歴史の勉強

沢海騒動

越後国沢海藩は、新発田藩祖溝口秀勝の二男溝口善勝が、兄で新発田藩二代藩主の宣勝から1万2千石の分知を受けて立藩した。
善勝は父秀勝とともに家康・秀忠に仕え、慶長14年(1609年)に秀忠から上野国甘楽郡内で2千石を賜ったから、秀忠の覚えがよかったのだろう。
善勝は慶長6年(1601年)に父秀勝から5千石を与えられており、これによって7千石となった。秀勝はその翌年の慶長15年に死去し、このとき善勝は兄宣勝に父から与えられていた5千石を返還し、改めて秀勝遺領の分与を願い出た。
宣勝は1万2千石(うち2千石は新田)の分与を行ったが、これも秀忠の意向であったという。善勝はよほど秀忠に気に入られていたらしい。

善勝の跡を政勝、政良と継いだ。政良の正室は備中松山藩主池田長常女であったが死去したために、継室として近江水口藩主加藤明成女を迎えた。
政良には長男金十郎がいて文武に優れて将来を期待されたが早世してしまい、ほかに子がなかったために重臣達が相談して水口藩主加藤明英(明成の孫)の弟采女を養子にした。
采女は政親と名を改め、天和3年(1683年)に政親が死去すると家督を継いだ。この政親は酒癖が悪く、やがて起る騒動の原因となり、それによって改易となり沢海藩は四代にして歴史の幕を閉じる。

政親が養子になったときに水口藩からは石黒小源太、佐川左内らが付け人としてやっていきた。石黒小源太は正直者であったが、中小姓の佐川左内は悪心を抱き、政親に取り入って小源太を中傷して失脚させ、自分はさらにゴマをすって出世していった。
左内は政親に遊興を進め、政親の行状は日に日に悪くなるばかりであった。ようやく迎えた新藩主の行状に、藩の重臣たちの心配は募るばかりで、家老神田与兵衛は諌書を提出した。
無用な出費が多いとか神仏を敬えとか、遊芸を謹んで文武に励めとか六ヶ条に渡るが、要は遊興はほどほどにして政治に励んでくれという内容であった。
政親は与兵衛の諌書にもっともと思い、一時は行状改まるかに見えたが、左内が政親にベッタリと寄り添い悪事を吹き込んだので、政親の行状は元に戻ってしまい、それを嘆いた神田は自害して果てた。

神田が死去すると政親と左内を諌める者はなくなり、左内の思うままになっていった。これを批判すれば遠ざけられるので、ますます左内は増長し、それに連れて政親の行いも乱行が目立った。
あまりの乱行に領民からの批判の落首が大手に貼られたり、また他領にも聞こえるようになってきた。さすがに重役たちもこのままでは御家滅亡と考え、相談を重ねて左内を暗殺したうえで政親を押し込め、病気乱心として新たに養子を迎えると申し合わせた。
決起した重臣、藩士らは左内の屋敷に押し寄せて左内を捕縛して死罪とし、さらに陣屋に向って上意として藩主政親を押し込めた。
藩主押し込めとは非常手段で、家臣によるクーデターである。藩主を幽閉して表向きは病気乱心とし、養子を迎えたうえで藩主を隠居させるのだが、一歩間違うと反逆になり家が潰されてしまう。そのために事前の準備や根回が必要なのだが、沢海藩ではあまりに拙速に事を運びすぎたようだ。

藩主政親を押し込んだまではいいが、何と養子については誰にするか意見を集約してなかったというのだ。とりあえず辞めさせたから後釜を決めるようでは、こういう話は必ずと言っていいほど失敗する。事実沢海藩も失敗した。
養子は松平左衛門二男と決め、赤川平右衛門と玉井長左衛門の両名が江戸に派遣された。両名はまず政親の実家であり、政親の実兄である水口藩主加藤明英のもとに政親の乱心と養子願いの話を持っていく。
驚いたのは加藤明英だ。明英はのちに奏者番、寺社奉行、若年寄まで勤める人物だから、両名の話に納得せず自らの家臣2名を沢海に派した。
明英の家臣は沢海で政親にも会い、事情を調べると赤川らの言い分と全く違っていた。このあたり沢海藩では事前に充分な打ち合わせなどしていないのが明白である。

江戸に戻った家臣の報告を聞いた明英は怒り、謀をもって藩主押し込めなど不埒極まりないとして、沢海藩上知いわゆる領地返上を願い出た。
幕府は当初は藩の存続も考えたようだが、明英のたっての改易の願いにより藩主押し込めは誤りとして改易に同意し、本藩の新発田藩も同様だった。
伊達綱村が江戸屋敷受け取りに任命され、沢海には幕臣竹村惣左衛門が上使として派遣され、ここに沢海藩は取り潰された。

確かに政親の酒癖は悪かったのだろうし、左内が政親を唆したのも本当であろう。それによって藩の重臣達が将来を憂い、やむに止まれずに非常手段としてクーデターに訴えたというのもわかる。
だが信じられないことにクーデター計画はまったくお粗末であった。第一クーデターに踏み切る前に、政親の兄の明英に何らかの相談を当然すべきであった。
明英とすれば、このような最低限の行動すら取れない藩に対して、組織の体を成していないとして改易せざるを得ないと考えたのであろう。
さらに藩主押し込み後の次の藩主も決めておらず、本藩にも相談も連絡していない。これには唖然とせざるを得ない。

本藩の新発田藩の態度も冷淡であった。というのは新発田は本藩とは言うものの、沢海藩が必ずしも新発田藩の希望で作られた藩ではないことが影響しているようだ。
先に書いたように沢海は二代将軍秀忠のじきじきの意向で立てられたもので、新発田藩とすればわずか6万石の領地から1万2千石の拠出をさせられているのだ。
このことは大名家が血統を維持するために、庶子を取り立てて扶持を与え支藩とした場合とは全く違い、沢海藩は独立した藩だとの意識が強かった。

このために新発田藩とは隣藩同士でありながらお互いに疎遠になっていき、三代政良のころには関係は相当に悪化していたと考えられている。
このよな状態では、政親の行状や左内の態度などを本藩と相談して指示を仰ぐことなど憚られた。それにもましてやクーデター行動など相談することすら思い及ばなかったのだろう。
この沢海藩の騒動は沢海落城根元記及びその類似本に記されているだけという。沢海落城根元記は実録であり、したがって脚色や信憑性の問題が残るが、沢海騒動は現代にも通じるよう話である。
沢海藩の改易は事実であり、その原因は御家騒動にあるのか、一般的に言われているように藩主政親の酒狂と酒に伴う病気のためか、あるいはその両方かは定かではないが、実録として沢海落城根元記が残るのもまた事実である。

本稿は御家騒動の研究(吉永昭・清文堂)のうち越後国沢海藩「沢海騒動」についてを参考に書いています。なお吉永氏の稿の基礎となる部分は「沢海落城根元記」によるところが大きいようです。

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