歴史の勉強

姫路騒動

西国の要衝姫路は、江戸時代前期には多くの大名家が入れ替わり立ち代り在封した。家康の女婿であった池田輝政に始まる池田家、続いて徳川四天王の本多忠勝の跡を継いだ忠政の本多家、さらに松平(奥平)、松平(越前)、榊原、再び松平(越前)、本多、榊原、さらに松平(越前)と目まぐるしい。
最後に書いた松平(越前)家は三度目の姫路入封であり、この家は非常に転封が多く、二代目の直矩は姫路-越後村上-姫路-豊後日田-出羽山形-陸奥白河と移り引越し大名とあだ名を付けられたほどだ。
三度目の姫路藩主になったのは直矩の二代後の明矩であったが、財政難から御用金を課し、これが引き金となって一揆が起きた。
その一揆のさ中に明矩は36歳で病死し、跡を朝矩が継いだ。しかし朝矩はこのときまだ11歳。要衝姫路の藩主は幼い場合は転封という前例により、まもなく上野前橋に移される。
入れ替わりに前橋から入ったのが酒井家で、以後明治まで姫路藩主は酒井氏が相伝する。姫路騒動は、この酒井氏の転封にまつわる騒動で、騒動というより事件というべき性質のものである。

酒井氏は徳川氏と同祖とされる、譜代の名門中の名門で、酒井氏の祖の広親(親清)の子が二流に分れ、氏忠の系統を左衛門尉家、家忠の系統を雅楽頭家という。
左衛門尉家からは徳川四天王の一である忠次が出、雅楽頭家からは江戸期初期の名老中忠世や、四代将軍家綱のときの大老で下馬将軍と呼ばれた忠清が出た。姫路騒動の酒井氏は、この雅楽頭家の宗家である。
下馬将軍忠清は雅楽頭家の四代にあり、その跡を忠挙-忠相-親愛-親本と相伝し九代目が忠恭となる。忠恭は前藩主親本の弟で、分家の越前敦賀藩酒井家から養子に入った。
襲封5年目の元文5年(1740年)に大坂城代になる。大坂城代というのは幕閣での出世コースであったが、反面大坂に常駐するために領地が上方に替地され領地の分散化をもたらした。
このときも上総国の2万石が上地となり、代って上野国群馬、勢多、碓氷各郡、伊豆国田方郡、播磨国加東、加西、多可など4郡、摂津国有馬、川辺ほか3郡などに領地が広く分散した。

忠挙は延享元年(1744年)に西の丸老中に就任し、上方の所領は上地され、上総、相模国内に領地替となった。これによって大坂城代時代よりも領地はまとまったが、相変わらず上野国の本領のほかにも管理する領地があって無駄が多く効率が悪かった。
さらに前橋城が利根川の浸食によって危険な状態となってきた。前橋城はその西側を利根川が流れるが、坂東太郎の異名を持つこの川は洪水のたびにその流れを変え、城の土手を削るのだった。
洪水被害は毎年のように起き、領内の田畑はそのたびに大きな被害を蒙り、城は侵食された。寛延元年(1748年)にはついに本丸を放棄せざるを得なくなり、本丸の機能は三の丸に移された。。

実際これらの問題は忠恭の時代にいきなり噴出したものではなく、酒井氏歴代の問題であった。宝永7年(1710年)七代藩主親愛の時代に、(1)所領が分散して財政上無駄が多く、(2)旗本領との入り組みが多くて藩政がやりにくく、(3)城内2ヶ所が洪水の為に川欠けになり、そのうち1ケ所は普請をしたものの効果が挙がらず、もう1ケ所は高崎藩領と接していて思うように普請ができず、(4)長年の支配に領内の農民が馴れて仕置が難しいとの理由を挙げて転封を願っている。
また正徳3年(1713年)にも、年々川欠けが激しくなって城地が狭くなり、侍屋敷も城外へ移転せざるを得ず、これでは15万石の格式はとても保てない、さらに前橋は年貢収納率が低く川普請の費用負担に耐え切れない、今一度川普請を試みるが失敗したらどこでもいいから所替えを願いたいと、切実な転封願いを出している。

