歴史の勉強

最上源五郎義俊

江戸時代初期、二代将軍秀忠の頃に改易になった最上氏の祖は奥州探題となった斯波氏であるから足利一門であり、徳川家などとは比較にならないほどの名族である。
祖斯波兼頼は出羽探題となって最上氏を名乗ったが、時代が下るに従って大名化していき勢力は衰えていった。その最上氏が再び隆盛に向かうのは12代目の義光のときである。
義光の時代は戦国末期から江戸初期に掛けてで、一地方の大名であった最上氏は領土拡大に励んだが思うようにいかず、そうこうするうちに中央の政権である秀吉の目が奥州に向いてきてしまう。

義光という人は戦略眼はそれなりにあったらしく、比較的早くに秀吉に服属することを決め、家康を頼って渡りをつけた。
秀吉に接近するルートはいくつかあるが、三成ら側近衆を通じてというのは義光の名門武家出身のプライドが許さなかったのかもしれないし、さりとて近隣の大大名の上杉氏とは仲が悪い、よって秀吉の信任厚く武将としても力のある家康にというところかもしれない。
紆余曲折あったものの最上氏は豊臣政権下でも大名として存続できた。

このときに義光は家康に二男太郎四郎を近習にと願い出た。実質的には人質である。力の差はあるとはいえ義光も家康も秀吉政権下では同じ一武将である。つまり同僚が同僚に人質を差し出したのだ。家康はこれには感激した。
太郎四郎を小姓の列に加えたが、この太郎四郎が利発でよく気の利く小姓だったから家康は可愛がり、どこに行くにも連れ歩いた。実はこれが最上家改易の遠因となる。

もう一つの理由としては、次女駒姫の死が挙げられる。義光は秀吉の甥の羽柴秀次に次女駒姫を側室として仕えさせている。
この駒姫が秀次失脚の際に18歳の若さで処刑された。これが秀吉との間に距離をおく原因となった一つであろう。
義光としては秀吉にまったく擦り寄らないわけにも行かなかったのだろうが、さりとて秀吉とは気が合わなかったのだろう。そのために秀次に接近したらしい。
だが、それが裏目に出て愛娘を死なせてしまった。

義光はこれ以後家康一辺倒になるのであるが、これは生理的に秀吉よりも家康に親近感を抱いたのと、駒姫の件で秀吉を恨んだのであろう。
この辺はのちの藤堂高虎とも共通している。ただ、家康に接近したのは高虎よりもかなり早い。
慶長元年(1596年)に起きた伏見の大地震の際にも、地震発生直後に諸大名は秀吉のもとに駆けつけたが、義光は家康のもとに駆けつけている。
また、秀吉が家康を茶会に招いたときも、家康毒殺の噂を伝え聞くと義光はすぐに家康の注進している。

こんな義光だから秀吉が死去して家康が利家ら他の大名と対立すると、一も二もなく家康に与し、やがて会津の上杉景勝が上洛を拒否し、それを家康が征伐に向かうと家康の命に従って上杉包囲網の一環に加わった。
このときは周知の通り上方で石田三成が挙兵したために上杉征伐は行なわれず、家康軍は反転西上したが、奥羽や北陸の大名は会津の上杉領の包囲して牽制した。
上杉軍は直江兼続を大将として上杉領と境を接していた最上領に攻め込んできた。このために合戦となり義光は奮戦したが、関ヶ原での敗戦の報が伝わると上杉軍は撤退した。

これらの功で関ヶ原役後義光は33万石を加増され57万石の大大名となった。義光の拠る山形城は南の米沢に上杉、北の秋田に佐竹、東の仙台に伊達と徳川家に反抗的な諸将がいて、義光にはそれら諸将に睨みを利かす役目が与えられた。それほど家康が義光によせる信頼は厚かった。
義光は領内の整備に取り掛かるが、義光もすでに60歳近くになっており、家督問題が持ち上がる。義光には6人の男子がいて長男義康はすでに30歳、最上家の嗣子であった。
二男は家康、のちに秀忠の小姓となって家康から一字を貰い家親と名乗ってた。三男光氏以下は臣下となっていた。

