があったという。
この龍野騒動は、いわゆる埋もれていた御家騒動で、「龍野市史」や「龍野町史」にもまったく記述がなく、記録として残されているのが実録として「揖龍騒動記」が唯一であるという。
「揖龍騒動記」は上下二巻に分れ、現在残るものは万延元年(1860年)の写本であり、原著者が誰であるかなどはまったくわかっていない。
その内容は、江戸にいる幼君に仕える藩主側近と、国元で藩主後見役として実権を握る家老との対立抗争で、その対立がエスカレートして、家老による藩主毒殺が計画されるが、最後には陰謀が暴かれるという時代劇にありそうな筋である。

騒動が起きたのは龍野藩脇坂氏四代安興のとき。脇坂氏は初代安治が「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えら、大名に取り立てられた、典型的な豊臣大名である。
安治は加増や転封などがあり、最後は伊予大洲5万3千石となり、子の安元に家督を譲る。安元は元和3年(1617年)に大洲から信濃飯田に転封されるが、実子に恵まれず、弟安経を養子としたが殺害され、次いで将軍家光の信任篤い堀田正盛弟の安利を迎えたが19歳で早世し、正盛の二男安政を養子とした。
この安政が脇坂氏三代となるが、譜代の名門である堀田氏の出であったことから、天和3年(1683年)に願い出て譜代に列せられ、帝鑑間詰となった。いわゆる願譜代である。
脇坂氏先代安元が外様に不安を感じて、当時老中であった堀田正盛の二男安政を養子として、譜代へ列せられることを目論んだものと言われる。

脇坂氏が飯田から龍野に転封されたのは安政のときの寛文12年(1672年)5月であった。それまで龍野は藩主の交代が激しく、万治元年(1658年)に京極高和が丸亀に転封されて以来14年間に渡り天領となっていた。
城も破却されていたので安政は、幕府よりの借銀をもって築城を始め、また城下町の整備を進めた。安政は貞享元年(1684年)に五男の安照に家督を譲り隠居、以後安照-安清と継いで本稿の安興となる。
安興は先代安清の二男とも三男ともいわれ、享保2年(1717年)5月11日に生まれた。兄の安貞が早世したために安清の世子となり、安清が享保7年(1722年)2月9日に38歳の若さで死去したために家督を継いだ。わずか5歳の幼君であった。

5歳の幼君では政治は執れず、後見役がつく。後見役は家老の脇坂玄蕃であった。玄蕃の家は初代安治の子であった安重を祖とし、安治の時代から家老職にあった。
脇坂氏の家老職は国元2名、江戸表2名であったが、玄蕃の家は藩主一族の家老であり別格であったようだ。石高も1500石と最高であり、飛びぬけていた。
安重の跡は安直-安勝-安任と続くが代々が玄蕃を名乗った。この騒動の主人公は四代の安任である。この玄蕃安任は奸妄邪悪な心の持主で、藩主が幼く江戸にいるのをいいことに町人や農民に課役や御用金を課して栄耀栄華な生活をしていた。
しかし藩主一族であり家老一等でもあるので誰も諫言せず、玄蕃の奢りはますます昂ぶっていった。その贅沢と女の結婚などで公金を不正に使い込んだ。

享保19年(1734年)、17歳になった藩主安興が始めて帰国することになった。その準備のために帰国していた用人横田小助が財務内容を調べてみると勘定が合わず、小助は事実を江戸に帰って兄の江戸家老横田忠左衛門に報告した。
驚いた忠左衛門は自身で龍野に行って調べ、玄蕃の不正があることを知った。忠左衛門は江戸に戻り、江戸で協議の結果断固として玄蕃の不正を追求すべしとなり、再び小助が龍野に乗り込んだ。
龍野ではかねてより玄蕃を批判していた町奉行船越治郎衛門が協力することになり、調査の結果5千両が不足していることが判明した。
小助と治郎衛門は玄蕃と対決し、玄蕃は不正を認め半年間で返済すると約束した。しかし玄蕃に金の宛てはなく、腹心の田辺和助に相談を持ちかける。

