歴史の勉強

蒲生騒動

急成長する蒲生氏

近江の国人であった蒲生氏は、戦国時代には近江の名門守護大名であった六角氏の重臣であり、名字の地である近江蒲生郡に居拠していた。
永禄11年(1568年)に織田信長が流浪将軍であった足利義昭を奉じて上洛した際に六角氏を離れ、織田信長に降った。信長のもとに人質に出された蒲生氏郷は信長に寵愛されて、多くの戦で活躍する。
天正11年(1582年)に本能寺の変が起き信長が斃れると豊臣秀吉に属し、蒲生の当主となった氏郷は秀吉の側近武将として多くの軍功を挙げ、近江日野6万石を皮切りに、伊勢松坂12万石、会津若松42万石とごく短期間に出世し、本能寺の変からわずか12年後の文禄3年(1594年)には会津で92万石を領する全国有数の大名となった。

氏郷がごく短期間にこれほどに出世したのは、氏郷が稀に見る器量人であったからであるのは間違いないが、同時にそれは氏郷個人の力量にのみ依存した結果であった。
つまり蒲生家の氏郷ではなく氏郷の蒲生家であったわけで、このことは氏郷の出世によって急拡大した家臣団の統制に大きく影を落とした。
蒲生氏の家臣団は大きくいうと次の3つのグループに分かれた。

●与力大名
氏郷を軍団長として、それに与する大名家で関氏、田丸氏、木村氏がこれにあたる。関氏は伊勢亀山城主、田丸氏は伊勢岩出城主であり、蒲生氏が近江にいたころの近隣領主であり、蒲生氏と行動をともにした縁で与力となったもの。
木村氏は秀吉の側近であり、秀吉の奥羽仕置の際に陸奥で30万石を与えられたが、失政により改易されて蒲生氏の与力となったもの。
氏郷の会津時代関氏は陸奥白河4万8千石、田丸氏は陸奥守山5万2千石、木村氏は陸奥杉目5万石であった。

●外様衆
前述の通り蒲生氏は大名として急成長を遂げたので、家臣団編成が追いつかず、牢人や渡り奉公人(自分を高く買ってくれる大名を求めて、諸国を渡り歩く武士のこと)を多く召抱えざるを得なかった。
また氏郷の知略や武勇を慕って多くの牢人が仕官を求めてきた。これらの武士はプライドが高く、また主人との間柄も君臣というより同僚に近いものと考えている。
氏郷と個々の武士との間に個人的な契約が交わされていると考えたほうが近く、後の世の君臣の交わりのような考え方は毛頭なかった。
氏郷は、より絆を強めかつ恩賞の一環として、またほかの同僚との差別化を図りプライドをくすぐる意味で、蒲生姓を名乗らせることも多かった。
蒲生郷成(坂氏、柴田勝家牢人)、蒲生郷安(赤佐氏、六角牢人)、蒲生忠右衛門(谷崎氏、滝川牢人)、蒲生郷可(上坂氏、浅井・柴田牢人)、蒲生頼郷(横山氏)、蒲生郷治(上坂氏)、佐久間盛次、真田信尹、志賀与三右衛門などがいる。

●一門、譜代衆
蒲生氏の親族や近江時代からの家臣、六角家臣団での同僚であり六角滅亡とともに蒲生氏に従ったものなどで、岡左内、岡清長、岡重政、小倉作左衛門、蒲生郷貞、蒲生忠兵衛、福西吉左衛門、町野繁仍、町野幸知などである。

内在する問題

氏郷ほどの器量人であっても、これら家臣団の統制は困難を極め、文禄元年(1592年)6月には仲の悪かった蒲生郷安(米沢7万石)と蒲生郷可(中山1万3千石)の間で、相手方に逃亡した家臣の扱いを巡って戦闘が起きている。
このときは蒲生郷成らの仲裁で騒動は回避された。氏郷在世中でもこのような状態であったから、氏郷が死去してのちの蒲生氏の家臣間の絶え間ない抗争は起るべくして起ったといえる。

