歴史の勉強

万石騒動

正徳元年(1711年)安房国北条藩で、のちに万石騒動と呼ばれることになった、農民の大規模な一揆が起きた。北条藩主は屋代越中守忠位、1万石の小大名であった。
屋代氏の出自は信濃村上氏というから清和源氏である。戦国期に村上頼国の子満照が、埴科郡屋代郷に住んで屋代と名乗った。現在でもしなの鉄道に屋代駅があり、その付近であろう。
その屋代氏は、やがて信濃に進出してきた武田信玄に仕え、武田氏が滅びると武田氏に代ってこの地方に進出した上杉謙信に与した。さらに徳川家康が信濃に勢力を伸ばしてくると酒井忠次の仲介で家康に属した。

このころの屋代家の当主は秀正といい、秀正は大坂の陣では旗奉行を勤め、やがて二代将軍秀忠の子の徳川忠長に付属させられる。
その子の忠正も父秀正とともに忠長付きとなり、やがて1万石を得てその家老となる。だが、忠長は寛永9年(1632年)10月に三代将軍家光によって改易された。当然にその家老であった忠正も罪を得て、越後高田藩主松平光長に預けられた。
忠正は、寛永13年(1636年)9月に許され先手鉄砲頭となり、安房北条1万石を与えられて北条藩を立藩した。北条とは今も地名に残り、館山駅や市役所の一帯である。領地は安房郡内26ヶ村、朝夷郡内1ヶ村であった。

やがて忠正が死去すると、忠興、忠位と家督を継いだ。忠興、忠位とも養子であり、いずれも屋代氏とともに忠長の家老職であった朝倉家の出身である。
万石騒動時の藩主忠位は、正保4年(1637年)の生まれで、父は朝倉宣季という。先代忠興の父朝倉宣正の長男が宣季であるから、忠位は伯父の養子になったことになる。
延宝5年(1677年)と元禄2年(1689年)に大坂加番、元禄6年(1693年)に大番頭となる。正徳元年(1711年)に大番頭を辞するが、この年に万石騒動が発生した。

万石騒動を一言で言ってしまえば、年貢の大幅増に反発した農民が起こした一揆であるが、その背景には小藩の財政難があった。
江戸時代も元禄を過ぎて正徳年間に入ると、各藩とも多かれ少なかれ財政難に見舞われている。各藩では藩政改革、殖産振興、新田開発、倹約、借金、藩士の削減や減俸、増税など、あの手この手で財政の建て直しを図る。
しかし比較的大きな藩はともかくとして、北条藩のような極小藩では建て直しにも限界があり、財政悪化も早く訪れた。だからといって座視するわけにもいかなかった。

そのため北条藩では、勝手方役人として川井藤左衛門、高梨市兵衛を召抱え、藤左衛門を用人、市兵衛を代官に任じた。経済の専門家であった藤左衛門は増収策として、お留め山として森林資源を保護していた山の木を伐採して売り払うなど、なりふり構わぬ策を実施しだした。
しかし、北条藩のような小藩では小手先が使えることなど限られており、すぐに万策尽きてしまう。そこで年貢の増微を策した。

北条藩の当時の表高、所謂公称の領地高は1万石であるが、実高は1万2千石であった。北条藩の年貢率は40〜55%であり、これは全国的に見て標準的な年貢率であった。
年貢率40%であれば、1万2千石の40%の4千8百石、55%であれば6千6百石が年貢である。藤左衛門の年貢増微は約2千4百石というから、20%に相当する。つまり40〜55%であった年貢率が60〜75%になったのである。
いつの世でも増税は嫌われるのに、今までの1.5倍もの高率の年貢を納めさせられるのだから、農民は憤慨した。しかも、全藩を検地して実施したわけではなく、上田とよばれる収穫率のいい田を検地して実施したから、農民たちの反発も激しかった。

600人の農民が北条の陣屋に押しかけ年貢増微に撤回を要求した。陣屋では役人がでて、藩政の中心は江戸であり、陣屋の一存では回答できないと逃げた。
そこで正徳元年11月7日農民たちは江戸の藩邸に押しかけた。ちなみに屋代氏は参勤交代しない定府大名であり、藩主も主だった役人も江戸に詰めており、したがって藩政の中心も江戸藩邸であった。
こういう藩の場合は、藩主は一度も国に入ることがなく、したがって藩主とはいえ領地の様子や問題など一切知らないことが多かった。
忠位の頃の北条藩もそうで、その場合は現地の陣屋は出先の役所と同じで、確かに一存では回答できない。

江戸に押しかけた農民は門訴し、この事態に驚いた忠位は農民の要求をいれ、藤左衛門と市兵衛の証文を農民に渡した。
これによって農民は江戸を去り、北条に帰った。ところが、それを追うように藤左衛門と市兵衛が藩士多数を引き連れて北条に入り、首謀者として名主6名を捕縛し、うち3名を死罪とした。
おそらく江戸で暮らした経験しかない忠位が藤左衛門たちに言いくるめられたのであろう。このあたり忠位のお殿様振りがよくわかる。
この処置に農民たちは激怒した。約束を反故にされたのであるから当たり前である。ここに至って農民は藩主頼りにならずとして老中に駕籠訴した。これが12月のことである。

老中への駕籠訴により、事件は幕府の裁くところとなって、翌正徳2年(1712年)7月21日に判決となった。農民の要求はほぼ認められ、騒動の責任を問われて藩主忠位は改易のうえ逼塞、先祖の勲功を考慮され3千石を与えられた。藤左衛門は死罪、市兵衛追放となった。
なお、忠位は同年に旗本に列して逼塞を解かれたが、翌正徳3年致仕、翌4年2月20日に68歳で死去した。なお、屋代家はこの後も旗本として存続した。忠長改易のときといい万石騒動の時といい屋代家もしぶとい。
また北条藩は享保10年(1725年)水野忠定が1万2千石で入封するまで廃藩となった。

参考文献:別冊歴史読本「御家騒動読本」(1991年新人物往来社)、歴史読本スペシャル「お家取り潰し」(1990年新人物往来社)

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