歴史の勉強

加藤肥後守忠広

豊臣秀吉子飼いの勇将加藤清正が、熊本城で没したのは慶長16年(1611年)6月24日のことであった。すでに関ヶ原の戦いで徳川家康の覇権が確立し、豊臣秀頼の今後がどうなるか、というときのことで、清正は二条城での秀頼と家康との対面の場で秀頼のことを終始守護し、無事に対面を済まして帰国する船中で発病、回復することなく死去したのだった。
二条城の対面の場で秀頼の姿を見た家康は、思いのほか立派に成長した秀頼に内心驚き、このままでは豊臣恩顧の大名たちが秀頼をかつぎ上げることを心配したあまり、豊臣大名の筆頭格である清正を毒殺したとの説もあるほど、家康にとってタイミングのよすぎることであった。
一方清正にしてみれば、数年後の豊臣家の滅亡を見ることなく没したことは、ある意味で幸せなことだったかもしれない。

清正が秀吉一辺倒であり豊臣恩顧の人物であったことは間違いないことであるが、だからといって情勢を考えれば再び豊臣の天下を実現しようとまでは思っていなかったろう。
一大名としてどこかで存続できればいいと考えていたのかもしれない。もし、大坂の陣のとき清正が生存していたとしても秀頼に味方して戦ったとは考えられないし、清正というのはそれほど無分別な男とも思えない。
だが清正が秀吉のもとに奉公してから肥後熊本54万石の太守になったのは、秀吉のひきが大きく与ったことも、また事実であった。
地盤も何もない人間が一代での出世である。清正一代記は自身の槍一筋と秀吉の贔屓で成り立っている。

そんな清正だから家中の仕置もワンマンであった。加藤家では家老を置かず、清正一人が判断して政治をしていたという。戦場では勇将であった清正だが、民政でもまた名君であったらしい。
とくに築城や土木の才に恵まれ、治水工事などでは実績を挙げて領民からしたわれたという。清正が生きてるうちは、それでよかったのだが、死んでしまうとそうはいかなくなった。
清正の跡を継いだのは二男の虎藤。清正没後に元服して将軍秀忠の一字を賜り、忠広と名乗る。ときに10歳とも16歳ともいう。
勇将にして名君加藤清正が一代で築き上げた54万石を得、2年後に将軍の養女となった蒲生秀行の女を正室に迎え、将軍家の縁戚となる。

ところがこの忠広というのが苦労知らずの凡庸を絵に描いたような二代目であったことが、加藤家の運命を分けた。
凡庸なうえに幼い忠広でが大国の統治は難しいし、先に書いたように清正は独裁体制を布き家老職を設けていなかった。したがって幕府は藩政に介入して家老職を置くこととした。
加藤与左衛門、加藤右馬充、加藤美作、並河金右衛門、下川又左衛門の5人で、藤堂高虎が監察役となった。さらに慶長18年(1613年)には、高虎に替えて幕臣の阿部正之、朝比奈正重が監察役として熊本に送り込まれた。
加藤家は間接的に幕府の支配下に置かれることとなったのである。というのは、いよいよ大坂の豊臣家との間が風雲急を告げつつあったからで、ここで豊臣恩顧の加藤家に下手な動きをされてはたまらない。
翌慶長19年の大坂冬の陣、このとき忠広は大坂に向かったが、途中で講和が成立して帰国している。つまり何もしなかったのであり、これは幕府の望むところでもあったろう。意図的に出兵を遅らせたのかもしれない。

元和元年(1615年)の大坂夏の陣では島津在国中は守りを固めよ、との命を受け在国した。つまりあてにはされていなかった、というより出陣する必要なしとされたのだ。
大坂の陣で豊臣氏が滅亡すると当面の憂いがなくなり、翌元和2年に家康が死去すると幕府は豊臣恩顧の大名に何の遠慮もいらなくなった。
幕府は豊臣氏が大坂にあることを前提にして諸大名の配置や政策を考えていたのだが、幕府の都合だけで大名政策を実行すればよくなった。
それは豊臣恩顧の大名だけでなく、譜代大名や徳川一門にも及んだ。家康没後に越後高田の家門松平忠輝(家康六男)や安芸広島の福島正則が改易されたのは、まさに政策の一環であった。

