歴史の勉強

榊原式部大輔政岑

榊原家の初代康政は、永禄3年(1560年)に家康に謁してのち家康に仕え、三方原の戦い、長篠の戦い、高天神城攻撃、小牧・長久手の戦いなど数々の合戦に出陣して奮戦し、本多忠勝・井伊直政・酒井忠次とともに徳川四天王と呼ばれた、家康創業期の大功臣であった。
康政は家康の関東移封のときに上野館林城主となり10万石を与えられて、事実上の大名となった。康政の後を康勝、忠次と継いで姫路15万石、さらに政房、政倫と継いだが政倫は襲封時わずか3歳であったために、枢要な姫路城主は無理ということで越後村上に移った。

次の政邦の時に村上から姫路に復帰した。政邦は性格も温厚で、また誠忠の意欲が高く村上では領民に慕われ、姫路移封後も藩政の改革や民政の向上に励み、新田開発や寺社への寄進も積極的に行った。
そのため領内はよく治まり、領民は善政を喜んだという。また、学問を好み文教の振興にも意を用いた。将軍吉宗も政邦の治世を多としたという。
この政邦は享保11年(1726年)に52歳で死去し、その跡を長子の政祐が継いだ。政祐も学問が好きで道徳を重んじ、謹厳実直であり、また孝心が厚かったという。
仁の人であり、先代同様に礼儀を重んじ、奢侈の禁止、質素倹約の励行に努め自らも実践した。このために領民も藩主を慕っていたが、政祐は病弱であり享保17年(1732年)に没した。享年28、在封わずか6年での死去であった。

政祐には正室はおらず、子もなかった為に一族の旗本榊原勝治の二男政岑を養子にしていた。榊原勝治は先代政邦の弟で、したがって政祐と政岑とは従兄弟になる。政岑は政祐の死により18歳で榊原家の当主となった。康政から数えて八代目となる。
榊原家はここまで比較的名君が多く、領内にも善政を布いてきたが、八代政岑は吉原で放蕩し、果ては高尾太夫を身請けして参勤交代にも同伴するなどの不行跡を咎められて隠居謹慎となり、本来なら改易となるところを先祖康政の功を持って特に許されて、越後高田への転封処分で家は存続した。

もともと政岑は千石の旗本の出身であり、大名の奥で帝王学を学んだわけではなく、政治への関心は薄かったと言われる。
しかし榊原家の家譜である「嗣封録」によれば、政岑派は江戸池之端の榊原家中屋敷で養育されたとある。これは、榊原家初代の康政の長子忠政の系統であり、のちに断絶した大須賀家を政岑に再興させようとしてのことであった。
したがって、ある程度大名家を継ぐべき教育はされていたと見るのが順当であろう。とはいえ15万石の宗家を継いだのは政祐急逝と急養子によるものであったのも事実であり、そのため前述のように帝王学の基礎ができていないなどという話になったのかもしれない。

政治への関心が薄かったかどうかはともかく、政岑は比較的領民には慕われていたようであり、襲封後は先代の政治を踏襲して寺社領を安堵したり、孝行者を賞したり、一揆を鎮圧したりしていた。
政岑は、享保20年(1735年)の春に陸奥白河藩主松平基知の養女久姫を正室に迎える。この年の秋に側室坂田氏が男子を生み、幼名を熊千代、これが後の九代政永である。
その2年後の元文2年(1737年)3月に正室久姫が女子を生んだが、産後に久姫は死去した。政岑の放蕩が始まるのはこの頃からであるとされる。

政岑は将棋・三味線・浄瑠璃など芸事に通じており、能も好きでお抱えの能役者を置いていた。最初に吉原に連れ出したのは、この能役者だといわれている。おそらく池之端の中屋敷で養育されていた頃のことであろう。
政岑はもともと遊び好きであったようで、すぐに吉原に入り浸るようになる。このころ尾張藩主徳川宗春も吉原に繁く通っており、すぐに宗春と政岑は意気投合して二人で遊んだというのが通説になっている。
尾張家は少し前に内紛があり、そのために将軍職を継げず、将軍は紀州家の吉宗に奪われた。実際は奪われたというより、尾張家に将軍足るべき人がおらず吉宗が就任したのだが、尾張家ではそうは思っていない。
やがて藩主となった宗春は、吉宗に真っ向から対抗して、吉宗の政策と反対のことを藩内で実行した。そのもっとも顕著な対立は、倹約第一の吉宗に対して、仁慈を掲げて領民とともに楽しむことを基本とし、芝居小屋を建て遊郭を作り、祭礼も派手に行った。

