歴史の勉強

新発田藩の騒動

(一)与茂七騒動

新発田では城下に大火があると与茂七火事と言われた。与茂七とは中之島村名主であった大竹与茂七のことで、のちに騒擾に及ばんとしたとして獄門となる。
与茂七は農民を苦しめる大庄屋に昂然と挑み、農民からは義民と讃えられた。城下の火事はその与茂七を処刑した崇りであるというのである。
宝永元年(1704年)6月、折からの大雨で信濃川、刈谷田川が氾濫し、中之島地方に破堤の危険が迫った。この状況に与茂七ら名主たちは大庄屋儀兵衛と茂在衛門に出動を要請したが、儀兵衛は三条に出かけ留守、茂在衛門も病気で出動できなかった。

やむなく与茂七は現場の指図役となって自己所有林、さらに儀兵衛所有林、ついで藩有林の木を伐採して堤防を保護した。今で言うところの災害時の危機管理である。
大庄屋ら行政側の危機管理意識が欠如し、現場の判断で緊急対応したわけであった。現代なら行政の怠慢を責める大合唱となろうが、時は江戸時代である。そうはならなかった。
儀兵衛は与茂七を藩林盗伐で、安左衛門を一揆徒党で訴えた。安左衛門は池之島村名主の息子で、儀兵衛の不在を怒って留守宅に押しかけて抗議したのである。
この儀兵衛の訴えに藩では与茂七と安左衛門を取り調べたが、中之島地方の名主や組頭が連判して釈明し、藩でもそれを入れて与茂七の行動はやむを得ないものとして無罪となった。

これが最初の段階であるが、与茂七らと儀兵衛の間には大きな溝ができ、確執が続いて紛争が絶えなかったようである。どうも儀兵衛というのはあまり良い庄屋ではなかったらしい。
宝永3年(1706年)藩は幕府からの国役金を大庄屋を通じて領内の村々に割り当てた。連年の水害で疲弊していた村々は、大庄屋に軽減を嘆願したが断られ、逆に年貢の取立ては厳重を極めた。
やむなく村では儀兵衛から150両を借りて年貢を納めた。宝永5年(1708年)に150両は返済されたが、儀兵衛は借用書を返さず、これに怒った名主は儀兵衛を訴えた。

ところが名主側が敗訴した。これについては、これだけみれば名主の要求が無理なものとも思えず、藩も訴えが正当ならば名主の要求を認めたはずだから、名主側の要求が不当であったか不備があったのかもしれない。
ともあれ名主側敗訴に村々の怒りは大きくなり、そこに今度は増税、未納年貢の督促、大庄屋役宅雑用賦課を伝えてきたので、村々の怒りが爆発した。
増税は大庄屋が独断でやったものではないだろうし、年貢未納の督促も大庄屋の仕事だから当然のこと、役宅も役所のことだから賦課は当然であり、平素ならば別段無理な要求でもなかった。
怒りに燃えた村人は大庄屋宅に押しかけ、最初は減免と猶予を申し出たが入れられず、ついに衝突して大立ち廻りとなった。当然大庄屋は徒党乱入として訴え、名主側も大庄屋の非違を訴えた。

正徳2年(1712年)11月与茂七側は
(一)大庄屋が訳のわからない金を割りつけてきて百姓が困窮している
(二)百姓を動員して刈った萱を、一部は刈谷田川の堰に用いたが、残りはどうしたのかわからない
(三)大庄屋の生活が苦しいとして村から合力金百両を徴収したが大庄屋の生活は苦しくなく、合力金徴収はしないでほしい
(四)近年収納米を2~3千俵も売っている、江戸出入金差し引きのためと称しているが、大切な年貢米を売って何を企んでいるかわからないなど7項目の訴えをした。
この訴えに対して藩では(1)大庄屋に落ち度はないが、(2)百姓の困窮については今後吟味し迷惑をかけないように命じる。(3)原告の徒党を組んでの騒動は法度に背くが慈悲をもって不問とする、という裁決をした。
大庄屋にもまったくの落度がなかったのかといえば、それはあったのであろうし、与茂七側の言い分にも一理あったのであろう。白黒をつけずに双方の顔を立てた判決であった。

しかし与茂七側は、大庄屋に落度なしというのが許せなかった。判決の出たのは正徳3年(1713年)正月27日であるが、即座に第2回目の訴状を出した。
今度の訴訟では
(一)儀兵衛は刈谷田川大堰工事を粗雑に実施したのですぐに破損する、粗雑にしたのは儀兵衛の所有する田のある村に不都合であったからだ
(二)大庄屋は新発田への往来に陸路ではなく経費のかさむ舟を使い、その費用を村々に割り当てている、また城下での逗留費用の割り当ても多すぎるし、儀兵衛の妻のために長岡から医者を呼んだ送迎にも百姓を動員した
(三)大庄屋は百姓の願いに熱心に取り組まず、あまつさえ土木工事が多いために人足手伝いの赦免を願っても取り上げてくれない、また田畑の検分を行わず、普請の時も検分は役人まかせで自分で検分しない
(四)大庄屋は藩からの普請人足米の一部を渡さないほか、金銭関係に不埒な行為が多いなど7項目あった。

前回の訴えよりより感情的になり、エスカレートしている。藩側の穏便な判決に対して真っ向から挑戦した形になってしまったのだから、今度は藩もやさしくはなかった。
訴状を受け入れたりしたらよりエスカレートするし、他の地域にも伝染する。さらに恐れるたのは幕府への聞こえであろう。同年6月与茂七ら5名は死罪、うち与茂七と脇川新田名主善助は獄門となった。
この一連の騒動の主人公であった与茂七は以後義民と讃えられたが、現代にも通じるような騒動であった。