秀忠政権にとって忠輝や正則は憂いでしかなく、ささいな落度、それもなければ冤罪を着せてでも改易して憂いを絶ち、同時に将軍家の権威を高める必要があったのだ。
この重大なときに加藤家では家老達が対立して派閥を競い、権力闘争を始めた。家老達は錚々たるメンバーで、苦労知らずの忠広に抑えられるわけもない。
出羽山形の最上家が改易されたのも、幼君を補佐すべき重臣達の権力闘争が原因であったが、加藤家もまったく同じ道をたどり始めた。
最上家の場合は大身の重臣達が知行地を持ち、治外法権的な政治を行うという中世的な統治体制を布き、近世大名に脱皮できなかったのであるが、加藤家の場合は戦国時代の気風をそのまま受け継ぎ、家老職の役割をはき違えたことが、改易の原因となったように思う。

とにかくも派閥争いは激しさを増し、その一方は加藤美作を筆頭に、その子息の丹後、中川周防、玉目丹波、和田備中ら。他の一派は加藤右馬充を頭に下川又左衛門、並河志摩、加藤平左衛門、下津棒庵、庄林隼人、森本儀大夫などであった。
対立が激化する中、元和4年(1618年)右馬充派の木造左京とその子の内記が脱藩した。その原因は忠広が大名の織田信良の招待を受けたときのことにある。
当時は、このような時は料理や給仕は招かれた側がするのが風習であった。暗殺や毒殺の用心のためである。もちろん信良もそのつもりでいたが、忠広はそのような配慮は無用のことと挨拶した。ところが信良の方も引かなかったので、忠広は小姓2人だけを連れて行くことにした。

このことを伝え聞いた木造内記は左京と相談して、当日織田家の勝手方に詰めた。もともと木造父子は信良の親戚であり、よかれと思ってやったことだし、家老の加藤丹後の許可も得ていた。
当日、忠広は勝手方に詰めている木造父子を見て不快に感じ、帰邸後に2人を呼び叱責した。信良に対して嘘を言ったことになるからである。
叱られた2人は丹後の許可も得ていると答えたが、忠広に問われた丹後は「許した覚えはない」と逃げた。これが左京と内記の脱藩の原因で、左京の義父の下津棒庵も家を立退いた。
いくら戦国の気風がまだ残っている時代といっても実にくだらない。こんな藩主や重臣に政治をやられてはたまらない。しかもこれに留まらずに棒庵は、加藤家の政治の乱れや家老職の私曲を幕府に訴え出たのだ。

幕府の方でもおそらく加藤家の政治の乱れを掴んでいたのだろうが、向こうから訴えが出たのだから内心喜んだだろう。加藤家もまた幕府にとっては憂いの家であったのだ。
幕府では関係者を呼び出して、秀忠が親裁することとなった。この席で両派の頭目である右馬充、美作とも一歩も譲らずに相手方の私曲専横を主張したが、つに右馬充の口から聞き捨てならない発言が飛び出した。
美作と丹後の父子は大坂冬の陣の際に、先に海運のためと称して建造した大船2艘をもって、大坂方に兵糧と援軍を送ろうとしたというのだ。
しかも美作父子は忠広出陣の際に国元で豊臣方に拠って挙兵を企てたともいうのだ。これが事実かどうかはともかく、この発言で美作父子は言葉も無く狼狽し、秀忠は気分を害して席を立ったという。美作派の敗北であった。

美作父子はじめ中川周防ら33名が流罪となり、大坂方に内通したとされる横江清四郎、橋本掃部介、同作太夫は斬罪となった。
忠広は若年の故をもって、また将軍家の姻戚でもあったために許され、今後は右馬充らが国政を輔導すべしとされた。宿敵美作一派が排除されたことで、熊本藩政は右馬充一派に牛耳られた。
元和8年(1622年)幕府は加藤家の領内にあった八代城を出雲松江に移すことにし、加藤家にその作業を命じた。この移転費用で加藤家の財政は急激に悪化し、これに対処するために寛永元年(1624年)領内総検地を行い、その結果として苛酷な年貢を領民に課した。
このとき総検地で打出されたのは96万石であったという。54万石の石高に対してである。新田開発などにより若干の増加を見るのは当然としても、96万石というのはベラボウに過ぎる。

このことは領民の反感をよび、周辺諸大名もその実態を批判して、幕府の知るところとなった。もちろんこうなることは幕府の筋書き通りといってもいい。
八代城移転も加藤家の財政悪化を目論んで命じたことだったし、目的はいかに加藤家をもっともらしく取り潰すかにあったのだから、領内のゴタゴタは幕府の歓迎するところであった。
やがて秀忠が隠居し、家光が三代将軍となった。家光は生まれながらの将軍と公言したというが、それはまた家康や秀忠のように戦場疾駆や幕府創設の苦労がないということである。
それがために権威を確立し、絶対君主としての地位の裏付けとする必要があった。してがって絶対君主確立の妨げになるものは排除しなければならなかった。それが弟の駿河大納言忠長の改易であり、加藤忠広の改易であった。

