歴史の勉強

松平日向守忠之

大名家の廃絶理由の多くを占めるのは無嗣であるが、江戸中期以降は末期養子が認められるなどの結果、無嗣による改易は激減した。
その無嗣断絶とともに以外に多い理由が乱心である。今でいう心の病が高じて政務に耐え得ずくらいならまだしも、家臣や妻女を刃傷に及ぶなどというのもあって、その程度はいろいろだが廃絶録などを見ても、その多さには驚く。
もっとも乱心というのは都合のいい理由であって、開幕期ならともかく安定期に入ると反幕的な態度を示した大名であっても、さしたる落度がなければ簡単には取り潰せなくなったから、権力者側としては乱心、狂気に及びという理由を無理やりつけて取り潰したという例もあったのであろう。

元禄6年(1693年)11月25日というから、将軍は五代綱吉、幕政はもっとも安定しているころのことである。下総国古河藩8万石松平(藤井)忠之が改易となった。
藤井松平家というのは松平家五代長親の五男利長が三河国碧海郡藤井郷に領地を得て分家した、いわゆる十八松平のひとつであり、二代目の信一は家康の幼少期から仕えた歴戦の士であった。由緒ある家柄だ。
忠之はその六代目であり、父信之は老中を勤めていた。松平信之は老中就任とともに古河に移されたのだが、その前は大和郡山8万石、さらにその前は播磨明石で6万5千石を領していた。
明石では信之は民政に尽くして領民に慕われたといい、名君といっていい人物であった、この信之の明石時代に信之のもとに預けられたのが熊沢蕃山である。

蕃山は野尻藤兵衛の子として、元和5年(1619年)に京で生まれ名を伯継(しげつぐ)という。のちに母方の祖父である熊沢半右衛門守久の養子となった。蕃山というのは隠居名である蕃山了介からきている。
寛永11年(1634年)丹後宮津藩主京極高広の紹介で、備前岡山藩主池田光政の小姓となったが、その後いったん池田家を離れ、中江藤樹の門下に入り陽明学を学んだ。
正保2年(1645年)に再び岡山藩に出仕したが、藩主光政は陽明学に傾倒していたために藤樹門下である蕃山を重用した。
岡山藩時代は庶民教育の場となる「花園会」(閑谷学校の前身)を設立したり、「諌め箱」を設けて領民の意見を求めたり、植林事業を行って治山治水につとめ、承応3年(1654年)お大洪水の際には米を残らず放出して領民を救済するなど活躍した。

一方で武士階級に対しては厳しい態度で臨み、禄の削減や帰農を主張したため家老職と対立し、光政とも意見の喰い違いがみられるようになった。
さらに幕府の学問である朱子学と対立する陽明学を学んだ蕃山は、保科正之や林羅山らからも批判されることとなった。もっとも蕃山自身は「朱子にも陽明にもなじまず」と言っていたといい、現在一般的にいわれているように陽明学者ではなかったようである。
蕃山の陽明学的なところは理論より実践という考え方であり、自由派であったとする方がいいようだ。自然保護論者とされるが、それも自然が一番ではなく、開発によってデメリットがあるようなら自然のままの方がよいという考えであった。
新田開発に反対したのは、山林がなくなると肥料の採草や薪の採集ができなくなり、保水能力が落ちて洪水になりやすく、また新田開発に人手が取られるからであって、これらの問題がなければ新田開発は良しとしていた。事実後年になって幽閉先の古河では新田開発を指導している。

しかしながら発想はどうあれ反幕的であったと見られたのは事実であり、退隠して備前国和気郡蕃山村に棲んだが、さらに幕府と藩から圧力がかかり、明暦3年(1657年)に岡山藩を去り京に移った。
京では私塾を開いたりしたが名声が高まり、京都所司代によって追放処分となった。大和吉野山や山城鹿背山に隠棲したが、寛文9年(1669年)に幕府により捕らわれ、明石藩主松平信之に預けられた。
特に幕府が問題としていたのは山林保護、参勤交代の廃止、浪人の救済など幕府政策の根幹にかかわる部分であったようだ。
ところが預けられた方の信之は番山に傾倒し庇護してしまった。信之は学問好きでもあり、また農政にも熱心であったから、農政に明るい蕃山の意見を聞くうちに信頼するようになったのだろう。

