歴史の勉強

宝暦郡上騒動

郡上藩金森家の財政難

金森氏は織田信長、豊臣秀吉に仕えた金森長近が、飛騨国平定の功によって飛騨一国3万8千石の大名となり、高山に築城し六代に渡り100年余り在封した。
六代頼時は元禄5年(1692年)7月に出羽上山に転封となったが、これは将軍綱吉の側用人であった頼時の失策によるものとか幕府が飛騨の森林資源や鉱山資源を直轄統治しようとしたためとされる。
その後、明治維新まで飛騨が幕領であったことを考えるとおそらく後者であろう。出羽に移った頼時は5年後の元禄10年(1697年)6月に今度は美濃郡上に移され、3万8千石を領した。
領地は美濃郡上2万4千石と越前大野郡内1万5千石に分かれていた。頼時は元文元年(1736年)死去するが、嗣子であった可寛は既に若くして没していたために、孫の頼錦が跡を継いだ。

頼錦は温和な性格で、絵画や漢詩などをよくする文化人であった。金森氏は初代長近が茶湯や蹴鞠などをよくする風流人であったために、代々文化的家風であり頼錦もその例に洩れなかった。
さらに頼錦は延宝4年(1747年)5月に外様大名ながら奏者番に任じられた。奏者番とは江戸城中で大名や旗本が将軍に謁見する際に、奏上や進物の披露をしたり将軍家からの下賜品を伝達する役職であり、出世の登竜門であった。
大名や旗本の官名や序列、役職など全て頭に入っていなければならず、優秀な者が任命されたのが奏者番であり、頼錦も有能であったのであろう。

一方で交際範囲は広くなり、それだけ金がかかる。もともと風流人であり公家などとも親交があったから、支出はたちまち膨らんだ。
さらに出羽上山時代は痩せ地であったために蓄えは出来ず、短期間での2度の転封が財政を悪化させ、頼錦の交際費の増大とも相俟って郡上藩の財政は深刻さを増していた。
このため藩では収入の増加を図ることとして、宝暦4年(1754年)にそれまで定免法によっていた年貢の徴収を検見法に変更することとした。

定免方とは決められた石高に一定税率を掛ける方法で、実収がどれだけあろうと徴収される年貢量は一定である。つまり豊作であれば税負担は減り、不作であれば税負担は重くなる。
これに対し検見法は実収に対して一定税率を掛けるから豊作のときも不作のときも税負担は同一であり、豊作のときは年貢収入が増え、不作のときは年貢が減る。
検見の方が合理的なようだが、不作のときは年貢不足を補うために新たな負担を求められるし、豊作のときは米相場が安くなっているから換算率が高くなって、結局は農民にとって増税となる。

検見法への変更を決めると江戸藩邸では姻戚の寺社奉行本多長門守忠央の紹介で、幕府勘定奉行大橋近江守親義と昵懇になり、大橋の推薦で黒崎佐市右衛門を200石で召抱えた。
佐市右衛門は常陸の出身で、長崎奉行の勝手方や美濃加納藩で代官も勤めたことがあって、「百姓と濡れ手拭いは絞るほど出るものなり」と言ったといわれている。
佐市右衛門は郡上藩国家老渡辺外記、粥川仁兵衛らと図って領内を巡見して新田畑を検出、宝暦4年7月17日に村役人を集めて検見法実施を通達した。

検見法強行

これに対して農民は検見法実施に強く反対し、小駄良郷中桐村の南宮神社に集結し、村高百石につき3人ずつ人を出して八幡城下に群集し、藩当局に強訴した。城下に集結した農民は約千人といわれる。
この事態に藩では渡辺、粥川両家老が対応して代官猪子庄九郎、別府弥角を通じて農民からの願書を受取った。願書のうち一通は検見法中止を願うもので、もう一通は貢租軽減を図ろうとする十六条の嘆願書であった。
渡辺、粥川両家老は農民の勢いに押されて検見法の中止と十六条の訴えが認められるよう、江戸藩邸へ送ることを約束したが、農民側は両家老のほかに元家老で農民の信望が厚かった金森左近の連署を求めた。藩側は3名連署の覚書を農民に渡し事態は沈静化した。

藩では徒党禁止を布れ、黒崎佐市右衛門は身の危険を感じて逃亡した。渡辺、粥川両家老は半田園右衛門を江戸に急派して事態を報告。
しかし江戸藩邸では幕府勘定奉行大橋近江守の後援を取り付けて検見法を強行しようと図る。国許での農民への妥協は時間を稼ぐ手段に過ぎなかった。
翌宝暦5年3月、美濃笠松陣屋の美濃郡代青木次郎九郎安清は、上司である大橋近江守の意向を受けて郡上藩の役人とも協議した。そして7月に入って郡上藩内の庄屋36人を笠松陣屋に召喚した。