和助はもともとは小身であったが、弁舌と算勘に優れていて、玄蕃に取り入って出世し、このときは100石取で代官と金方を兼ねていた。
和助はほかならぬ玄蕃の頼みに蔵米手形を商人に売りつけるなど、かなり無理をして資金を作ったが思うようには進まず、やがて安興の帰国も迫ったきた。
そこで玄蕃は安興を押し込め、親族である脇坂一学の子の図書を脇坂家の当主に据え、自らの娘を図書に娶わせて、一学とともにその後見となるという、御家乗っ取りの秘事を和助に打ち明けた。
これに対して和助は安興の周囲には忠義の家臣たちがついているために、押し込めは難しいと玄蕃の計画に反対し、安興を毒殺することを提案、玄蕃も賛成した。

玄蕃は江戸の一学を抱き込み、一学は自分でも安興の毒殺を諮ろうとするが失敗し、翌年の安興の帰国となった。享保19年5月に安興は初入部し、同月27日には玄蕃の屋敷に招かれた。
この席で和助が安興に毒饅頭を進めたが、その態度を怪しんだ安興の側近によって阻まれて失敗する。饅頭を奪い取った家臣がそれを庭に投げると、その饅頭をついばんだ鳥がたちまち死んだという。
安興は側近の家臣に守られて帰城し、一方和助の陰謀の発覚を恐れた玄蕃によって和助は上方に逃がされる。和助は京都二条寺町のあたりに潜んでいたが、船越治郎衛門によって踏み込まれて捕縛される。
和助は龍野に連れ戻されて吟味されたが、玄蕃、一学らの一味の連判状が見つかり、それによれば家中の三割もの士が名を連ねていた。

これらの処分を巡って重臣達のあいだで評議は割れたが、さすがに三割もの藩士を処分すれば世間の注目を集め、ひいては公儀にも知れて改易や減封になることは避けられない。
したがって内々に収拾するのが良策とし、玄蕃は押し込め隠居のうえ家督は子に継がせ、一学とは義絶、和助は盗賊の罪で処分することにし、連判状は焼却することとした。
和助は身分を剥奪されて名を三助と改められ、事件の内容を口外しないように歯を全て抜かれ、市中引き回しの上に鼻を削ぎ、最後に断首された。
玄蕃は閑居ののちに死去したが、その子たちも相次いで死去し、そのために家督は甥の右門が継いだ。一学は安興の叔父にあたるが義絶されて後に死去、跡を継いだのは図書であったが財政難となり龍野藩が援助した。

以上が「揖龍騒動記」の筋であるが、これを見て思うのは時代劇ドラマによくある典型的な御家騒動、いかにも系の騒動であるということだ。
「揖龍騒動記」では他にも不義密通や呪詛、裏切りなどの場面があって、いかにも実録らしくなっているという。また一学とは安興の父である先代藩主安清から2千石を分与された安利のことであり、直接に騒動に関係したために意図的に名を変えて登場させたらしい。
吉永昭氏は登場人物などの検証から、脚色はされているものの、騒動の事実はあったものとしている。そして幼君とそれを指示する江戸の一派と藩主の一族で実権を握る国元の一派の対立抗争が、藩主の初入部を機会に国元一派の敗北という形で収拾され、その背景には深刻な藩財政の窮乏があったとする。

すなわち、玄蕃のもとで家臣たちに対する半知(50%減俸)、町民らに対する御用金(強制寄付)、農民に対する年貢増微(課税強化)がなされ、それは家中や領民の強い反発を招き、その結果として玄蕃一派の収奪強化路線が行き詰まり、代って安興側近を中心とする派が台頭してきたと考えられる。
いって見れば藩内上層部の派閥対立であり、この騒動が表面化しなかったのは、ひとえにそれ以上に発展しなかったためであった。
これが出奔や出訴、大規模な一揆などに発展すれば公儀の知るところとなり、処分は免れないところであった。龍野藩にとっては埋もれた御家騒動で済んだことは良とすべきであろう。

本稿は「御家騒動の研究」(清文堂)のうち埋もれていた御家騒動(播磨国龍野藩、龍野騒動について)を参考に書いています。

脇坂氏のページに戻る
大名騒動録の表紙に戻る
歴史の勉強
Last modified -