もう一つ蒲生氏の家臣団に抗争が絶えなかったのは、領地の増減が激しかったことが挙げられる。氏郷晩年の蒲生重臣の領地を見ると与力大名は別として、蒲生郷安の米沢7万石をトップに、蒲生郷成4万石(白石城主)、町野繁仍3万8千石(二本松城主)、蒲生忠右衛門3万石(四本松城主)など1万石以上が12名もいた。
氏郷が没して秀行が継いだが、暫くして蒲生氏は宇都宮18万石に転封となる。このときに与力大名は独立した大名となったが、家臣はそうはいかない。
18万石ではそれまでの家臣団は到底養えず、結果として蒲生家臣団は崩壊した。宇都宮時代の重臣で支城を持てたのは蒲生郷成(笠間城2万石)、町野繁仍(真岡城8千石)、蒲生郷可(河崎城6千石)の3人だけであり、その石高も会津時代には比すべくもない。

ところが秀行が関ヶ原役後に会津60万石に復帰すると蒲生郷安4万5千石(守山城主)、町野繁仍2万8千石(白河城主)、岡重政2万石(津川城主)、蒲生郷治1万石(長沼城主)、玉井数馬助1万石(四本松城主)など万石クラスが続々誕生している。
これでは家臣の方も自領をなるべく多く確保するよう動かざるを得ないわけで、必然的にパイの分配を多く求めようとし
それが重臣間の抗争に発展する構図となる。

氏郷以後の蒲生氏・秀行の代

先走ったが一代の器量人であった蒲生氏郷は、文禄4年(1595年)2月2日京都において40歳の若さで病死した。この若すぎる死が先に書いた蒲生家臣団の抗争を激化させた最大の原因であった。
氏郷が死去し嫡子秀行が跡を継いだ。秀行は遺領を相続したもののわずか13歳であり、慶長2年(1597年)に秀吉の意向により徳川家康の三女振姫を正室に迎えた。
秀行は幼年であり、また秀吉はとても92万石を任せる器量はないと見ていた。秀吉は一時秀行を改易して、近江国内で堪忍分2万石を与えようと考えたほどである。
これは会津92万石の太守となったのが、ひとえに氏郷個人の器量に起因していたことを考えれば、むしろ当然の処置であった。
この当時はまだ、領地は家に与えるというより、大名個人の能力に与えるという考え方が色濃かった。この蒲生改易案は、これを知った家康と前田利家の奔走で秀吉が翻意した。この背後には関白秀次がいたとされる。

しかし秀行の安泰は長くは続かず、秀吉最晩年の慶長3年(1598年)正月に会津92万石から下野宇都宮18万石に減転封される。
この直接の原因は蒲生郷安の綿利八右衛門殺害に端を発した、郷安と蒲生郷成の対立であった。若い秀行ではそれを調停できず、これが秀吉に格好の口実を与えることになった。
おの家中不和のほか秀吉が家康と秀行の接近を警戒したことや、秀吉が秀行の母冬姫を側室に望んだのに断られてことなども原因としてあげる説もある。

蒲生氏の宇都宮時代は短く、関ヶ原役で家康が勝利すると、秀行は慶長6年(1601年)9月に会津に60万石で復領する。秀行が加増のうえ会津に復したのは、正室が家康息女であったという理由以外はないといっていい。
会津に復帰した秀行は慌しく他家に仕官していた旧臣を呼び返して召抱えるなどして、家臣団を整えた。ところが、ここでも家臣間の抗争が起きる。
慶長14年(1609年)には蒲生郷成と岡重政の確執から再び抗争に発展。この結果、郷成派の小倉作左衛門や関一利らが家中を立退く事態になった。
家臣団の抗争に悩まされながらも、秀行は会津に復帰する領地の整備に取り組んだが、元来病弱であり慶長17年(1612年)5月14日に30歳の若さで死去した。

氏郷以後の蒲生氏・忠郷と忠知の代

秀行が死去すると、嫡子忠郷が家督を継いだ。忠郷は幼名を亀千代といい、家康の孫にあたる。この年9月に家康は弟の鶴千代とともに元服させて松平姓を与え、将軍秀忠からは忠の一字が与えられる。亀千代は松平下野守忠郷、鶴千代は松平中務大輔忠知と名乗った。
忠郷の代になっても重臣層の抗争は続いた。慶長18年(1613年)に重臣岡重政が忠郷の母であり家康の娘振姫の勘気を蒙り、振姫が家康に訴えでて死罪に処せられた。
この結果、先に家中を退去していた蒲生郷成や関一利らが復帰した。絶え間ない重臣間の抗争に将軍秀忠も事態を憂慮して、蒲生家重臣の町野幸知、稲田数馬助に領内仕置について5か条の条目を下し、国目付も派遣している。
この条目の第三条では訴訟を企てることや家臣の新規召抱えを禁じ、第四条では家臣相互の縁辺を規制している。

