歴史の勉強

坂崎出羽守直盛

坂崎直盛という男

坂崎出羽守直盛という男は、強情で執念深く、戦国武士の気質に凝り固まった人物で、あまり評判もよろしくない。はっきり言って自分の意地を通すことしか考えない、時代についていけない男で、大名としては暗君だろう。
そもそも坂崎というのは本姓ではない。備前岡山の戦国大名宇喜多氏の一族である。梟雄として知られ、宇喜多氏の戦国大名化に成功した宇喜多直家の弟忠家の長男が直盛で、秀吉の五大老の一人宇喜多秀家は従兄弟にあたる。
忠家は備前国富田城主であり、宗家の若い当主秀家を補佐していたが、忠家が大坂屋敷に移ったために直盛が富山城主となった。
直盛は忠家同様に宗家の秀家を補佐した。家老的な立場であったのだろう。ところが慶長4年(1597年)に宇喜田家に御家騒動が起きる。

騒動の原因は、派手好みで豪奢な生活をした秀家とその取巻き長船綱直や中村次郎兵衛の専横に対する、他の重臣の不満のほか、秀家の正室豪姫(前田利家女で秀吉の養女)が切支丹であったために、秀家が家臣に対して切支丹への改宗を迫ったことなどがあったとされる。
もともと秀家は秀吉の可愛がられ、その猶子(契約上の親子関係、擬制的なもので姓も代らないし、相続権もない)となったほどであった。名の秀家も秀吉から一字を賜ったもので、のちには豊臣一門の扱いを受けた。
秀家の派手好きは多分に秀吉の影響であり、バックがバックだから家中でも鼻息が荒かったらしい。眉目秀麗ではあったが人間的には大したことはなく、家臣の統制などできずに家が乱れたのだろう。

この騒動で宇喜田家の重臣や一門が宇喜多家を退去した。先代直家の頃からの優秀な人材も多く、このことが宇喜田家の弱体化を招いたのは間違いない。この退去組の中に直盛もいた。
この騒動は大坂の宇喜多屋敷に反対派が立て籠もり、騒乱の一歩手前の事態にまでなったのだが、当時すでに秀吉は亡く、家康が直接調停した。
このときの家康の調停がまた見事であった。宇喜多の家中を割って、宇喜多家は弱体化したのだが、秀家の一派は反対派を一掃できて喜び、反対派は他家預けとなったもののそれ以上の咎めはなく、その寛大な処置に家康のシンパとなった。増田長盛に預けられた直盛もシンパになった一人であった。

翌慶長5年(1600年)6月に家康は上杉征伐に向う。直盛も征伐軍に従軍し、さらに関ヶ原役で戸川逵安とともに西軍の猛将島勝猛を破る戦功を挙げて、石見国津和野3万石に封ぜられた。
これは直盛が家康のシンパになっていたこともあるが、対立して立退いた主家の秀家が西軍の副大将格であったから当然であった。
宇喜多姓をはばかって坂崎姓にしたのもこのころのことであったとする。とにかく、これをもってしても直盛と言う男が頑固でごく近い親戚である主家であってもダメなものはダメといい、立退いても我を通そうとする意地を通すタイプの人間であったことがわかろうというものだ。

富田信高との論争

3万石の津和野城主となった坂崎直盛は、入城後は城の整備強化を図り、紙の増産を企図して楮5万本を植林するなど民政安定へも尽力した。
そして迎えた慶長10年(1605年)6月、事件が起きた。直盛の甥に宇喜多左門という男がいた。この左門が人を討って逃走し、伊勢安濃津(津)7万石の大名富田信高の許に身を寄せた。
直盛と信高は縁戚であった。信高の妻が宇喜多氏の一族宇喜多忠家の娘であったから忠家の長男である直盛とは兄妹(姉弟説もあり)にあたる。
左門は信高の妻にとっても甥にあたるから、それを頼ったのかどうか真偽のほどはわからない。わからないが、信高のところに身を寄せたという話が伝わった。

このことが直盛の耳に入り、直盛は信高に談判に及んだ。直盛のことだから、かなり強い調子で申し入れだったのかもしれない。
信高は直盛の申し入れに対し、行方知れずだと答えた。これも本当に知らないのか、かくまっているのかわからない。
直盛は安濃津城を自ら探索しようとしたともいい、また当時信高は伏見にいたので、伏見で一戦に及ぼうとしたとも言うが、いずれにしても穏やかな話ではなく、周囲の諫言もあって家康に訴えた。
家康は秀忠に訴えるように諭し、直盛は江戸で秀忠に再び訴えを起したが、証拠がないとして訴え自体が却下された。直盛の性格からして面白かろうはずがなく、これが数年後に火を噴くことになる。

慶長13年(1608年)9月、信高は加増されて伊予板島(宇和島)10万1千石に転封となった。伊予に入った信高は、丸串城に拠って領内の基礎固めを行なった。その中で慶長15年(1610年)から佐多岬半島の地峡の開削をはじめた。
これは塩成、三机間に運河を開き、海上交通を容易にし、同時に三机の港を九州への拠点港として整備しようとしたのであるが、これが相当の難工事であり、動員された領民の怨嗟の的となったという。
一方の左門の方は慶長10年以来、肥後に逃げていたが、肥後の太守加藤清正の死後に上方に向おうとして三机に立ち寄り、米を無心した(富田宗清覚書)とか、信高のもとで身を隠くせなくなって、信高と親しかった日向国延岡藩主高橋元種のもとに奔った(台徳院殿御実記)など、いくつかの説がある。
が、左門の家臣の一人が、左門を裏切って直盛に帰参を願い、左門と信高の妻との手紙を、信高が左門を匿っていた証拠として直盛に提出した。