幕府の手前もあるから形式的には幽閉の形を取ったろうが、実質的には顧問格のようなものだったろう。信之が大和郡山、次いで古河に移ると蕃山もしたがった。
信之は古河に入封して1年ほどで没している。老中在任のままの死であった。跡を継いだのが忠之であるが、忠之はこのとき13歳である。
もっとも幼いころから、父信之ともども番山の教えを受けていたであろうことは間違いないだろう。帝王学とはそういうものだろうし、父信之が信頼した蕃山を忠之は無条件で信じたろう。
先に書いたように蕃山は古河に移ってから新田開発を指導し、そのときの溜池も現存しており番山堤まで残っている。この新田開発によって4万石もの増産になったという。

このくらいまでなら幕府としても黙認の範囲であったかもしれない。しかし貞享3年(1686年)に完成した経世済民の書である「大学或門」(だいがくわくもん)は見逃すわけにはいかなかった。
治山治水論、農兵論、貿易振興、参勤交代廃止、鎖国の緩和など見過ごすことのできない内容であり、貞享4年(1687年)に幕府は忠之に蕃山の幽閉を命じ、蕃山は城内の立崎郭に幽閉された。
一方、将軍綱吉は年を追うごとに朱子学への傾倒を強めて行き、朱子学全盛の時代になっていく。元禄3年(1690年)には湯島に孔子廟が造られ、綱吉自ら孔子廟で林鳳岡の講義を聴いた。
このような状況で蕃山は常に監視されたに違いなく、忠之の蕃山に対する扱いは生温いと批判されたであろう。元禄4年(1691年)8月、蕃山は73歳で没したが、その思想に染まった忠之への圧力はやまなかった。

信之や忠之には幕政を批判する意図は毛頭なかったに違いない。藩主として領民を思い、蕃山の農政に対する知識、治山治水の能力を必要としたのであった。
しかし幕府としては思想犯蕃山自体が悪なのであって、批判思想のもと蕃山の全てが忠之に受け継がれていると考えた。ましてや綱吉は偏執狂的な人物である。
蕃山死後も忠之は監視下に置かれ、ことあるごとに圧力が加えられただろう。若く経験不足の忠之には相当のストレスになったに違いない。徐々に精神が蝕まれたとしてもおかしくなかった。
元禄6年(1693年)11月23日、老中戸田忠昌の使いとして秋田淡路守ら3名が江戸の忠之の屋敷に入った。ここで何が話されたのかはわからないが、その夜忠之は小刀を振りかざし自身の髪を切ったという。これが乱心の全てである。

翌朝、家臣の若山六郎左衛門が忠之の行為を幕閣に報せ、その日のうちに忠之の改易が決まった。すさまじい早さである。
想像するに老中戸田忠昌の使者というのは、忠之隠居や退任などを強制したものであり、家臣にも充分に老中の内意というのは伝わっていたのであろう。
あるいは表向き退隠すれば、既に1万石を得て分家している忠之の弟信通に跡を継がせる等の話もあったかもしれない。この最後通告に忠之の精神が耐え切れなくなったのかもしれない。
自身の髪を小刀で切っただけで乱心改易というのも酷に過ぎるし、家臣たるもの隠すのが筋であろう。若山六郎左衛門は幕府の監視の密命を帯びていたかもしれないし、一方でどうせすぐに幕府に知れてしまうなら早い方がいいと判断したのかもしれない。小説ならばどうとでも面白く書けるような材料だ。

いずれにせよ幕府の思惑通り忠之は改易となった。もともと幕府は忠之を反幕思想の持主の蕃山一派と考えていたから、乱心取り潰しは規定方針通りであったろうし、幕府の策謀があったことも間違いないと考えられる。
気がとがめたのか、藤井松平家は由緒ある家柄のためとして、分家していた忠之の弟信通に家督相続が認められ8万石のうち2万石が与えられた。有無を言わせずすさまじい速さで改易にしておき、いまさら由緒ある家柄も何もないものだ。
信通は旧領の1万石と合せて3万石の所領となり備中庭瀬に移り、その後出羽上山藩主となった。その子孫は明治維新まで上山藩主として続いた。
一方の忠之は信通に預けられた後、元禄8年(1695年)4月19日に江戸において22歳の若さで世を去った。無念であったろう。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、歴史読本スペシャル29「お家取り潰し」

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