歴史の勉強

飯田藩の騒動

南信濃伊那谷の飯田は、関ヶ原後に小笠原氏、脇坂氏が短期間領主を勤めたのち、寛文12年(1672年)に親良系堀氏の堀親昌が入り、以後12代200年にわたり支配した。
堀氏の飯田藩は、石高2万石(のちに1万5千石)の小藩であり、多くの騒動や一揆が発生した。

●牛之助騒動

四代堀親賢の時代のことである。元禄11年(1698年)とも12年ともいわれているが、牛之助騒動というのがあったらしい。あったらしいと言うのは、伝承はされているがはっきりした記録はなく、本当に騒動があったかどうかもわからないからである。

藩の用人である牛之助が親賢の世話で結婚をした。その翌日牛之助がお礼を言うために親賢のもとに行くと、親賢は側室の一人に髪を結わせているところであった。
これも側室というより愛妾であったらしいが、その愛妾と牛之助は知り合いであったらしく、お互い顔を見合わせて微笑みあった。
ちょうど、その笑顔が鏡に映り、それを見た親賢は両者が不義密通しているものと思い込んで、刀を持って牛之助に斬りかかる。

牛之助は夢中で逃げて欅堀まで来たが、そこで追手に追いつかれて切られてしまう。これを聞いた牛之助の母親は「永く堀家に祟ってやる」と狂死。
堀家では牛之助母子の霊を慰めるために、堀家の祈願寺である普門院で毎年霊を弔ったとされる。
筆頭家老であった堀宇右衛門はこの騒動に愛想をつかして、堀家を立退いたとする。
しかし、藩主が世話をするほどの士でありながら、牛之助の姓も伝わっておらず、騒動の起きた年も不明、さらに鏡に映った笑顔を見ただけで狂ったように臣下を追い回すとも考えられず、本当のところは不明のままである。

●千人講騒動

江戸時代も下って半ばごろになると、各藩とも財政難に見舞われるようになった。飯田藩も例外ではなく、小藩でかつ耕地面積も限られた山間の土地であったので、財政の確保は簡単にはいかなかった。
そういう時は、借金と増税で凌ぐということになる。これは昔も今も変わらない。それでも財政は好転せず、さらに逼迫の度を増すばかりで、どうにもならなくなったとき飯田藩では千人講を作ることにした。
発案者は郡奉行黒須楠衛門。月々2分づつ集めて年6両(1両は4分)、計画では年間7千2百両、5年続けて3万6千両という予定で、宝暦11年(1761年)12月に城下桜町に千人講会所を建てた。

実際に集まったのは711口、総額は355両2分であった。本来、講というのは任意の集まりであり、資金を出し合って目的を達するものであるが、この講は資金集めの手段であり、領民へも半強制された。
百姓も年貢高一斗以下の小作以外は全て月2分を拠出させられた。困窮する者も多く、初会はともかく第二会よりは辞退者が出始め、第三会になるとさらに辞退者が増えた。
黒須は立腹して「辞退するなら、田地を差し出して立退け」と言い放った。これを伝え聞いた百姓たちは怒り、一揆の相談を始める。

最初は城下北部の上郷あたりから一揆の話が出たらしいが、たちまち他村に伝播して、これを知った藩庁では一揆が起きる前に取り静めようと役人を派遣した。
多くの村では治まったが、下郷南端の3ヶ村(桐林、時又、上川路)の百姓は、一揆を決行した。
宝暦12年(1762年)2月22日、この3ヶ村の百姓が長石寺に集まり城下に向けて出発すると、たちまち人数が膨れ上がり、各地で庄屋の屋敷を打毀しつつ、城下に入った。
藩では城下の入口を固めたが、百姓の数の多さに圧倒されて防ぐことができず、町中が大混乱となる。

翌23日には上郷地区の百姓も押し寄せ、町人も一揆に加わった。藩で収拾のために千人講の廃止と黒須の罷免を主とする願いを入れざるを得なくなり、重臣5人連署の墨付を与えた。その後暫くは打毀しが続いたが、24日には治まった。
この騒動で講は廃止され、黒須は罷免されて一揆の目的は達したが、百姓側も30人近くが捕縛され、町人も11人が閉門処分となった。だがその多くの者は、のちに赦免された。

●紙問屋騒動

千人講騒動から約45年後の文化6年(1809年)に、紙問屋騒動が起こる。
この地方は古くからの和紙の産地であり、百姓たちは冬の間、紙を漉いてその紙を上納した。一種の内職であり、家内工業であった。上納した紙は安い値段で藩に入り、その分が年貢から差し引かれ、また藩士個人へ売り渡した分は安価ながら現金収入になっていた。
ところが文化4年(1807年)のこと、毛賀村林新作(のちに六郎左衛門と改名)が、御用紙の一手引き受けを条件に、公許の紙問屋の設立を願い出たことから騒動が起きる。

この林新作というのは、苗字も許された豪農であり、藩でも財政的な支援を受けているために、願いは簡単に許可された。
しかも「領内の紙のみならず、他領の紙も改印にないものは取り扱わないように」との条件まで付けてくれた。独占販売である。
これに対して一斉に反対の声があがった。藩内や他領の紙漉業者、紙仲士、城下の商人、元結職人(紙を原料とする元結こき)とその問屋等々である。
この中でもっとも強硬であったのは城下の商人たちであった。

