歴史の勉強

村上周防守義明

村上氏はもともと丹羽長秀の家臣であり、そのころに村上義清の養子となって村上氏を継いだ。丹羽氏の没落後は堀氏の与力大名となり加賀能見郡で6万6千石を領し、四国征伐、九州征伐、小田原攻めなどに参陣、文禄・慶長の役では肥前名護屋に滞陣した。また伏見城の普請も分担した。
慶長3年(1598年)堀氏の越後移封にともない本庄9万石を領し、本庄を村上と改めた。堀氏の与力大名だから堀氏と常に行動をともにし、関ヶ原では東軍に与して会津の上杉景勝に備え、上杉氏が旧領の越後で起こした一揆を抑えて本領を安堵された。

慶長8年(1603年)3万石を加増され12万石となる。慶長15年(1610年)に、堀氏が一族間の争いからお家騒動を起こし、宗家が改易されたときには村上家には何の咎めもなく安泰であったが、元和4年(1618年)今度は村上氏が家中不取締を理由に改易され、丹波篠山に配流となった。
この家中不取締りというのは重臣の間に連続して起きた暗殺事件であった。
慶長年間の終わりごろか元和年間の始まりの頃かはわからないが、村上家の家老に幕府から河野庄左衛門という人物が送り込まれてきた。恐らくは堀家の改易事件と関係があるのであろう。

この庄左衛門が譜代の家老富田次郎左衛門と諍いを起こし争った。この時代はまだ戦国の気風が色濃く残っていて、重臣といえどささいなことで争うことも珍しくはなかった。
これが義明の知るところとなったが、義明は幕府の威を恐れて、次郎左衛門を死罪として家の安泰を画した。元和2年(1616年)のことである。
すでに外様大名の取り潰しが始まっており、堀家の例も間近にあるために義明としては用心したのであろう。

ところが翌元和3年に今度は庄左衛門が江戸屋敷で何者かに暗殺されるという事件が起きた。殺人事件であり詮議もされたが犯人はわからず仕舞いであった。
庄左衛門の遺児権兵衛は事件の糾明を義明に訴えたが、ここに事件を目撃したという女が現れた。屋敷の女中ででもあったのだろう、女のいうには犯人は次郎左衛門の孫にあたる兼松与三郎であったという。
これを聞いた義明はろくな調べもせずに与三郎を切腹させてしまう。なぜそうしたのかはわからないが、与三郎が庄左衛門を恨んでいたのは事実であったのだろう。

するとその翌年の元和4年、今度は城下で魚住覚兵衛という2千石取りの重臣が殺され、人々は権兵衛がやったのだと噂をした。
魚住覚兵衛の弟和右衛門が江戸に出て義明にこのことを訴え出る。義明は取調べを始めたが埒が明かず、権兵衛の父河野庄左衛門が幕府から遣わされた人物であったために幕府に訴えて公裁となった。
幕府では権兵衛、和右衛門を呼び出して対決させた結果、権兵衛の申し開きはもっとも、和右衛門の訴えには証拠がないとして権兵衛に軍配を上げた。

さらに、重臣の間で暗殺事件が立て続けにあり、その都度都度の義明の対応に問題ありとして義明に改易を申し渡し、村上9万石は没収、丹波篠山の松平(藤井)信吉に預けられた。
これが家中不取締りの実態であるが、村上氏の改易は幕府の外様大名取り潰し政策の一環であったことは間違いない事実であろう。
徳川家はこのころ何か事があると外様大名に難癖をつけては取り潰していたした。難癖にもいろいろあって、かなり強引なものもあったが、村上氏のように家中に連続暗殺事件が起きたなどというのは、取り潰しの格好の口実になった。

さらに義明の正室が、越後高田城主で改易された家康六男の松平忠輝の家老花井主水正義雄の妹であった。この花井主水正義雄は忠輝の失脚に連座して、最終的には処刑されるのであるが、不正蓄財で問題になった大久保長安と深い関係があったとされる人物である。
大久保長安は初期徳川幕府の財政面を一手に握り、家康の信任も厚かったが、その死後不正蓄財が発覚、妻妾をはじめ一族郎党がことごとく死罪となった。

これも表面上のことで、その裏には幕府の重臣であった大久保忠隣(長安は大久保忠隣の寵を得て、大久保の姓も忠隣から与えられた)と本多正信の勢力争いが絡んでいたのは周知の如くである。
このころの幕閣は本多正信が元和2年(1616年)に死去し、その子本多正純が中心となって運営していた。正純とすれば政敵大久保氏の縁に少しでも連なるものは、消しておきたかったであろうし、村上氏がそのことと無縁であったとは考えられない。
義明は配流先の丹波笹山で元和9年(1623年)9月26日、失意のうちに死去した。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、歴史読本スペシャル29「お家取り潰し」

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