だが、2度の転封願いも聞き入れられず、状況は悪化するばかりであった。先に書いたように忠恭の代になって所領の分散はさらに甚だしくなった。
忠恭は延享3年(1746年)には老中首座となるが、このときに上野国2万9千石が、同国内の他の地及び上総、下総、常陸、安房に移され、その結果領地の7割が上野国内、3割が6ヶ国に渡って分散した。これは他藩領や旗本領との入れ組の必然的な増加ももたらすことになった。
さらに本丸機能の三の丸への移転は、格式をほこる名門の酒井家にとっては屈辱的なことであり、川普請や洪水は藩財政の窮乏をもたらした。
ために藩では倹約令や上米を実施したが賄いきれず、年貢の増微を行わざるを得なくなった。これが領内農民を刺激し、決起となった。
農民は前橋に集結し、一部は江戸への強訴を計画したという。このときはなんとか押えたらしいが、これは150年間の酒井氏支配下での初めての事態であり、ショックは大きかった。

このようなときに姫路藩主松平明矩が死去し、朝矩がわずか11歳で襲封したのである。姫路はもともと豊かな土地であったが、このころは財政も窮乏していた。とはいえ前橋に比べれば、はるかに美地であった。
大坂城代であった忠恭は、このことをよく知っていたと思われる。さらに西国筋の要地であれば、名門の酒井家にとって申し分ないとも考えたろう。
老中首座でもあった忠恭は、姫路への転封を願い、また老中の退任を望んだが、自ら姫路への転封を画策したとするのが自然であろう。
老中の退任を願うのは農民の騒動が幕閣へ聞こえ、そのことが責任問題へ発展する危機感からであった。忠恭の意を受けて、他の老中たちへの工作を進めたのは、江戸に出府した国家老本多民部左衛門と忠恭お気に入りの江戸の公用人犬塚又内の2人であった。
工作が実り姫路への転封が決まったが、ここに転封を喜ばない人物がいた。国家老のひとりである川合勘解由左衛門であった。

前橋で姫路への転封の報せを聞いた勘解由左衛門は、老中退任は喜ばしいが転封には絶対に反対すると主張した。そこに忠恭からの出府の命が届き、勘解由左衛門は直ちに出府し4日後に江戸で忠恭に対した。
勘解由左衛門は忠恭に老中退任は歓迎すべきことであるが、転封には反対と言上した。理由として酒井家は井伊家、藤堂家と並び御三家の家柄であり、加えて家康は「前橋は重要な地であり、酒井家がしっかりと治めよ」と言ったと聞いている。
つまり川欠けくらいで家康公からの報恩の地を捨てるなど無節操極まりなく、150年に渡って川の氾濫と戦ってきた歴代藩主にも申し訳ないというのである。
忠恭は立腹したが、勘解由左衛門も自説を曲げずに2人は真っ向から対立し、その場は用人や小姓が間に入って収めた。結局、勘解由左衛門が反対しても主君忠恭が望み、幕府も姫路転封を決めた後であり、いまさら覆るものでもない。
不本意ながらも勘解由左衛門は転封を受け入れ、忠恭からは仲直りの意味で勘解由左衛門に馬一頭を贈り、勘解由左衛門も喜んで拝領した。
勘解由左衛門は転封にあたっての前橋での責任者に任命され、勘解由左衛門により転封準備が進められたが、その配慮は行き届き家中一同感心したという。