元来、江戸時代は士農工商という身分制度のもとに成立していた社会であった。そのために商人を城下に集めて商売をさせ、農村には商人を置かないというのが建前であった。
しかし、この頃になると街道筋にあたる農村では、商売をする農民も現れる。これは城下商人の権利を侵害するものであったが、一旦崩れだすと建前だけでは止められず、なし崩し的に商人の権利が侵されていくこととなった。
そういう時に豪農とはいえ百姓の林新作に紙問屋をさらわれてしまったのだ。
さらに元結職人がこの反対運動に加わった。元結とは髷の元の部分を縛る紙のことである。
さすがに新作も恐れをなして紙問屋設立の延期を願い出た。

しかし、今度は藩の方が熱心になった。紙問屋からの運上(税)に魅力を感じたのだ。そして城下の商人に対して紙問屋を免許した。
商人たちも紙問屋そのものに反対していたわけではなく、林新作に儲けを持っていかれることに反対していたわけであるから、こうなるとスムーズに事が運び、文化6年(1809年)に本町一丁目に紙問屋が開かれた。
しかし紙漉の反対は激しく、領内のみならず付近の天領今田村や美濃高須藩領の知久平村、虎岩村などで紙漉が立ち上がり、ついに一揆となった。

一揆勢は、まず駄科村の紙仲士金作の家に向いこれを打毀すと、毛賀村に移り紙仲士の清八、治郎作の家を襲い、林新作の屋敷に向った。
新作は夜衣のまま山中に逃れて一夜を明かし、妻子は薪小屋に隠れ、老人は便所に難を避けた。新作宅は打毀しにあったが、新作にすれば城下商人に紙問屋をさらわれたうえに、打毀しにあい散々な目となった。

一揆はやがて沈静化したが、天領や他領の紙漉に手を出すわけにはいかず、領内では37人が捕まり、入牢、手鎖宿預けなどに処せられた。
天領の今田村では飯島代官所によって取調べが進められ、9人の紙漉が江戸に召喚されて、入牢5人、手鎖宿預け3人の処分となった。
紙問屋の方は領内については藩の意向に任されたが、領外については以前に戻され、藩では紙問屋制度を継続し、結局紙漉職人が馬鹿を見ることになった。

●飯田騒動

堀家十代藩主親寚は、堀家随一の名君とされ、幕閣でも重きをなし、天保14年(1843年)には老中となり水野忠邦の片腕ともいわれ、諸大名から「堀の八方にらみ」と恐れられた人物だった。
ところが奥向きの仕置については中々表向きのようにはいかなかったようだ。
親寚の江戸藩邸奥向きの取り締まりをする老女に若江というのがいた。若江は、先代藩主親長に仕え、親長が没したのち宿下がりをし、10年後に再び出仕した女で、美人ではないが才に優れ、文筆がたった。
そのため親寚は秘書役として重用し、次第に寵を得て奥向きでの権力を握るようになり、ついには跡継ぎのことにまで口をだすようになった。

親寚の世子は長男が早世したために二男の親義とされていたが、この親義は発育が悪いうえに癇性であった。親義の2歳下の同母弟金四郎は利発であり、親寚も次第に金四郎を嗣子にと思い始めたが、これを献策したのも若江だという。
これに対し国家老安富主計季記は、親義擁立を強く主張し、親寚に若江の放逐を迫った。親寚は若江を放逐し、表面上は一件落着したが、1年後に再び若江を召し出した。
それほど若江は親寚にとって必要な存在になっていたのだ。若江は豊浦と名を変え再び江戸藩邸の奥で実権を握る。

ここにふじという娘が奥に入ってきた。ふじは飯田藩士山口弾二の娘であった。このふじに親義の手が付いた。
ところが親義の正室は水野忠邦の妹であり、ということは親寚の上司の妹である。遠慮から側室など許されるはずがなく、ふじは豊浦から宿下がりを命じられ、半ば強引に金貸しの盲人鈴木松奥に嫁がされた。
鈴木は間もなく死んだが、ひどい梅毒もちでふじも梅毒に感染させられてしまう。
このふじは鈴木の死後、再び堀家の奥向きに出仕した。だが上屋敷ではなく下屋敷勤務である。ふじは梅毒により体調がすぐれず、日ごとに豊浦への怨みが募る。

一方、豊浦は出世を重ね、天保4年(1833年)に若山と再度名を改めて、御年寄に昇進した。若山は奥向きのみならず、表向きのことにも公然と口を出し、それがさらにふじの怨みを増幅させた。
天保10年(1839年)9月2日、ついにふじは決心をし、若山のもとを訪れる。若山に「ぜひともお耳に入れたいことが」と迫り、一室で2人きりになると、ふじは今までの怨みつらみを述べ自決を迫った。
若山が聞く耳持たぬと立ち上がると、ふじは隠し持った懐剣で若山の脇腹を突いた。ふじは取り押さえられ、一方若山は手当てを受けて快方に向かったが、11月に入り傷口が化膿して死去した。

ふじの方は取り調べの後、飯田で処刑されることとなった。網籠で飯田に下ると、飯田の獄舎にはふじへの差し入れが山をなしていたという。
若山の専横を嫌い、それを斃したふじは英雄であったのだ。逆にそれほど皆から若山は嫌われていたのだった。命乞いもなされたが叶わず、天保10年(1839年)12月2日、ふじは刑場の露と消えた。
ふじは烈女山口不二、忠婦富志などと呼ばれ、後世に生き続けた。

参考文献:新編物語藩史(新人物往来社)、江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、別冊歴史読本「御家騒動読本」

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