これに狂喜した直盛は、再度幕府に訴えを起し、慶長18年(1613年)10月8日、江戸において秀忠の前で直盛と信高の直接対決となった。
この結果、直盛の勝訴となり、訴えられた信高と元種は改易となった。また、信高の弟の下野佐野藩主佐野信吉も連座して改易となり、信濃松本藩小笠原秀政に預けられた。
この信高との論争での態度も、坂崎直盛の執念深さや頑固さがよく出ている。いくら戦国時代が終わった直後とはいえ、異常といえるほどである。
が、とにかくこの時は信高との論争に勝った、なお左門がどうなったか明らかではないが、おそらく執念深い直盛のことだから残忍な処刑をされたに違いない。

千姫事件

さて、千姫事件である。二代将軍秀忠の長女千姫は、周知の通り幼くして大坂城の豊臣秀頼に嫁いでいた。もちろん政略結婚である。
ところが大坂の陣で、大坂城は千姫の父親秀忠と祖父家康によって包囲され、豊臣家の命運は尽きた。一大名として徳川政権下で生きることを拒んだ豊臣家は滅びざるを得ないのだが、秀忠にしろ家康にしろ、千姫だけは救いたかった。
この千姫救出に一役買ったのが坂崎直盛であった。千姫救出を喜んだ秀忠(家康とも)は、喜びすぎて直盛に千姫を与える約束をしてしまった。

実は千姫救出といっても、直盛は講談やテレビドラマのように燃え盛る大坂城に飛び込んで千姫を抱きかかえて連れ出したわけではない。
「駿府記」では秀頼の側近大野治長のはからいで城から送り届けられた千姫だったが、直盛はかねて治長と顔見知りであったために、たまたまその仲介をしただけだといい、「山本日記」は直盛が城を脱出した千姫と偶然出会い、家康の本陣に使いを立てたとする。
さらに直盛に千姫を与えることにしたと記している記録は、「玉栄拾遺」「焼残反古」「異説区々」などわずかであるという。どうも直盛が千姫を救け出し、それに感動した家康、秀忠父子が千姫を直盛の許に、というのは完全な俗説であるようだ。

新井白石が「藩翰譜」に記すところでは、千姫が脱出したあと、秀忠は公家に再嫁させようと考え、直盛に仲介を頼んだと言う。直盛は京の公家に知り合いが多かったらしい。
やがて直盛は再嫁の話をまとめたが、千姫は嫌がり尼になると騒ぎ、結局は破談になった。このときに千姫は決して再嫁しないと約束したとする。
ところが千姫は約束を破って、伊勢桑名城主本多忠政の子の忠刻に再嫁することになり、面目丸つぶれとなった直盛が行動に移ったとしている。
本当に直盛は再婚話をまとめられるほど公家の世界に知り合いが多かったのか、あるいは相手の公家とうのはどこの誰かなそ、疑問が多い話である。

多分、しかるべき公家への仲介依頼の使者にでも立ったが破談にされ、その後なんの挨拶もないまま再嫁となってヘソを曲げた、というあたりではなかろうか。
何せ面目だの意地だのにはやたらこだわり、執念深い男であるから、その程度でも行動に走ることは充分にありえることだ。
とにかく直盛は行動に出た。元和2年(1616年)9月10日、家臣百十数人全員に髪を剃らせ、江戸湯島台の屋敷に立て籠もったのだ。
幕府では酒井家次、堀直寄、松平信吉らの諸大名に旗本を加えた1万人規模で坂崎の屋敷を包囲し、説得にかかった。

豊臣家が滅亡し、家康が死去した直後の不安定な時期に江戸市中での騒乱はまずいし、秀忠の方も直盛には負い目があるから、積極的な行動も取り難い。
最初は直盛の切腹と引き換えに、弟大膳に跡目を立てさせようと説いたが、意地になっている直盛が聞くはずがない。それではと、家臣を説得して直盛を殺させようとしたが、これは君臣の道に外れるということで取りやめとなった。
そこで最後の説得にあたったのが、将軍家の兵法指南役で直盛とも親交のある柳生宗矩であった。宗矩は単身丸腰で直盛の屋敷を訪れ、最期は直盛の死をもって騒乱は治まった。
直盛は自害したか、殺されたのかはわからない。殺されたとする説も、家臣によって殺されたとするものと、宗矩が斬ったとするものがある。

だが、宗矩が説得し直盛が死を受け入れたことだけは間違いないだろう。その説得もどのようにやったのか、直守と宗矩にしかわからない。
宗矩のことだから、意地を貫く直盛の自尊心をくすぐるようなことを、例えば千姫も秀忠も深く詫びているというようなことを言ったのかもしれない。
直盛の死をもって坂崎家は断絶となった。これは仕方ないし、直盛も家の存続など何とも思っていなかったろう。とにかく意地を貫くことに徹していたのだから。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、歴史と旅平成8年3月臨時増刊「大名家の事件簿総覧」

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