歴史の勉強

田原藩の騒動

(一)比留輪山論争

三宅康勝が三河挙母から田原に転封されて6年がたった寛文10年(1670年)に、藩内の野田村と赤羽根村の境にある比留輪山の下草刈を巡って、両村に論争が起きた。
三宅氏入封までは比留輪山一帯は天領で、下草刈は野田村に許されていた。田原藩領は痩せ地が多く、肥料とするために下草は農民にとって重要な資源であった。
野田村は肥料とする下草にも恵まれており、藩内随一の農村となっていた。実に藩内の四分の一の収穫を野田村一村であげていたという。
一方、赤羽根村は遠州灘に面した断崖上の寒村で、土壌は悪く漁業も不振であった。この赤羽根村にとって比留輪山の下草刈は、喉から手が出るほど欲しい利権であった。そのため赤羽根村では、ことあるごとに比留輪山の利権を得ようと運動したいた。

寛文10年の夏は旱魃であった。藩では赤羽根村からの要請を入れて、比留輪山の下草刈の利権を野田、赤羽根両村で分けるよう指示を出した。
野田村は猛反発する。下草刈は慶長8年(1603年)10月に徳川家康が比留輪山に狩猟に来た際に、お墨付によって野田村に許された利権であり、田原藩先代の戸田氏のときには比留輪山は野田村の持ち山であったと主張した。
これに対し赤羽根村は古く池田輝政が支配していた頃、赤羽根村金能寺に比留輪山材木が寄進され、年貢を上納しているとした。
両村の対立は解けず、ついに寛文12年(1672年)3月28日に両村の間に流血の騒動が発生した。このときは村奉行が仲裁して一旦騒動は収まった。

しかし藩の方針が変更されたわけではなく、比留輪山は依然両村の入会地であった。このため野田村では江戸藩邸への出訴を計画し、延宝元年(1673年)に代表が出府した。
江戸家老鷹見弥一右衛門は藩の添状もない出訴は不届きと、これを取り上げず、代表一行は田原に帰された。この間、野田村では出訴した者の家族が捕らえられて入牢させられていた。
この事態に野田村では幕府に訴えることとして、代表10名が再び出府、訴訟の担当であった寺社奉行小笠原山城守に訴状を提出したが、奉行からは三宅家に再調査を指示するから藩主に再度訴えるよう告げられた。
代表は再度藩邸に訴えるが聞き入れられず、またまた寺社奉行に再訴。一方田原藩にも老中より再調査するよう指示が出されたが、藩でもいまさら野田村の訴えを聞くわけにもいかなかった。

こうなると野田村も藩の意地である。野田村では仕事を半ば放棄して訴えを通そうとするし、藩側も絶対に訴えを聞き入れない方針でのぞむ。
延宝元年8月25日、田原城内に野田村代表が呼ばれ藩側から最終回答が示された。「比留輪山は浮き山とし、松葉下草は野田村、新畑開拓は赤羽根村」というのが裁決であった。
野田村では当然拒否し、その結果庄屋四郎兵衛以下代表6名はその場で追放、家屋敷も闕所とされた。
この仕打ちに野田村では江戸への強訴を決め、代表の清右衛門、金兵衛、長久郎ら50名余を選び、一行は江戸に向った。
一行は江戸に着くと老中稲葉美濃守の邸に行くが追い返され、次に寺社奉行本多長門守邸に行くも、ここでも門前払いされた。

9月29日に老中の登城を狙って、老中土屋但馬守に直訴するも取り上げられず、次の久世大和守の行列がようやく取り上げてくれた。
やがて評定所に呼び出されたが、藩内の争いにつき評定所では取り上げるわけにはいかないとされ、直訴は不問に付すから国許へ帰るようにと諭された。
それでも野田村代表はあきらめずに江戸に留まり、翌延宝2年1月再び老中に駕籠訴し、2月4日に評定所で赤羽根村と対決することとなった。
2月4日、評定所に野田村、赤羽根村それぞれの代表と田原藩奉行市川十良右衛門が出頭、老中土屋但馬守、阿部播磨守、寺社奉行小笠原山城守、戸田伊賀守、本多長門守らのもとで対決が行われた。なお、戸田伊賀守は前田原藩主であった。

4月13日に裁決があり、比留輪山もとのごとく野田村に属すとされ、その利権は守られた。ただし野田村代表清右衛門は牢奉行預けとなり伝馬町に送られ、金兵衛以下6名は追放処分とされた。
清右衛門は田原藩に送られて野田村札木において斬首される。野田村の利権は守られたが、多くの農民の指導層は追放され、田畑は荒廃し、この後数年間は困窮を味わうこととなった。
一方、田原藩の取り潰しも論じられたようであるが、三宅家が譜代の名家であり、田原に入って日が浅かったこともあり不問とされた。

