歴史の勉強

堀田筑前守正俊

テレビドラマ水戸黄門で悪役として描かれた堀田正俊は、テレビでは陰謀家として描かれていたが、実際は厳格で真面目な人間であったようだ。
厳格で真面目というと堅苦しいイメージだが、融通のきかない頑固者というのが本当のところらしい。若手の老中のころ年上のお歴々にも手を下について挨拶することはなかったという。
老中たちが正俊のことを礼儀知らずだと言っていると聞いた正俊本人は、「手を下について丁寧な挨拶は上様に対してやっていて、上様と老中が同じ挨拶でいいはずがない。自分のやり方が礼儀にかなっている」と答えて挨拶の仕方を変えることはなかったという。正俊というのは、そういう人間であった。

延宝7年(1679年)に老中に任ぜられ、翌延宝8年(1680年)に四代将軍家綱が危篤となったが、実子がないために後継問題が起きた。
大老酒井忠清は鎌倉時代にならい京都から有栖川宮幸仁親王を迎えて将軍にしようとしたが、正俊は家綱の弟で館林藩主であった綱吉擁立を主張した。
これが水戸光圀の賛同を得て綱吉が五代将軍となり、これによって酒井忠清は失脚し、正俊は天和元年(1681年)12月には左近衛権少将に昇り大老となった。
しかし綱吉との蜜月もごく短い期間だけで、やがて綱吉からは疎まれ、綱吉の母桂昌院からも嫌われた。その後、貞享元年(1684年)8月28日に江戸城中において若年寄稲葉正休によって、刺されて横死を遂げる。

正俊の父正盛は、春日局の縁で三代将軍家光の近習にあがった。これを振り出しにして、寛永10年(1633年)には松平信綱らとともに六人衆(のちの若年寄)となり、寛永12年(1635年)3月に老中に昇った。
老中職は寛永15年(1638年)3月に解かれるが家光の信任は失わず、幕府の重要会議には参画し続けた。加増に次ぐ加増を受け、寛永19年(1642年)7月には下総国佐倉で11万石を領していた。
元和9年(1623年)に相模国内で7百石を賜ったのが最初だから、20年足らずで無から11万石にまで出世したことになる。
正盛の異常な出世は春日局の後ろ盾があったことは間違いないが、一説には家光と衆道の関係にあったとも言われている。

家光が慶安4年(1651年)4月20日に死去すると、正盛はその日に殉死した。殉死は家光の遺言とも周囲の期待ともいわれる。
この当時はまだ殉死も珍しいことではなかったし、むしろ殉死が多いことを誇っていた。殉死の禁が出されたのは寛文3年(1663年)のことである。
正盛には男子が5人いた。長男は正信、二男は信濃飯田5万5千石の大名脇坂家に養子に入って脇坂安政といい、三男が正俊、四男は正英、五男は右馬助といったが早世した。
正盛が死んで正信が同年8月14日に家督を許され、下総国佐倉藩主となった。このときに正俊は新田1万石、正英には5千石が分与され分家している。

正俊の兄で宗家を継いだ正信は、万治3年(1660年)10月8日に老中阿部忠秋と家光の弟で将軍補佐役であった保科正之に幕閣批判の意見書を提出し、佐倉に無断帰国するという事件を起こした。
正信は気は小さいが真面目で思い込みが強く、武骨な性格であったらしい。別な見方をすれば融通無碍な自惚れやで、自分は常に正しいと思い込むタイプだから、やっかいな人間であった。
偏執狂的なところもあって、正盛が殉死したのに跡を継いだ自分には重要どころか何の役職も廻ってこない。怪しからんということから始まり、やがては自分は正義で、それを役に就けない幕府首脳は無能の集まりと考えた。
それが意見書と無断帰国という行動になった。もちろん無事に済むわけもなく、所領は没収されて配流された。

宗家は正盛の忠義によって家名存続を認められ、正信の長男正休に1万表が給された。のちに正休は上野吉井1万石に封じられ、さらに近江宮川に移されて、子孫は代々宮川藩主となって明治まで続く。
一方の正俊は、正信改易後は堀田家の宗家の役割も担い、その家系は大堀田と称されるようになる。正俊は、また寛永12年(1635年)2歳のとき、家光の命で春日局の養子になっていた。
それもあって順調に出世し、万治3年(1660年)2月に奏者番となり、寛文7年(1667年)7千石加増されて上野国安中城主、寛文10年(1670年)若年寄、延宝6年(1678年)5千石加増、そして延宝7年(1679年)に老中となって上野国内で1万5千石を加増されて、安中藩は都合4万石となった。