酒井忠恭の姫路への転封決定は寛延2年(1749年)1月15日、同日老中退任、実際に姫路に入ったのは5月21日のことであった。この2ヵ月後の7月3日に姫路城下は未曾有の大洪水に見舞われた。
潰家475、死者約3千という大災害であったが、このとき活躍したのが家老川合勘解由左衛門であった。勘解由左衛門は領民の城内への立入りを許し、反対する役人を自分の責任でおさえて米蔵を開かせ、年貢も減免した。後年、領民は川合勘解由左衛門に感謝し、その墓前に石燈籠を献じたという。
このことは姫路に転封後も水害とその対策に追われなければならず、早急に復旧を実施しなければ領民との信頼関係は築けずに、安定した藩政が展開できないという現実を突きつけた。
それは転封推進派にすれば期待はずれにほかならず、先頭に立って対策に奔走しなければならない勘解由左衛門にしてみれば心中忸怩たるものが芽生えたであろう。

その2年後、寛延4年(1751年)についに事件が起きた。この年の夏に忠恭は参勤交代で姫路に帰国した。犬塚又内も随伴して姫路に入った。
暫くして又内の姫路での所用が済み、江戸に帰りたいとの意向を漏らしていることが、勘解由左衛門の耳に入った。勘解由左衛門は、江戸の同役に内密の用事があり、書状では書きにくいために犬塚と内談したいと伝えた。
犬塚も了解して、7月10日に勘解由左衛門宅に行くことになった。10日は犬塚が出発を予定していた前日である。10日に夕方犬塚が勘解由左衛門宅に行くと、同じく招かれた本多民部左衛門と家老並の松平主水がいた。
勘解由左衛門の家族は家来の村山作左衛門の屋敷に移っており誰もおらず、作左衛門だけが玄関に控えていた。これは勘解由左衛門が内密の話と言っているので、さして不思議なことではない。
書院にてそば切りで会食をし、それが終わると勘解由左衛門は犬塚を奥の別室に案内した。そこで勘解由左衛門は妻を連れてくると言って、一旦席をは外し、すぐに取って返して犬塚に切りかかり、さらに止めを刺した。

勘解由左衛門は血にまみれた衣服を着替えて顔と手を洗い、書院に戻って今度は本多民部左衛門を奥に案内した。そして犬塚を呼ぶと称して席を外しかけ、油断した民部左衛門に切りかかり止めを刺した。
次に勘解由左衛門は白帷子に着替えて作左衛門を呼び、2人の死体を見せて辞世を読み、委細を書いた紙を取り出して主水に渡すように託した。
さらに検視は役人に任せ、家族の始末は親類に頼むことを伝えて、作左衛門の介錯で切腹した。作左衛門は主水に事実を伝え、主水は直ちに事件を目付と勘解由左衛門の親類に伝えた。
この事件は「姫路隠語」や「姫路藩士騒動記全」「通夜垂言録」など多く実録が残されているが、事件を聞いた忠恭は勘解由左衛門の死を惜しみ、勘解由左衛門の乱心として犬塚、本多両家には存続を許した。

川合家は絶家となったが、なぜか再興を許されて川合宗見(勘解由左衛門の子)が家老に取り立てられ、さらにその子の河合寸翁(河合に改称)は藩政改革により財政再建に成功して、全国的に名を挙げた。
また、作左衛門は勘解由左衛門の遺言を忠実に守ったあと、35日目に切腹して勘解由左衛門の後を追った。勘解由左衛門の行動、主水の処置、作左衛門の忠義には皆が深く感動したという。
実録の各記では勘解由左衛門を忠臣として描いたものが多いという。また松本清張は事件を老人の心理から捉えて勘解由左衛門の死を自殺と見ることができると言い、三田村鳶魚は悪人のない御家騒動といった。
勘解由左衛門の行動を私闘、私怨という見方も出来るし、改革派と守旧派の対立という考え方もされているという。いずれにせよ勘解由左衛門の行動には考えさせられるものがある。

本稿は「御家騒動の研究」(清文堂)のうち転封をめぐる対立・抗争と御家騒動(播磨国姫路藩、姫路騒動について)及び歴史と旅・平成7年5月号(秋田書店)のうち前橋藩酒井家(転封反対を貫いた刃傷事件)を参考に書いています。

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