(二)三宅土佐守康直

文政10年(1827年)7月10日に、田原藩主であった三宅備前守康明が28歳の若さで急死した。
田原藩領は痩せ地が多く、また三宅家は1万2千石の小藩でありながら、城持ちであり家格が高かった。そのため藩士の数が多く財政難が続き、このころは公役の出費捻出すら難しくなっていた。
康明には異母弟の友信がおり、原則であればこの友信が康明の跡を継ぐことになるのだが、藩の重役は持参金付きの養子を迎えるほうが良いと考えた。
その養子とは姫路藩主酒井雅楽頭忠実の六男稲若である。

これに反対する一派、すなわち正論を通す藩士もいて、その代表が取次格の渡辺崋山であった。崋山の名で通っているが、崋山は雅号であり名は登という。
真木定前ら同志とともに稲若養子に抗するが、重役達に押し切られる。友信は病気により廃嫡し、康明重病につき酒井忠実六男稲若を急養子とする申し入れを藩では正式に幕府に行い、即日許可された。
この時点まで康明の死は秘されていたが、これをもって康明の喪を公にした。田原藩には稲若が迎えられて、十一代三宅康直となった。
友信はまだ23歳であったが、隠居格とされ江戸巣鴨の邸を与えられた。

崋山は新藩主康直に対して、世子を友信の子とするよう願い出る。康直はこれを許したほか、崋山を側用人としたうえで友信の附役も兼ねさせた。反対派への懐柔策であった。
康直襲封一年後の文政11年(1828年)田原城下大火、翌文政12年に巣鴨藩邸焼失、さらに田原城下大火と災害が重なる。
康直は持参金を使って罹災者へ成木や米、稗などを贈り、自ら食事も減じて倹約に励んだ。このころの康直は名君であった。

だが、すぐにおかしくなってくる。あまりにも田原藩の財政状態が酷すぎたのだ。文政13年(1830年)に康直は日光祭礼奉行を命じられた。
日光祭礼奉行とは将軍の日光代参で、鎧武者百人、長柄槍百本など規定の格式を用意しなければならず、しかも全て自前であった。この費用がでない。
康直は姫路藩の名家老河合準之助に相談をしているが、河合も高利貸への斡旋が精一杯であった。なんとか日光祭礼奉行は務めたものの、田原藩財政はさらに困窮して、藩士の俸禄を削減した。

やがて康直は幕府の奏者番への就任を望むようになる。奏者番とは江戸城中で大名や旗本が将軍に謁見する際に、奏上や進物の披露をしたり将軍家からの下賜品を伝達する役職であり、出世の登竜門であった。
一方で交際範囲は広くなり、それだけ金がかかる。このころ家老に就いていた崋山は猛反対して康直に意見をし、康直もこのときは引いた。が、奏者番への就任をあきらめたわけではなかった。
一方、天保12年(1831年)友信の側室於磯に男児が生まれ、しん(人偏に口)太郎と命名された。翌天保13年には藩主康直に女児が生まれた。
崋山はしん太郎を康直の女と結婚させ婿養子とするよう図る。これは藩士たちの賛同を得て、康直も確約をする。これによって他家に移った名門三宅氏の嗣も再び戻ることになる。

ところが天保10年(1840年)5月幕府大目付鳥居耀蔵が画した洋学者弾圧事件「蛮社の獄」に崋山が引っかかってしまう。崋山は投獄された後に田原で蟄居となった。
崋山の蟄居を聞いて画弟子の福田半吾らが見舞いに訪れ、崋山の窮状を見て崋山の絵を江戸で売り生活の資とすることにした。これが不謹慎とされた。
康直も望んでいる奏者番になれないのは、この崋山の行動が妨げになっているとし、ほかの重役たちも崋山を批難した。崋山は蟄居後1年9ヶ月、天保12年(1842年)10月11日に累が康直に及ぶことを恐れて自刃した。

この間天保11年、康直の側室に男児が生まれ屯と名付けられた。名家老崋山の死と屯の誕生は、先に約束されたしん太郎継嗣を白紙に戻しかねなかった。事実、康直の気持ちも屯を世子にと変わっていった。
ここに崋山の遺志を継いだ側用人真木定前は康直に諫言した。が、康直は定前を避け続け、ついには目通りも許されなくなった。
弘化元年(1844年)9月、参勤を終えて田原に帰国する康直の行列に加わった定前は、遠江国金谷で諫書をしたためたうえ切腹。死を持って康直を諌めた。
康直も衝撃をうけたが、藩士たちもしん太郎家督、三宅氏血筋復活に大きく動き出し、崋山の薫陶を受けた村上範致らが、その運動の中心となった。
嘉永3年(1850年)11月11日、しん太郎は康直の養子となり、田原藩最後の藩主康保となり、崋山の志は達せられた。

参考文献:新編物語藩史(新人物往来社)、江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、別冊歴史読本「御家騒動読本」

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