歴史の勉強

堀田上野介正信

堀田上野介正信の父正盛は、春日局の縁で三代将軍家光の近習にあがった。元和6年(1620年)のことである。正盛の母は春日局の夫の稲葉正成の女であったから、春日局は正盛から見れば義理の祖母にあたる。
正盛の父正吉は、その縁で江戸城西の丸目付になり、正盛も家光の近習を振り出しに、寛永10年(1633年)には松平信綱らとともに六人衆(のちの若年寄)となり、寛永12年(1635年)3月に老中に昇った。
老中職は寛永15年(1638年)3月に解かれるが家光の信任は失わず、幕府の重要会議には参画し続けた。加増に次ぐ加増を受け、寛永19年(1642年)7月には下総国佐倉で11万石を領していた。
元和9年(1623年)に相模国内で7百石を賜ったのが最初だから、20年足らずで無から11万石にまで出世したことになる。

正盛の異常な出世は春日局の後ろ盾があったことは間違いないが、一説には家光と衆道の関係にあったとも言われている。
戦国の余韻が残るこの頃は男色は珍しいことではなく、家光も一時は男色に溺れ周囲を心配させたから、正盛との関係もあながち見当はずれとはいえない。
その家光が慶安4年(1651年)4月20日に死去すると、正盛はその日に殉死した。殉死は家光の遺言とも周囲の期待ともいわれる。
この当時はまだ殉死も珍しいことではなかったし、むしろ殉死が多いことを誇っていた。殉死の禁が出されたのは寛文3年(1663年)のことである。

家光に殉じたのは正盛だけではなく、老中阿部重次や御側衆内田正信らも殉死しているし、重次や正信の家臣も主人の後をおって殉死した。
だが、正盛の家臣で、正盛の後をおって殉死した者はいなかった。堀田家はそれまで世間では評判がよい家だった。正盛の指導がよかったのか家臣がよく躾られていたからだった。
だが、堀田の家は誰も主人に殉じなかったのは正盛が家臣の心を掴んでいなかったためだということになって、一転悪評がたったという。そういう時代であった。

正盛には男子が5人いた。長男は正信、二男は信濃飯田5万5千石の大名脇坂家に養子に入って脇坂安政といい、三男は正俊、四男は正英、五男は右馬助といったが早世した。
正盛が死んで正信が同年8月14日に家督を許され、下総国佐倉藩主となった。このときに弟正俊に新田1万石、正英に5千石を分与している。
正俊はのちに出世して老中から大老にまで昇り詰めている。正英も加増されて常陸国北条で1万3千石の大名となったが、不手際があって除封される。

さて正信は小心ながら真面目で思い込みが強く、武骨な性格であったらしい。別な見方をすれば融通無碍な自惚れやで、自分は常に正しいと思い込むタイプだから、周りからすればやっかいな人間である。
正信は父正盛の功績や家光との関係、殉死などから堀田家は厚遇され、自分にも重要な役職がすぐにも与えられるものと考えた。
しかし幕閣にはこの当時保科正之、井伊直孝、酒井忠勝、松平信綱など錚々たる人物がいて、新参の正信が入り込む余地などなかった。
したがって正信には重要どころか何の役も廻ってこなかった。正信にすれば面白くない。家光の寵臣で殉死までした正盛の嫡子だというのに、単なる一大名である。

正信は自分に役が与えられるのは当然であると思い込んでいたから、与えられないのは誰かが邪魔をしているからだと考えた。
現代でもこういうタイプの人間はよくいる。勝手に思い込んで、思い通りにならないのは他人のせいだという、何とも身勝手なタイプである。こういうタイプは物事が上手くいかない場合は、必ず誰かのせいにする。
正信が選んだのは松平信綱だった。信綱も正盛同様に家光の寵臣で、家光の信任が厚く出世した。正信にすれば信綱も当然家光に殉死すべき人間であった。
だが信綱は殉死しなかった。それだけでも怪しからんのに邪魔をするとは、というわけで正信は信綱を嫌った。信綱の方もそれがわかるらしく正信を嫌い、お互いの間はしっくりいかなくなった。

もっとも信綱を嫌ったのは正信ばかりではないようで、信綱の才気走ったやり方と殉死しなかったことは世間でも評判が悪く
伊豆の大豆、豆腐にしてはよけれども、きらずにしては味の悪さよ
という落首も作られたほどだ。伊豆は信綱が伊豆守であった故で、きらずは豆腐の絞りかすのおからのことで殉死とかけている。
さらに正信より若年の稲葉正則が明暦3年(1657年)9月に老中に列せられたことで、正信の疑心はますます強くなった。

これより前の明暦2年(1656年)豊後府内藩主日根野吉明が死去した。吉明には嗣子がなく、日根野家は断絶となり府内2万石は収公、江戸屋敷も幕府に返納されることになった。
江戸屋敷引渡しの日に正信は家中の侍を日根野家の屋敷近くに待機させ、自分はやはり近くの寺院に入って、何か騒動が持ち上がったら駆けつけようと様子を窺がっていた。
別段命じられたわけでも、誰かに頼まれたわけでもない。自分が役に立ちたいと勝手に考えてやったことだ。
幸い何事もなく日根野の屋敷は引き渡されたが、正信の行動を治に居て乱を忘れぬ心がけだと褒める者があった。正信は得意になって自分の行為を吹聴した。