家中からも義光の隠居と義康家督の声が聞こえてくる。義康は知勇に優れ、武功もあって家中の期待も大きかったという。
これが義光には面白くないらしく父子の間は自然疎遠になる。そこに義光の家臣里見権兵衛と義康の近臣原八左衛門が父子のあいだの離間を図る。
里見、原の2人がなぜ離間を図ったかはわからないが、この策謀に乗って義康は自殺未遂事件を起こしたという。これを聞いた義光は「そこまで親を憎むのか」と恐ろしく不機嫌になり、対面すら許さなかった。

義光は江戸に出たとき家康に家督問題を相談した。もちろん義康の件も隠さずに申し述べた。
家康は「父親の健在を喜ぶどころか、憎むとはなんたる不幸者。さっそく切腹させよ」といい、さらに「義康を切腹させたとして家督は誰に」と聞いてきた。
当然の如く義光は「家親に」と答え、それを聞いた家康は大満足であった。家康一辺倒の義光は、家康の意がどこにあるかを知っていて、家親に家督を継がせる決心をしていたのである。
義光にしても義康のことを憎んでいたとか心底嫌っていたというわけではなかったが、家康の意向が「最上の家督は家親に」というのであれば仕方がない。それほど義光は家の安泰を願っていたのである。

慶長8年(1603年)、帰国した義光はすぐに使いを出して、仲直りしたと言って義康を招いた。義康は喜んでわずかの供回りを連れて登城する。
すると義光は対面するどころか、その家臣が義康主従を取り囲み「高野山に上って出家せよ」と命じた。義康は歯軋りするが時すでに遅し。
主従14騎はそのまま高野山に向かった。国境近くまで来たとき義光の手のものが現れて義康主従をことごとく惨殺。その後義光は里見権兵衛と原八左衛門を殺してしまう。

義光のために弁護するならば、戦国時代においては親子間でも殺しあうことは珍しくなかったし、家の安泰のためには憎くない子供でも殺さなければならないこともあった。
事実家康も最初の子岡崎三郎信康を織田信長の命により殺している。義光にしてみれば家の安泰の為に家康が望むのであれば、義康の死も致し方のないところであった。
もし、義康の家督を強行しても家康のことだから、どんな無理難題を吹っかけてきたかわからない。何も殺さなくてもと思うかもしれないが、義光が殺さなくても家康によっていずれは殺されていたろう。

義康の死から10年後の慶長18年(1613年)義光は病に臥す。余命幾ばくもないことを悟った義光は病躯を押して駿府の家康のもとに暇乞いに赴く。
実際は自分の亡き後の最上家のことが心配で、死ぬに死ねなかったのである。駿府では家康自ら薬を調合して与え義康の病躯をいたわり、帰り道には江戸に立ち寄り、ここでは将軍秀忠に歓待された。
この年10月帰国した義光は69歳で死去。おそらく最上家の将来のみを心配しつつ冥土に旅立った。

最上の家督は規定方針通り家親が継いだ。しかし幼少時から江戸で過ごした家親は最上家の臣を誰も知らない。自然と家親と家臣の間に距離が置かれる。
幕府も最上家中の状況を察知していたらしく、慶長19年(1614年)に幕府老臣土井利勝・酒井忠世・本多正信は連署して、最上家中に対し一致して家親を支えよとの命令書を出している。
慶長19年という年は、家康が大坂城の豊臣秀頼の処理を決め、この冬に大坂の陣が起きる年で、いきおい諸大名の動静に気を配ることになる。

家親は大坂冬の陣、続く翌年の夏の陣ともに江戸城留守居となった。これは同じく江戸城留守居となった豊臣恩顧の福島正則の監視役で、それからしても家親が家康・秀忠の信頼を得ていたのがわかる。
家臣との間に距離はあったものの、このまま何事もなくいけば、最上家は大大名家として譜代並の扱いを受けて家を保てたかもしれない。だが、そうはならなかった。
大坂の陣での江戸城留守居役を無事に果たして家親は山形に帰国した。豊臣家は滅亡し、それに安堵したのか家康は元和2年(1616年)に75歳で死去した。
ところがその翌年の元和3年、山形城中で家親が急逝してしまう。まだ36歳であり、あまりに唐突な死に毒殺されたとの噂も流れた。