寛文8年(1680年)の家綱死去のときには、先述したように時の大老酒井忠清に真っ向から反対して、綱吉を五代将軍に擁立して、天和元年(1681年)2月に5万石を加増のうえ下総国古河に転封、同年12月には左近衛権少将に昇り大老となり、翌天和2年正月には4万石加増、都合13万石となった。
綱吉時代の初期の天和年間の政治は、のちに「天和の治」といわれるほど、その実があがった。天和の治とは政治改革といってよく、柱は綱紀粛正、不良役人や大名の処罰、人材の登用であった。
農政では支配体制の強化を図りつつ、職務怠慢や非行な代官が多く処罰されて交代し、勘定吟味役が創設された。大名統制では改易が急増したが、理由からすれば改易処分が重過ぎる場合も少なくなかった。

例えば、武蔵岩槻1万8千石の土方雄隆が後継問題の紛糾で改易されたが、親族であった筑後松崎1万石の有馬豊祐も土方家の内訌を解決できなかったというだけで改易になっている。
また、家綱時代に決着を見たはずの越後騒動が蒸し返されて綱吉によって再吟味され、越後高田25万石の家門の名家松平光長が改易された話は有名である。
これらに正俊が大きく関わっていることは確実であり、峻厳で真面目な正俊の性格がよく出ていると言える。将軍綱吉も正俊に乗って、越後騒動親裁など自身の権威付け、前代の特に綱吉を拒否した酒井忠清の政治の否定に利用した。
正俊と綱吉は性格的にも似たところが多く、真面目で頑固で自分は絶対だと信じてほかに対して厳しくあたる。また学問好きなところも一緒であった。

最初のうちは似た者同士で、上手く廻りそれが天和の治に繋がったのだが、だんだんと綱吉に疎まれ始める。仮にも綱吉は最高権力者であった。正俊はその綱吉にも決して迎合せず、ずけずけと言いたい事を言った。
正俊は綱吉に登用された人間ではなく、譜代の大名であった。綱吉にしてみれば前代からの置き土産である。いつまでもそのような人物に意見をされるのでは堪らないから、子飼いの重臣が欲しくなる。
天和の治でも家柄だけを頼む無能な役人を馘にし、有用な人材を登用している。最高権力者の自分がそれをして何が悪い、というわけで館林時代からの側近であった牧野成貞や柳沢吉保を抜擢して重用しだした。
また正俊は贅沢が嫌いで、大奥の経費も抑えた。これが綱吉の生母桂昌院の不興を買った。人一倍母親思いの綱吉だから、ますます正俊のことを疎んだ。

貞享元年(1684年)8月28日に正俊は、江戸城中において若年寄稲葉正休によって、刺されて横死を遂げた。正休が正俊を刺したのか、その理由ははっきりわからない。
この前日に正休は正俊から淀川改修工事の件で叱責され、それを恨んだのが原因とも言われているし、また前日の夜に正休は正俊の屋敷を訪ねて何事か話をしており、そこに原因があるとも言われる。
何にしてもこの日、正休は御用部屋を訪ねて突然抜刀して正俊に斬りつけて右胸を刺した。居合わせた老中大久保忠朝や戸田忠昌、正俊の弟で若年寄の堀田正英らが慌てて正休を抑え、そこに土屋政直が駆け寄って正休を斬った。
正俊の子の正仲らも正休に斬りつけ、正休は即死した。正俊はその時点では息があったが、駕籠で屋敷に戻ってしばらくして絶命した。

正休がその場でいきなり斬り殺され、結果的に吟味もできなかったことに、水戸光圀などは「なぜ捕らえて事情をたださなかったのか」と老中らを責めている。
光圀の言うこともっともで、世間から見てもごく常識的な意見である。よって、正休が斬られたのは、予めのシナリオではないかという話が出てくる。
曰く綱吉が命じて正俊を斬らせた、曰く柳沢吉保の陰謀などである。事実、正俊が殺される直前に綱吉は正俊に対して、香盒と伽羅を与えている。これは隠居して伽羅でも焚いて風流に過ごせとの謎で、綱吉からの引退勧告であった。
いずれにしても正休が正俊を刺殺した動機は謎に包まれたままであり、正俊の死後に牧野成貞、さらに成貞に代って柳沢吉保が絶大な権力を振い、綱吉は専制君主として生類憐れみの令に代表される悪政を行ったのは事実である。正俊にとっては無念であったろう。
なお、正俊の家系は長男正仲が継いだが貞享2年(1685年)6月に出羽国山形に、次いで貞享3年(1686年)10月に陸奥福島に左遷される。五代正亮が老中となって下総佐倉に返り咲くのは延享3年(1746年)のことであった。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌とくに別冊歴史読本「徳川幕閣のすべて」のうち堀田正俊、関連ホームページ

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