この話が幕閣の実力者で正信の外祖父である酒井忠清の耳に入ると、忠清は正信を呼びつけて、出すぎたことをするなと叱責した。
天下に何事か出来したときは、対応する大名はいるし役割も決まっているのに勝手なことをするな、もし本当に公儀を思うなら寺になど隠れていずに江戸城に駆けつけるのが本筋だと忠清は言った。
まったく忠清のいうとおりであろう。すでに関ヶ原から半世紀以上も経っていて、秩序だった世の中になっている。だが正信には、それがわからない。忠清はじめ世の中の方が間違っているのだ。
世の中を何とかしなければならないと考える正信は焦燥し、思いつめ、やがて天下を一人憂いているようになっていった。

万治3年(1660年)9月28日、正信は上野の東叡山寛永寺にある家光廟に詣で、そこで何事か深く心に決した様子であったが、翌10月8日に老中阿部忠秋と家光の弟で将軍補佐役であった保科正之に幕閣批判の意見書を提出し、無許可で佐倉に帰国するという思い切った行動に出た。
参勤交代で帰国する際にも幕府の許可がいるのに、一人勝手に無許可で江戸を離れるなど狂気の沙汰であった。
意見書の内容は、「天下の民はもちろん牛馬にいたるまで疲弊し、困窮している。これも将軍を補佐する幕府首脳たちが悪いからだ。したがって自分は領地を返上するから、その領地を困窮する旗本らに分配してもらいたい。」という趣旨で、江戸を立ち去るのは親類縁者が止めかねないからであり他意はない、その証拠に妻子はそのまま江戸に留めて置く、とも付け加えてあった。

正信本人にすれば大真面目で止むに止まれぬ行動ということだろうが、意見は独断的と言わざるを得ないし、短絡的な行動と評されても仕方ない。
たしかに社会の情勢は正信の言うとおりであった。だからこの意見書はまったく的を得ない戯言とは言えず、保科正之などは同情的であったというが、信綱は意見書を見るなり「正信狂気」と断じた。
保科正之は正信と信綱の仲を知っているので、「正信の言うこと一理ある。思いつめてのことで狂人扱いするのはいかがか」と取り成すと信綱は、正信狂気ならば正信一人の罪で一族に罪は及ばないが、正気であれば正信自身も含めて一族にも類が及ぶと答え、正之ら幕閣一同も納得したという。

正信は狂気とされ所領は没収され、弟の信濃飯田藩主脇坂安政に預けられた。堀田家は先代正盛の忠義によって家名存続は認められ、正信の長男正休に1万表が給された。
のちに正休は上野吉井1万石に封じられ、さらに近江宮川に移されて、子孫は代々宮川藩主となって明治まで続いた。
一方、正信は飯田では比較的自由であったらしく、「忠義抜書」「楠三代中儀抜書」「一願同心集」「拾心同心集」などを著している。題名からもわかるように、いずれも狂信的な愛国書であり、中身はないに等しいものだという。
寛文13年(1672年)に安政が播磨竜野に転封になると、母方の叔父にあたる若狭小浜の酒井忠直に預けられた。正信は小浜ではかなり身勝手な行動を取ったらしい。

延宝5年(1677年)には酒井家に無断で京に上り、これを知った酒井家では大慌てで後を追った。正信は京で捕らえられたが平然と「将軍家綱公にお世継ぎが生まれるよう清水寺と石清水八幡に祈願に来たのだ」と言ったという。
酒井家では直ちに幕府に報告、正信は不届き至極とされて、阿波徳島の蜂須賀綱矩に改めて預けられた。正信の異常ぶりは幕府もよく知っているので、酒井家は監督不行き届きとしては軽い処分の閉門で済んだ。
蜂須賀家では正信の行状から吉野川河口近くの福島という地に住居を建てて、番人を置いて厳重に監視し、刃物は一切持たせなかった。
正信は阿波でも文句を言っては番人を叱り、ずいぶんと困らせたらしいが、延宝8年(1680年)に将軍家綱が死去すると、番人の目を盗んで鋏で喉を突いて自殺した。

蜂須賀綱矩に宛てた遺書には「21年前に忠義を言上して容れられず、その時は罪を許され、また3年前に京に上った時も許された。無益な命ゆえ永らえても仕方なし。国家のために死するなら本望なれど、このように果てるは無念なり」と書かれていたという。前々から異常であったが、病状が進んだのであろう。
南條範夫氏は、正信が領土奉還事件を起こしていなければ、恐らく殿中で松平信綱刺殺事件でも起こしていたろうと書いているが、その通りであろう。それくらい正信は常軌を逸していた。
なお正信の弟の正俊は大老になって数年、江戸城中で正信の従弟の稲葉正休に刺し殺されてしまう。正俊は厳格であり融通のきかない性格であり、将軍綱吉からも疎まれたという。
正盛の殉死といい、正信の無断帰国と所領返上といい、正俊と稲葉正休の刃傷沙汰といい、堀田の血には偏執狂的な血が流れているという人も多いし、狂気の血という人も少なからずいる。

参考文献:大名廃絶録(南條範夫・新人物往来社)、江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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