倹約、奢侈の禁止で江戸やほかの町が火が消えたようになっているのに、名古屋城下だけは繁栄した。吉宗は内心苦々しく思っていたが、相手が尾張家だけに迂闊に手を出せない。
宗春にしてみれば、吉宗に対するあてつけもあり、対抗意識もあった。また宗春は理想主義者でもあり、名古屋城下が繁栄したのも事実であった。
やり方はどうあれ、あるいは結果はどうあれ、宗春にはビジョンやポリシーはあった。だが、政岑にはそんなものはなく、ただ遊びたいだけであった。
政岑はどんどん派手になり、贅沢になっていく。吉宗が木綿を着用しているのに絹を着て吉宗の前に出る。門番の当番の時に派手な衣服で出て、鷹狩りにいく吉宗を見送る。吉原では毎夜のように放蕩し散財する。
一方榊原家の財政は、凶作のうえに政岑の浪費もあって急速に悪化していく。それでも政岑は放蕩をやめない。

やがて尾張宗春が隠居させられた。尾張藩でも急速に財政が悪化して、経済が立ち行かなくなっていたのだ。収入が増えないのに遊興などの非生産的な支出が増え、また経済も芝居、遊郭、祭礼など非生産的なものに投資されるのだから財政悪化は当然の帰結であった。
こうなると長期的に投資をして回収するなど悠長なことでは間に合わず、増税や上納金などで収入を増やし、藩士への俸禄カットで支出を抑制するしかない。
農民、町人、藩士などが藩内の全ての人が不満の声を挙げる。これを吉宗が見逃すはずがなく、吉宗は宗春に強制的に隠居をさせた。

以上が政岑と宗春の関係を物語る話として伝えられていることであるが、実際に政岑と宗春が親しく交際をしていたという証拠は残っていない。
為政者側が政岑や宗春を一方的に悪者に仕立て上げて、罪ありきを前提にして作った可能性も高い。
ちなみに吉原通いをしていたのは、政岑や宗春だけではなく多くの大名旗本も半ば公然と吉原に通っていたという。通うこと事態が即悪いということではないが、あまりにもハメをはずし、公私の別を混同して吉宗の怒りを買ったのが政岑であり宗春であったのであろう。

政岑にとって宗春の隠居は人ごとではない。重臣も政岑に意見をする。政岑はもともと遊び好き派手好きであり、吉原での放蕩の前にも姫路城内に西屋敷と呼ばれる私邸を建て、衣服も華美であり、これらは姫路が主要街道筋に位置したことから、諸国に尾鰭がついて伝わっていった。
西屋敷とは城内西の丸に建てた屋敷のことで、のちに高尾が住むことになるが、高尾の身請けの前に建てられたもので高尾のために建てたというのは誤りである。
これらの行状を見かねた重臣太田原儀兵衛が、享保19年(1734年)4月に政岑に諫書を出している。儀兵衛は享保14年(1729年)に城代にまでなった人物であり、諫書を提出して城下の屋敷を立退いた。
藩主と城代が対立し、城代が立退くというのは御家騒動である。儀兵衛への説得が行われたが不調に終わり、その後儀兵衛の行方はわからなくなってしまう。

これを期に政岑に正面きって意見する者はいなくなり、政岑の行動はエスカレートしていく。
もともとビジョンやポリシーがあってやっているわけではなく、単なる遊び好きだから始末に悪い。自分を抑えられないのだ。
政岑の吉原通いは続き、吉原だけではなく藩邸でも派手な酒宴を繰り広げた。元文4年(1739年)の中秋の名月、政岑は親交のあった大名を招き月見の宴を催した。
この時は座敷の中に台を置いて、その上に人工の山を築き、すすきを植えた。人工の山の上に満月がかかるのを見て楽しもうという趣向であった。
さらに宴たけなわになると、山が割れて中から天女に扮した美女12人が飛び出して乱舞するという派手な演出もあった。この酒宴は噂となって広まり、出席した大名は大いに迷惑したという。