(二)清涼院様一件

新発田藩七代藩主直温の正室は三河吉田藩主松平(大河内)信祝の娘留姫(のちの清涼院)であった。
知恵伊豆と呼ばれ三代将軍家光の側近中の側近であった松平信綱を祖とするのが大河内松平家で、信祝も奏者番から大坂城代を経て老中になっている。
5万石の外様大名であった溝口家としては願ってもない縁談であったろう。姫の輿入れのときに吉田藩から相葉七右衛門という人物が付き人として新発田にやってきた。
相葉家は七右衛門とその子の二代にわたり、奥向きの取締りをする奥目付や奥家老として仕えた。清涼院の秘書役である。

この相葉父子は清涼院の覚えがよかったらしく、清涼院の意向もあって表の重役に取り立てられた。その後も出世をし250石、江戸屋敷の側用人、中老格にまでなった。これでは譜代の藩士の反発を招かないはずはない。
相葉家と譜代重臣のあいだの確執は次第に深まっていった。一方七代藩主であった直温は宝暦11年(1761年)に長子直養に家督を譲り隠居し、安永9年(1780年)に没した。
八代直養は長子であはあるが庶子であり、当初の世子は清涼院の産んだ嫡子で三男の亀之助(のちの直経)であったが、病弱であったために廃嫡され、直養が家督となった。
直養はこの経緯もあったためか家督相続した年に弟(直温六男)で、清涼院の子である直信を養子にして世子とし、自らは正室を迎えなかった。

しかし直信も病身であったためか、天明5年(1785年)に直信を廃嫡し、その子の亀次郎を嫡孫としようとする事件が起きる。これが退身一件と称する事件である。
このとき直信の守役鈴木三太夫父子や家臣2人が閉門処分を受けている。ところが翌天明6年、直信が世子に復帰する。
同時に閉門となった鈴木父子らは処分を取り消されて復職し、逆に鈴木らに処分を下した国元筆頭家老堀内蔵丞、江戸詰中老速水金太夫、同秋山伴右衛門ら三重臣が御役御免、知行召し上げという厳しい処分を受けている。

この退身一件の裏側はまったく不明である。直信の廃嫡は清涼院の意向であったといわれるが、なぜ清涼院が我が子を廃嫡しようとしたのかはわからない。母子の間に確執のようなものがあったのかもしれない。
藩主直養の動きもよくわからない。一度廃嫡した直信を世子に戻したのは、清涼院に対する反発であろうか。奥の実力者である清涼院と藩主直養の間に確執がなかったわけはなく、それに重臣が与して内紛が起き、最後には直養が勝利した典型的な騒動であったようだ。

嫡子に戻った直信だが、やはり病弱であったのか、5ヶ月後の天明6年7月12日に31歳で江戸で没してしまう。そのために直養は直信の子、直侯を嫡孫として同年閏10月6日に家督を譲り隠居した。
この直侯こそが退身一件で直信に代わる家督とされた亀次郎であった。結果的とはいえ退身一件とは何だったかということになった。
直養が隠居したのは51歳だから年齢的にはおかしくないが、厭気がさしたからかもしれない。ともあれ家督は直侯が継いだが、年齢はわずか9歳の幼君であり、直養は隠居の身であり退身一件こともあって表には出にくくなった。そうなると藩主の祖母でもある清涼院の力はますます大きくなる。

寛政元年(1789年)4月に清涼院から国元家老溝口半兵衛、同堀丈太夫、物頭格佐藤八右衛門の閉門と御役御免、相葉七右衛門の江戸家老への登用の要求が出された。
重臣間の確執が退身一件で更に激しくなり、一時敗れた清涼院派は直信の死という偶然で盛り返し、ついに藩政の中枢にまでその勢力を広げようとしたのだろう。
この清涼院の要求で藩内は大混乱になった。藩主直侯は幼少であり、当事者が重臣や藩主の祖母だから藩内では収拾不能となった。このことが清涼院の実家である大河内松平家に聞こえた。

松平家の当主は松平信明、小知恵伊豆とも呼ばれた英才で老中でもあった。直明は直養から「御後見御世話」を依頼されたともいい、寛政元年4月27日に相葉七右衛門の役職と知行を召上げて謹慎を申し渡した。
相葉は江戸から新発田に送られて蟄居処分となり、翌寛政2年7月に失意のうちに死去した。46歳であったという。
松平家は清涼院の実家であったが、清涼院の横暴ともいえる口出しを咎め、また付き人としての相葉を懲罰し、親戚の溝口氏と新発田藩を救ったのであった。もちろん、騒動の大きな原因が清涼院にあったからであろう。

この処置により新発田藩の騒動は表沙汰にはならなかったが、寛政元年11月4日に2万石を上知、その代わりに陸奥国田村郡などに2万石を下知された。
表向きは同高の領地交換であるが、比較的高収穫地を上知させられ、低収穫地に替えられたばかりか、遠隔地を管理することとなり新発田藩にとっては大きな財政損失となった。
もちろんこれは新発田藩に対する処罰の意味合いであり、九代藩主直侯は「幼少のときのことで関知しなかったことではあるが、藩祖秀勝以来の土地と領民を自分の代に召し上げられたことは、末代までの恥辱ある」と嘆き、召し上げられた地の返還を念願したという。

参考文献:シリーズ藩物語・新発田藩(現代書館)、江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、関連ホームページ

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