青木郡代は幕府の権威をもって検見法への変更を強制し、庄屋たちはやむを得ず検見法受諾の書面に押印し、さらに1年前の家老3名連署の覚書返還を命ぜられた。
これは青木郡代の役職権限外の行為であり、その背後には勘定奉行大橋近江守ほか老中本多伯耆守正珍、若年寄本多長門守忠央、大目付曲淵豊後守らの介在があった。
当時、各地で起きていた百姓一揆に対して、幕府の方針は対決一色であり、その姿勢の現れでもあった。
藩側の検見法強行に対して、農民側は再び蜂起しようとしたが、藩兵が城下入口を固めたために城下に入れず、小駄良の雨宮神社や穀見野に集結した。
そのうち有志50名余りが那留ヶ野に集まり傘連判状を作り江戸への出訴を決めた。また農民たちは富裕層への襲撃を行い、笠松の美濃郡代からの命令書を持った庄屋たちは藩境の母野村で農民に阻まれて、笠松に戻らざるを得なかった。

立ち上がる農民

宝暦5年8月、那留ヶ野において決定した江戸出訴の有志40名が、江戸藩邸に前の十六条の願書に十七か条の嘆願書を添えて提出した。江戸藩邸では農民たちを牛込御箪笥町の屋敷に監禁する。
藩では農民の取締りを厳しくし、役人が農村を巡回して農民を懐柔したり威嚇したりして、一揆の分裂を図った。このために寝者(ねもの)と呼ばれる一揆脱落者が多くなり、立者(たてもの)と呼ばれる一揆参加者は当初の四分の一の500人程度まで減少してしまう。
村対村の対立や村人間での対立が起き、一揆は拠点を武儀郡関村の新長谷寺付近に移さざるを得なくなった。

その後、一揆側の勝原村幸助、小野村半十郎、剣村三郎右衛門、同四郎左衛門、気良村小市右衛門、などが相次いで投獄された。
これに対抗して東気良村善右衛門、同長助、切立村喜四郎、前谷村定治郎、那比村藤吉の5名は同年11月26日江戸城大手前で老中酒井忠寄の行列に駕籠訴を決行した。
5人は取調べを受けた後、郡上藩邸に移され、さらに郡上に戻され庄屋預けとなった。駕籠訴による咎めは軽かったものの、効果もまたなかったのである。

宝暦6年(1756年)9月藩主頼錦は郡上に帰国して、農民の願いを聞き入れ入牢者を放免する懐柔策に出たが、これは逆に立者を勢いづかせ寝者への襲撃を誘発し、暴動は激化していくばかりだった。
立者はさらに江戸訴願の落着まで年貢の上納延期を求めて、城下に集結して強訴に及ぶ。藩側では上納延期を許したが、12月に入り暴動の首謀者として気良村甚助を捕らえ、吟味もなく打首とした。
宝暦8年(1758年)に入ると歩岐島村の四郎右衛門が立者の連名帳を所持していることを知った藩側は、藩兵を派して連名帳を奪いとり、これをきっかけに藩兵と農民の乱闘となった。これを歩岐島騒動というが、この騒動にまぎれて庄屋預けとなっていた前谷村定治郎、切立村喜四郎は脱走する。

同年3月に立者有志は再び江戸に出て町奉行依田和泉守に訴状を提出するが取り上げられず、最後の手段として箱訴を決行することにした。
4月2日に剣村藤次郎、東俣村太郎右衛門、西俣村孫兵衛、二日町村伝兵衛、歩岐島村治右衛門、向鷲見村弥十郎の6名が目安箱に訴状を入れた。

石徹白騒動

郡上での農民一揆と前後して、郡上藩領である越前国大野郡石徹白村で紛争が生じた。石徹白村には白山中居神社があり、白山信仰の村として栄えていた。村人は白山中居神社の社人となり、無税で帯刀も許されていた。
神頭職杉本左近が代々支配して京都白川家に属していたが、神主上村豊前が京都吉田家と結んで、杉本家から支配力を奪おうと画策を始めた。
上村豊前は郡上藩寺社奉行根尾甚左衛門に贈賄して、藩への工作を進めた。宝暦4年(1754年)に根尾は手代の片重半助を石徹白村に派遣して、杉本左近ら主だった社人に対し、今後は吉田家に属し上村豊前に従うよう命じた。

