歴史の勉強

生駒騒動

江戸時代初期のお家騒動である生駒騒動。暗愚の藩主高俊が原因で譜代の重臣と新参の重臣が争う派閥抗争となり、その結果生駒家は改易となってしまう。

藤堂高虎、生駒家の後見となる

秀吉の時代に中村一氏・堀尾吉晴とともに三中老の一人であった生駒親正は、関ヶ原役の際に行きがかり上、西軍に与したものの、その子一正は東軍につき、讃岐一国の本領を安堵された。
本領安堵をどう評価するかというと、一族を挙げて東軍についた大名家が(藤堂家や浅野家は例外として)僻地へ転封されたとはいえ大幅な加増を受けたことを思えば、結果的に二股をかけた家が本領を安堵されたことは妥当なところであろう。
生駒家は親正が関ヶ原役直後に隠居し、一正、正俊と続いたが一正、正俊ともあまり長生きはせず、一正は慶長15年(1610年)に56歳で没し、正俊も元和7年(1621年)に36歳で死去した。

この当時は徳川幕府の草創期であり、幕府としては外様大名の取り潰しにやっきとなっていた。少しでも落ち度があれば、というより取り潰したければ少々無理をしても落ち度を仕立て上げても取り潰していた。
そのために外様大名は取り潰されぬよう幕府の機嫌を伺い、様々な対策を打った。一正はその対策として正俊の正室に伊勢津の大名藤堂高虎の女を娶った。

藤堂高虎は生駒家同様外様大名であったが、高虎に対する幕府の信任はたいへんなものであった。家康は高虎を厚く信任して、要衝であった伊勢津を与え幕府軍の先鋒とした。
二代将軍秀忠もまたしかりであった。秀忠は高虎を始終江戸城中に招き様々な諮問をし、夜話を聞いた。烏の飛ばぬ日はあっても江戸城に高虎が上がらぬ日はないと言われるほどであった。
それほどの人物だから高虎の女を正室に迎えるということは、幕府や将軍家とも高虎を通じてつながりができたといことで、生駒家の将来を磐石なら占める手段の一つであった。

やがて正俊の世となり、正俊が在封11年で死去した。正俊と正室藤堂氏との間には嫡子の小法師がいた。このとき11歳、元服前であった。
小大名や譜代大名ならともかく、17万石の当主としてはあまりに幼かった。相続は許されたが、場合によっては減知転封となるかも知れず、封地は安堵されても幕府からは目付が派遣されること必定であった。
幕府の目付というのは藩政の監察であるから、落ち度があったり争いがあれば幕府にすぐに知れ、結局は取り潰されてしまう危険がある。そうはならなくても家中は気を使う、鬱陶しいものであった。

生駒家の場合は小法師の母の父、つまり外祖父である高虎の奔走もあったのだろう、高虎が後見することで目付の派遣もなく本領も安堵され、生駒家中は胸をなでおろした。
高虎は生駒家に対して
(1)先代と変わらぬ政治をせよ。特に町人・百姓が困窮しないように注意すること。
(2)小法師幼少につき家中一同注意して争い事のないように気をつけよ。
(3)公事ごとはひいきをせず、家中にて処置できかねる場合は高虎に報告して指示を受けよ。
という定書きを下した。ここまでは別にどうということはない。

騒動主役の登場

暫くして生駒家の江戸詰めの家臣であった前野助左衛門、石崎若狭の両人が高虎のもとに来た。
この両人は、もともと生駒家譜代の家臣ではなかった。両人とも殺生関白と言われ、秀吉に自害を強要された豊臣秀次の重臣前野但馬守長秦の一族であり、秀次事件で浪人をしたが、前野家と生駒家が親しくしていたために、生駒親正が2人を家臣とし、その後一正、正俊にも仕えた。