幕府は嫡子義俊への家督相続を認めたが、
一、義光及び家親が定めた制度を守ること。
一、2千石以上の婚姻は幕府の許可を得ること。
一、訴訟裁断は今までどおり取り計らい、合議において決定しかねる場合は幕府に言上、指示を得ること。
一、義光及び家親の代に任じた有司は改変しないこと。改変する場合は幕府に届けること。
一、義光及び家親の代に追放した者を許さざること。
一、家臣への加増、新規家臣の召抱えは幕府に申請し、沙汰を受けること。
という条件をつけた。

つまり今までどおりにして、何でもかんでも幕府に相談しろということで、これは半ば幕府の管理下にあるようなものであった。
仙台の伊達、秋田の佐竹、米沢の上杉と周囲の大藩に対する押さえとしての役割を与えられているのが最上家であり、藩主も幼少であることを考えれば、やむを得ないことではあった。
しかも家親の不審な死、さらに跡を継いだ義俊はまだ12歳である。通常なら転封になってもおかしくないのだから、幕府は家中が一致して義俊を補佐するものと考えたのであろう。
逆にいえば幕府はいつでも最上家を取り潰せるとのメッセージでもあり、不穏なことをするなとの警告でもあった。

それにもかかわらず最上家中は動揺した。元和8年(1622年)義光の甥にあたる松根備中守は出府して、老中酒井雅楽頭に家親の死は楯岡光直、山野辺義忠、鮭延越前らによる毒殺であると訴えた。
楯岡、鮭延両名が義光の四男山野辺義忠に家督を継がせるべく家親を毒殺したというのだ。松根はもともと楯岡、鮭延らとは不仲であり、毒殺の噂を真に受けて訴えたのであり、確たる証拠はない。
したがって幕府も「いたずらに曲事を申し立てた」として、松根は筑前柳川藩主立花宗茂に預けられた。

さらに幕府は最上家の重臣間の不和を問題にして、島田弾正、米津勘兵衛を山形に下向させて重臣を詰問した。これに対し鮭延らは「義俊は天性愚かであり、しかも病弱、とても最上の家督を継ぐ器ではない。義光の遺児山野辺義忠を以って最上家を相続さえていただければ家臣一同粉骨いたします」と言上。
だが、噂とはいえ前藩主を毒殺したとされる人物のいうことなどに耳を貸すはずもなく、まったく無視された。
すると鮭延らは松根のような逆臣を厳刑に処さずそのままにしておくようでは、再び讒言人が出るやも知れない。義俊本領が収公されるならば、われら暇を給わり出家して高野山に入りたい」と言い出した。

これはもちろん本心ではなく、強気に出れば幕府も考え直すであろうと計算して言ったものである。だが幕府の裁断は厳しいものであった。
「山形は要害の地であるにもかかわらず、義俊は幼少、それを補佐する老臣は不和、これでは到底要害の地を預けおくわけには行かない。領地はことごとく収公し、義俊には成長後新たに6万石を与える。」というものであった。
義俊には取り敢えず近江で1万石が給された。だが、6万石の約束は反故にされ、義俊は近江の地で悶々とし、寛永8年(1631年)わずか26歳で死去した。

義俊が死去すると、その子義智はさらに領地を半減され5千石の旗本に落とされてしまう。以後最上家は二度と大名になることはなく幕末まで旗本として続いた。
一方、山野辺義忠は水戸家に1万石で召抱えられ、鮭延越前も土井家に召し出される。したがって義忠は単に担ぎ上げられたに過ぎないのかもしれない。
損をしたのは義俊で、失態は何もないのに57万石を棒に降った。世上ではこれを「義康の怨念が最上家を潰した」と言ったという。

参考文献:陸奥・出羽 斯波・最上一族(新人物往来社)、大名廃絶録(南條範夫・新人物往来社)、江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、日本姓氏家系総覧、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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