しかし重臣間の抗争は絶えず、元和2年(1616年)には蒲生郷喜・郷舎の兄弟と町野幸知の間に紛争が生じた。この紛争は家康が直々に裁き、蒲生郷喜・郷舎の兄弟と蒲生忠右衛門を改易に処した。
さらに元和8年(1622年)には渡辺次郎右衛門が町野幸知を幕府に訴えて、町野は職を辞し蒲生郷喜・郷舎の兄弟が帰参している。
このように蒲生氏は忠郷の代も重臣の抗争が続く不安定な治世ではあったものの、家康の孫、秀忠の甥という徳川家の縁戚であったために辛うじて改易にはならなかった。
そのようななかで地位を確立しつつあった忠郷だが、これからという寛永4年(1627年)正月4日にわずか26歳で病死してしまう。

忠郷には嗣子がなかったために、本来なら無嗣断絶となるところであるが、家康の娘振姫に繋がる家であるために、幕府の特別な計らいを持って忠郷の弟の忠知が家督を継ぐことを許された。
忠知は寛永3年(1626年)8月に従四位侍従となり、同年10月にには出羽上ノ山4万石を与えられていた。忠知は蒲生の家督を継いだが、会津60万石から伊予松山24万石に転封となった。
将軍は三代家光の時代で、家光は忠知には会津60万石を治める器量はないと判断したようである。蒲生家が助かったのも、ここでも家康の孫、家光の従兄弟という縁だけであった。
会津には松山から加藤嘉明が40万石で入る。忠知の領地は伊予松山に20万石、蒲生氏の発祥地近江日野に4万石であり、蒲生氏は故郷の日野とも繋がりを持つことになった。

蒲生家は、石高は半分以下という大減封のために多くの家臣を解雇せざるを得なかった。また残った家臣も大幅に減知となった。このことが家臣の間に不満となって残り、それが家臣間の確執を生んだ。
移封2年目の寛永7年(1630年)にまたまた重臣間の抗争が起きる。福西吉左衛門、関十兵衛、志賀与左衛門らが筆頭家老蒲生郷喜を忠知に訴えた。
忠知は郷喜とその弟の郷舎、福西吉左衛門らを留め置き、江戸に上って幕府の裁断を仰ぐ。家光の親裁によって福西は伊豆大島に流罪、蒲生郷喜は蟄居、関十兵衛、志賀与左衛門、蒲生郷舎は追放となった。

忠知は領民に対して善政を布いたとされる。松山では前藩主加藤嘉明が農民から厳しく年貢を取り立て、その結果農民に不満が溜まっていた。忠知が入部して藩政が不安定な時期を狙って、不満が溜まっていた農民が蜂起するという事件があったが、これを機に忠知は農民の課役負担を取りやめて農民の負担を軽減した。
また城下町人に対して諸役を免除して、負担軽減に勤めたされているが、一方で暴君説もある。しかし暴君説は妊婦の腹を裂いたなどの俗説的なもので本当とは思われない。
その忠知も寛永11年(1634年)8月18日に参勤途中の京都で死去してしまう。わずか31歳であった。忠知には正室内藤氏との間に鶴松という嗣子があったが早逝しており、蒲生家は無嗣断絶となった。

おわりに

これにより氏郷が築いた大名蒲生家は四代で絶家となった。氏郷が一代で全国屈指の大大名にのし上がったものの、家臣団の統制は容易ではなく、その基礎を固める前に若くして死去した。
氏郷の跡を継いだ秀行、忠郷、忠知の三代は家中の不和に悩まされ続けた。秀行以下もいずれも若くして死去しており、その原因は家臣団の不和に神経をすり減らしものであったかもしれない。

蒲生騒動という言葉は一般的ではないが、氏郷晩年に始まり間接的に蒲生家を断絶にまで追い込んだ、絶え間ない家中不和は一連の騒動と見ることができる。
これら騒動は蒲生氏に特有のものではなく、大名と家臣の関係が個人的なものであった戦国期から、恒久的なものに変る江戸期への転換期には多くの家で同様の問題が起きた。
若年の当主が続き、それに上手く対応できなかったところに蒲生家の不幸があったのではなかろうか。

本稿は近畿の名族興亡史・蒲生氏(新人物往来社)、新選御家騒動上巻・蒲生騒動(藤田達生・新人物往来社)、歴史と旅平成2年11月号のうち蒲生忠知を参考に書いています。

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