両人ともに才気があり、勤勉でもあったので正俊も重用していた。高虎もかつては秀吉の弟で大和大納言と言われた豊臣秀長の家老であったので、秀次付きの両名を知っており、高虎が生駒家の後見となると、高虎をよく知る両人は生駒家中でも格が上がるし、高虎としても生駒家中の様子を知るために両人に対して格別の情を示す必要があり、当時の両人は家中でもかなりの羽振りのよさであったろう。
その前野・石崎が言うには、国元の主席家老生駒将監は藩主の一門でもあり、次第に権勢を増してきて最近では専横のこと著しいというのである。

高虎は家中の争いとなることを恐れ、両人を諭して帰したが、これは前野・石崎が出世のために将監の失脚を狙ったという説と将監に本当に専横の振舞いがあったという説がある。
このときはこれで済んだが、高虎が讃岐の様子を見ていると前野・石崎のいう将監専横の事実が本当のことのように思われることが起きた。

讃岐はもともと水利の悪いところで、今でも溜池などが多いが、戦国の世が終わって間もない当時は、少し日照りが続けばたちまち干害に襲われるところだった。
事実大干ばつに見舞われたから、干害対策が急務となった。高虎は讃岐に西島八兵衛という者を派遣していて、その西島は干害対策や農政などのプロであった。
さっそく溜池の整備や用水の開鑿などに奔走した。ところが生駒家中の重臣たちがまったくついてこない。将監など主席家老でありながら人ごとのようで、干ばつのときも対症療法に終始するばかりだった。

それでも西島の奔走と努力によって新田が開かれ、干害に対する備えもでき、おかげで藩財政は安定を見た。すると生駒家中は途端に華美になり贅沢にはしった。
呆れ返った西島の報告を聞き、高虎は苦々しく思ったに違いない。さらにここで将監はヘマを一つやった。
高虎のもとに使いを出して、大和郡山の大名水野勝成の女を、将監の子帯刀の正室に娶りたいと言ってきたのだ。大身の家臣の縁組は幕府の許可がいるために、その前に後見である高虎の許しを得に来たのだ。
これを聞いた高虎は激怒した。奢りがましいというのだ。絶対に許さぬと言い、この縁談は立ち消えになったが、高虎はこの一連のことで、先に前野・石崎が言ってきた将監専横の件は、まんざら根拠がないことでもないと思ったのであった。

前野助左衛門と石崎若狭の専横

この当時小法師は既に元服を終えていた。小法師の元服は寛永2年(1625年)のことで、高虎が烏帽子親となり自身の一字を与えて高俊と名乗らせ、翌年には従五位下壱岐守となった。
高虎はこの孫のために、幕府主席老中土井利勝の女を正室にすべく、その仲を取り持った。高俊はまだ若く経験も乏しいために、元服後も高虎が後見していた。
その高虎は将監の専横を憂い、将監の権力を殺ぐことを考えた。そのために将監に対抗できる人物として、高俊の叔父にあたる生駒左門を家老にし、目付役として前野・石崎の両人も江戸詰め家臣から家老に昇格させた。

このことで将監の力が弱くなったのは確かであるが、前野・石崎の権力は格段に強くなった。やがて寛永7年(1630年)高虎が死去し、藤堂家の家督は高次が継ぐ。高次は生駒家の後見役も引き継いだ。
高次は父高虎とは比ぶべきもない凡人であり、とても他家の後見役など勤まるような人物ではなかったようだ。
一方前野・石崎にしてみれば、藤堂家がバックにあることで家中に権勢を保っていられるのであるから、高次に対しても取り入る必要があった。

前野・石崎は高次に対して「家中の気風を当世風に直すために、しかるべき人物の推薦を賜りたい」と願い、高次から野々村九郎衛門という人物の推薦を受ける。
家中に対しては後見役の意向として、強引に召抱えさせた。さらに、前野・石崎に批判的で、藩の経済面を担っていた重臣三野四郎左衛門の弟庄左衛門が病死すると、その領地を半減させて嗣子権十郎に相続させ、その後も三野一族にことごとく辛くあたり、ついに三野一族を失脚させてしまう。