しかし上村豊前がもともと傲慢であったこともあり、左近らは一向に命令に従わなかった。根尾は左近らを郡上に召喚して命令服従を強要するが、左近らは断固拒絶して失敗した。
業を煮やした上村豊前は、左近派の上村次郎兵衛を片重と謀って追放処分とし、さらに根尾ら藩の後ろ盾を得て神社の山林や神木を伐採し始めた。
左近らは次郎兵衛追放処分の取消や山林伐採中止を郡上藩に訴え出るが聞き入れられず、宝暦4年8月に左近と上村十郎兵衛、桜井吉兵衛の名で幕府寺社奉行本多長門守忠央に訴状を提出した。

しかし忠央は郡上藩主頼錦と親しく、訴状は取り上げられず、逆に金森家に通報されてしまう。左近らは郡上に送還されて、左近は投獄され十郎兵衛と吉兵衛は上村豊前に預けられた。
翌宝暦5年5月には左近、十郎兵衛、吉兵衛のほか左近派の3名を合せた6名が領外に追放された。
さらに12月に入ると左近派の503名を領外追放した。この時は美濃口を遮断して雪深い飛騨側に追放したために、途中72名の凍死者、餓死者を出した。
追放された杉本左近は美濃国厚見郡芥見村の篠田源兵衛宅で援助を受けて運動を続けていたが、宝暦6年(1756年)8月江戸に上り、老中松平右近将監武元の行列に社人82名の連判をもって駕籠訴を決行した。
しかし、これは寺社奉行の管轄であるとして本多長門守忠央に戻されてしまい、左近は最終手段として宝暦8年(1758年)4月11日、21日、7月2日と箱訴をした。しかし沙汰がなく7月21日に四度目となる箱訴を行った。

騒動の結着

杉本左近の訴状には上村豊前の行状のほかに、追放されて凍死したり餓死した社人や農民の悲惨さ、郡上藩や幕府の訴状の不受理などが綴られていた。
それが、四度も提出されたうえに、4月には郡上の農民の箱訴もあり、こうも重なっては幕府も訴状を取り上げないわけにいかなかった。
杉本左近の四度目の箱訴の前日から、郡上の農民騒擾と石徹白騒動を評定所で取り上げて始めた。勘定奉行大橋近江守の召喚と訊問から始まり、幕府関係者、藩主頼錦ほか郡上藩関係者、郡上農民、石徹白村社人らの調べが行なわれ、宝暦8年10月には裁決が出た。

藩主頼錦は閉門のうえ謹慎していたが、10月2日に失政の責任を問われ領地を召し上げられて、陸奥盛岡の南部家に永預けとされた。
嫡子出雲守、三男伊織も改易、五男熊蔵・六男武九郎・七男満吉は15歳まで親類に預けられた。
幕府関係者では老中本多伯耆守正珍は役儀取上げ逼塞、若年寄本多長門守忠央は領地召し上げのうえ松平越後守へ永預け、勘定奉行大橋近江守は知行召し上げのうえ陸奥中村相馬家へ永預け、大目付曲淵豊後守は役儀取上げ閉門、美濃郡代青木次郎九郎は役儀取上げ逼塞となった。

郡上藩関係者では家老渡辺外記・粥川仁兵衛は遠島、江戸家老伊藤弥一郎は中追放、寺社奉行根尾甚左衛門と下僚の片重半助は死罪、黒崎佐市衛門は遠島を申し付けられた。
農民や社人では駕籠訴した切立村喜四郎(獄死)と前谷村定治郎は獄門、東気良村善右衛門(獄死)・同長助・那比村藤吉は死罪、箱訴した剣村藤次郎ら6人も死罪となった。
石徹白騒動関係者では、社人上村豊前は死罪、杉本左近は30日押込とされた。

金森頼錦は金森氏累代の家宝什器を売却して、その益を藩主、菩提寺、藩士で三分することとした。その売却は郡上八幡の慈恩寺で行われ、金森家の名器を求めて名古屋や京、大坂から多くの商人が集まったという。
郡上八幡城には岩村藩主松平能登守が在番し、やがて郡上には丹後宮津から青山幸道が4万8千石で入封した。
農民一揆がもとで改易されたのは江戸期を通じて金森氏が最初で最後であり、この騒動は幕府関係者の大量処分と合せ前代未聞であった。
これらの騒動の間、藩主頼錦の顔がほとんど見えないのは、風流の道に染まるあまり藩政を家臣に丸投げしたからであろうか。

参考文献:新編物語藩史(新人物往来社)、江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

金森氏の表紙に戻る
大名騒動録の表紙に戻る
歴史の勉強
Last modified -