そして寛保元年(1741年)6月4日、政岑は吉原三浦屋の高尾太夫を2千5百両で落籍(身請け)した。太夫とは幕府公認の遊郭である吉原の最高級の遊女で、歌、踊り、三味線などの遊芸のほかに茶道、香合、花道、和歌、俳句、碁、将棋なども出来き、源氏物語を読み、かなりの教養も身につけていた。
大名や豪商などどんな客の相手も出来なければならず、そのために見識も高く、気に入らなければいくら金を積まれても相手にしないほど気位が高かった。
高尾というのは三浦屋の太夫名で、政岑が落籍した高尾は十代目とも七代目ともいう。花売り六兵衛の娘とも髪結い市兵衛の娘とも、また武家の出ともいわれ、享保19年(1734年)に太夫となった。

政岑は披露の際にも3千両の大金を投じて吉原の遊女を総揚げにし、さらに高尾が吉原を出て屋敷に移る日には藩士を迎えに行かせ、行列を組んでいる。
高尾は正妻の扱いを受け、参勤交代で帰国の際にも姫路に伴い、姫路城内西の丸に住まわせた。
また、政岑は高尾だけではなく京都島原の遊女を2人、有馬の遊女の3人身請けしている。姫路でも酒宴に耽り、重臣たちの意見も聞き入れなかった。
親類に当たる前橋城主酒井忠恭も榊原家の重臣を呼んで意見をし、政岑を諌めたがこれも聞かなかった。

一向に改まらない政岑に、ついに幕府も黙ってはおれず、老中松平乗邑は榊原家の江戸家老尾崎富右衛門を呼んで高尾落籍の事情をただした。尾崎は必至に弁明したが、ほどなく不行跡との理由で政岑に隠居が申し渡される。
また、老中松平信祝から榊原家に呼び出しがかかり、江戸屋敷の聞役竹田矢左衛門が信祝の屋敷を訪ねると、奉書が渡された。帰国中の政岑に出府を命じるもので、奉書はすぐに姫路に伝達された。
出府すると親類、重臣たちが江戸城に呼び出されて政岑隠居と嗣子政永への家督及び国替えの内意が伝えられたともいう。
政岑は池之端中屋敷に移ったが、このことが姫路に伝わると領民は国替えの中止を訴えたといい、このことから政岑は領民に慕われていたと考えられている。寛保元年(1740年)10月のことで、政岑はまだ26歳であった。
直接的には高尾落籍が問題にされたが、隠居は吉宗の意向であり、享保の改革の只中に自ら範を示すべき立場にありながら放埓の限りを尽くすとは言語道断、ということだ。

榊原の家督はわずか7歳の嫡子政永が継承し、半月後の寛保元年11月に温暖な姫路から越後高田15万石に転封となる。本来なら改易のところ、先祖康政の功によって転封処分で済んだのだった。
しかし高田は姫路に比べれば同じ15万石でも実収が全く違った。姫路では実収20万7千石であったものが、高田では15万2千石、さらに封地も頸城郡に6万石と陸奥国内に9万石に分かれていた。
また父政岑の遊興の借金も30万両に達していた。そのうえ、高田入封後、寛保元年(1741年)の大雪、延享4年(1747年)の洪水、宝暦元年(1751年)の大地震、同3年の大火、同5年~7年の凶作と災害が続き、財政は窮乏の一途を辿った。
政岑のつけは大きく藩政に響いた。

一方政岑は、吉宗の命によって高田への道中の籠に綱をかけて罪人扱いされ、死後その墓も綱で覆ったという。政岑は高田に移って、約1年後の寛保3年(1743年)2月17日に29歳で病没している。
高尾は政岑とともに高田に移って政岑によく仕え、政岑死去後は落飾して仏門に入り連昌院と号した。その後江戸に移り下屋敷でひっそりと暮らし、天明9年(1789年)に死去した。
傾城の名の通り、政岑は高尾太夫によって国を傾けたが、高尾は貞淑であり、大名の側室にまでなった唯一の遊女であった。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新選御家騒動下巻(新人物往来社)、歴史と旅平成7年5月号「大名家の転封騒動記」

榊原氏の表紙に戻る
大名騒動録の表紙に戻る
歴史の勉強
Last modified -