一方で前野・石崎にへつらう者を取り立てるなどやりたい放題の事を始めた。寛永12年(1635年)、幕府は江戸城修築の手伝いを諸大名に命じ、生駒家もその一部を割り当てられる。
普請奉行となったのは前野と石崎であったが、藩は財政難で費用が出ない。そのために江戸の材木商木屋六右衛門から金を借り、無事普請を勤めた。
ここまではまだよかったが、ここで前野・石崎は図に乗ってお手盛りで千石づつ加増をしたのだ。
ここでも高次公の内意とし、石崎に加増をつかわす指図書を前野が書き、前野への指図書は石崎が書くという手口で、藩主高俊の承諾ももらい、半ば勝手な加増をした。それも加増分については年貢率を五分増しにしてしまった。通常の年貢率は四割だが、四割五分としたのだ。

ところが木屋に対しては借金返済のあてがない。そこで高松城の南にある石清尾山(いわせおやま)の松林の松を伐採させて木屋への返済に充てることにした。
木屋は高松に招待されて松林を見て多いに気に入り、その後前野の息子治大夫の勧めで讃岐国内を見物した。
治大夫はそのころ家老並となっていて、木屋の国内見物に際して、大切な客人である旨、国内各所に触れを回すほど気を使った。

しかし石清尾山は親正入府のときから高松城を守る南の要害とされ、松の伐採はおろか入山すら厳しく禁止された山であった。
それを伐採させたのだから大騒ぎになり、しかも妙な噂が立った。松の伐採は木屋への借金返済のためではなく、前年に前野が後妻を娶った際に木屋がその世話をし、それに対する礼であるという噂で、事実ではないのだが日頃から専横の振舞い多い前野だから家中ではほとんどのものが信じたという。

生駒おどり

この間高俊はどうだったかというと、驚くべきことにこうした状況をまったく知らなかったのだ。高俊は先代正俊と藤堂氏の間の一粒種で大事に育てられて我儘であり、かつ暗愚であったようだ。
かねて婚約していた老中首座土井利勝の女と23歳で結婚したが、高俊には男色趣味があった。男色は戦国時代には戦場に女を連れては行けないから、ごく普通の風習であり、江戸初期にもまだ風習として残っていた。

有名なところでは三代将軍家光がそうであった。あるとき家光が気鬱になり、その慰みのために小姓らを着飾らせて舞を踊らせた。これが家光の気に入り、しばしばやらせては見物をした。
上様のお気に入りということで、老中らまで家中から美少年を選んで家光の前に連れて行き躍らせる。諸大名家でも風流おどりと名前がついて真似をする。

高俊には男色趣味があったのでさっそくこれを真似して、毎晩のように風流おどりをやった。さらに参勤交代の時にも気に入りの美少年を召し連れて、美衣で飾らせて馬に乗せたので、生駒おどりと世間の評判になる。
これらが夫人の父土井利勝の知るところとなり、土井利勝は生駒家の重臣を呼びつけて叱りつけた。
ところがこれが高俊の耳に入ると高俊は、「後見である藤堂殿の言ならば聞かねばならぬが、利勝殿は岳父に過ぎぬ。聞く必要はない」というのだから暗君といっていいだろう。
こんな状態だから家中で何が起きているかなど一切無関心だし、重臣たちも藩主を頼みにしていないから誰も味方に引き入れない。

二転三転

このような状態のところに先の石清尾山の騒ぎが起きたのだから、藩内の対立はついに沸点に達した。生駒将監は既に亡く、その嗣を息子の帯刀が継いでいて反前野・石崎の藩士は帯刀を説いた。
帯刀もついには決起することに決心して、江戸に出て前野・石崎らの行状を藤堂家・土井家、それに縁戚でもあった脇坂家に書状を持って訴えた。