忠長は幼少時から聡明の誉れが高く、秀忠の寵愛も深かった。一時は三代将軍は忠長との噂もしきりであったが、それを家光に引き戻したのは、家光の乳母春日局と家康であった。
忠長は駿府50万石に封ぜられたが不満は大きく、兄である家光を軽んじた。やがてストレスがそうさせたのか、傍若無人な振る舞いが目立つようになった。
家光は秀忠生存中は我慢したが、寛永9年(1632年)秀忠が死去すると、直ちに忠長を改易した。不孝なことに忠広は、この忠長と親しかった。
豊臣恩顧、重臣間の騒動、苛政、さらに忠長との親交とくれば加藤家の運命は決した。これというはっきりした理由のないまま加藤家は取り潰されてしまう。

幕府の大名に対する政策では、とくに中国、四国、九州は豊臣恩顧の大名の整理が遅れ、外様大藩がひしめいていた。そのために幕府としては隙あらば外様大名を改易して、譜代大名を配置したかった。
そういう流れの中で隙だらけだった加藤家が、改易の標的になったというのが真相であり、それが家光の将軍としての権威確立に寄与することになったのだが、表向きはそんなことは言えない。それが加藤家改易の不明朗さになっている。
いくつかの俗説はある。そのひとつは、寛永9年4月10日、旗本室賀源七郎の屋敷に侍がやってきて文箱を差し出したが、差出人のわからぬ文箱は受取れぬと断ると、その侍は文箱を隣家の井上新左衛門の屋敷に捨てて逃げて行った。
新左衛門の家臣が文箱を見ると、将軍家に対する謀反の密書である。驚いた井上家では老中に届け出て件の侍を探索し、やがて発見捕縛した。
その侍は加藤光正家臣前田五郎八と名乗った。光正とは忠広の嫡男で、当時14歳になり江戸屋敷にいた。これがもとで忠広、光正が糾弾されたという。

また「武家盛衰記」では光正の家臣に広瀬庄兵衛という愚鈍な男がいて、いつも光正のなぶりものになっていた。あるとき光正は広瀬を召し出して「このたび密かに謀反を企て、挙兵することとした。ついては汝を一方の大将とする」とからかったが、愚鈍な広瀬は疑うことを知らず震え上がって逃げ出した。
光正はさらにイタズラ心を発揮して、数日後に広瀬に再び謀反の相談をする。広瀬は「我君御一人でかような大事は無理」と真剣な顔で諫止した。
光正は内心大笑いしながらも真面目な顔で偽作した謀反の廻状を見せて、「各大名も連判している上、間違いのないこと」とさらに広瀬をからかった。
広瀬は最早これまでと、大老土井利勝の屋敷に駆け込んで訴えたが、さすがに利勝は光正の戯れと推察した。しかし、これを改易の理由にしない手はないとして、忠広、光正を喚問したとする。

いずれにせよ幼稚な話であり本当とは思えないが、そんな話がでるほど忠広の改易の理由は不明朗なのだ。ただ忠広以上に苦労知らずの光正が、イタスラ好きだったのは本当のようだ。
加藤家改易は幕府の既定方針となり、寛永9年夏に帰国中の忠広に対して21ヶ条の詰問状を渡して、速やかに出府して弁明せよとの命令が出された。
その21ヶ条の内容が何であったかは不明だが、加藤家の方でも事情は把握しており、一部では命令を拒否して籠城するのが良策との意見も出たようだ。
幕府でも周辺大名に動員準備を命じたという。しかし加藤右馬充は、「籠城して反逆者の汚名を残すのは末代までの恥」とし、忠広もその言を容れて出府した。

しかし幕府は忠広を品川宿で止め江戸に入るのを許さず、池上本門寺に待機させた。幕府は嫡子光正の不届き、母子を無断で国許に送ったこと、さらには平素の行跡よろしからずとして肥後一国を収公、忠広は出羽庄内酒井忠勝に預けられ1万石が宛行われ、光正は飛騨高山金森重頼に預けられた。
光正はこの翌年に忠広に先立って死去したが、自害であったともいう。一方、忠広は庄内丸岡村で22年暮らして、承応2年(1653年)に57歳で死去した。
丸岡村での暮らしは幽閉そのもので、幕府は悪地を選んで与えるよう酒井家に命じたという。加藤家改易の跡には豊前小倉から細川忠利が移された。
細川氏も外様大名であったが幕府との関係はよく、好感をもたれていた。そして細川氏の跡の小倉には譜代大名である小笠原氏が入り、小笠原氏は九州諸大名の監察の役目も負ったという。

参考文献:大名廃絶録(南條範夫・新人物往来社)、江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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