後見役であった藤堂高次は書状を見て驚き、土井家・脇坂家の家老らを集め、その席に前野・石崎始め江戸詰めの生駒家の重臣たちを呼んだ。
このときは結局帯刀方、前野・石崎方双方に対して訓戒をして引き取らせたが、生駒家の家風は武士の意地を張る傾向が恐ろしく強く、とてもこれでは収まらなかった。
双方とも白黒はっきりさせて相手方を処断することを望み、対立は日ごとに激しくなる。ついにはお互い挨拶すらしないようにまでなった。前野・石崎の専横も相変わらずで改まらない。

ここで再び帯刀方は高次に訴えた。再び藤堂家の邸に土井家・脇坂家の家老らが集まり、結局先代からの後見である高次に処置が一任された。
高次は万事生駒家のためとして、双方の主だった者を切腹させることにした。土井・脇坂両家も賛成した。なんとも凄まじい解決策ではあるが、事ここに至っては他に解決策はなかった。
前野・石崎ともこの裁きに不満ではあったが、家のためとあれば仕方がない、承服した。

ところが、これに帯刀方の若い藩士が反発をした。彼らにすれば、忠義の者が逆意の者と同罪というのは納得できないという。高度の政治的判断など受け入れる頭はないのだ。
さっそく代表を選び、選ばれた多賀源助という者が江戸に出て江戸屋敷にいた藩主高俊の前に出た。高俊は何で多賀が江戸に出て来たかわからない。
問いただすと、今までの顛末を語る多賀の言に、前野・石崎のその場を取り繕った話しか聞かされていない高俊は驚いた。いかに暗君であったかがわかる。

暗君であるから考え方は単純で、忠義の者の切腹などとんでもないと思い、高次のもとに乗り込んだ。後見とはいえ、一言の相談もなく家臣の切腹を決めるとは何事というわけだ。
高次は高俊の説得にかかるが、高俊はついに首を縦に振らず、高次の「勝手にされよ」と席を蹴った。これですべてがぶち壊しになった。
もっともこれは高俊の言い分ももっともで、いかに暗愚とはいえ藩主は藩主、後見とはいえ他家の家臣に勝手に切腹を命じるとはあまりの行いである。
この辺が高次という人の限界であり、後見役としても適任とは言い難いところだ。

騒動の決着

高松ではこれを聞いて忠義が不忠に勝ったと喜んだが、前野・石崎も黙ってはいない。幕府に訴状を出し、高松城下では前野・石崎方は一斉に城下から立ち退いた。
それも鉄砲に火縄をかけ、弓に矢を添え、槍・薙刀の鞘をはらっての立ち退きであった。訴状によって幕府の裁きとなった。なお、前野助左衛門はこのころ重病になり、まもなく死去した。

1回目の公判は双方の水掛論に終わったが、2回目で帯刀がかつての千石加増がお手盛りであったことを、指図書の筆跡鑑定によって立証し、これによって前野(助左衛門死去のために息子の治大夫が出頭)・石崎の心証は格段に悪くなった。
3回目の裁きの席で高松城下立ち退きの件が披露されると、幕府役人の態度が俄かに厳しくなる。徒党を結んでの不穏な行動が幕府の禁制に触れたのだ。

これによって結審し、前野・石崎方のほとんどのものは切腹または死罪、帯刀方も他家預けとなった。藩主高俊はその身持ちよろしからずとして改易、出羽矢島に堪忍分として1万石が与えられた。
これによって生駒家は実質取り潰された。なお、高俊死去後生駒家は交代寄合となって幕末まで続いた。

生駒騒動については「古今史譚」第四巻収録の生駒騒動が最も信頼できるようで、列藩騒動録(海音寺潮五郎・講談社文庫)、大名廃絶録(南條範夫・新人物往来社)両著もこれにそって書かれている。本稿は主として両著を参考に書いています。

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