歴史の勉強

船橋騒動

江戸時代初期には、譜代の家臣と新参者である外様の家臣が対立して、騒動に発展するケースがよくあった。
東西両軍が激突した関ヶ原の戦いで、西軍に属した大名家は改易となって取り潰されるか大幅な減封となった。東軍に属した大名家は大幅に加封された。
取り潰された家や減封された家からは大量に浪人が生まれ、加封された家は家臣が必要だから、それら浪人を雇い入れる。しかし加封された東軍系大名も安泰ではなかった。秀忠・家光の頃には幕府の政策もあって、外様の大名家は、ことがあると取り潰されたし、無嗣であれば譜代であっても容赦なく改易した。
そのために取り潰された大名家からは、再び大量に浪人が出た。これらのうち名のある者や有能な者は他の大名家に雇われて大事にされた。

だが、これが各大名家をいままで支えてきた譜代の家臣には面白くない。世の中にはまだ戦国の気風が残っている。主君の為に命を懸けて戦場で働き、やっと地位と領地を得たのに、何の功もない中途採用の他国者が、地位と権力と領地を得てしまうのである。
このころの経済基盤は生産性のある土地であり、江戸期に入って戦乱がやみ、新田を開発する以外に土地を増やせないとなると、所詮限られた土地を分配するだけとなる。
世襲制であるから、跡継ぎであればどんな無能でも土地をもらえたが、有能であっても家柄が低かったり、跡継ぎでなかったりすれば無為に過ごすしかなかった。
これらの矛盾が騒動に発展したり、経済的な停滞を生み発達を阻害する大きな要因になっていく。

騒動となるケースでは、本来なら自分達がもらえるはずであった土地を中途採用の新参者が取ってしまうことで、譜代衆が不満を持つ。一方新参者にすれば、譜代衆に能力がないから自分達が雇われたのであって、有能な自分達はしかるべき報酬(土地)を貰う権利があるというわけだ。
下級武士の争いならばともかく、重臣層がこの状態では藩政の乱れに繋がりかねない。藩主がしっかり者であれば、まだコントロールがきくが、そうでなければ騒動にならないほうがおかしい。
津軽家三代信義の代に起きた船橋騒動というのも、そんなお家騒動であった。

騒動の中心となる新参者の家臣を船橋半左衛門長真という。本姓を笠原氏といい、もともとは備前岡山の宇喜多家で1万石を領していた。そのころは笠原太郎作といった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原役で宇喜多家は西軍の副将格であり、敗戦後太郎作は京都に逃げ、母方の実家である明経博士船橋家に身を寄せ、名も船橋半左衛門と改め、諸国巡行に出た。
慶長18年(1613年)に津軽を訪れた半左衛門は、津軽氏二代信枚に3百石で召抱えられる。信枚の気に入るところとなったのだろう、すぐに3百石の加増を得て江戸詰めとなる。

元和5年(1619年)信枚に長子平蔵(のちの三代藩主信義)が生まれると、その乳母として半左衛門妻が選ばれた。信枚の最初の室は石田三成の三女辰姫であり、これは北政所(豊臣秀吉正室ねね)の養女になって、信枚のところに輿入れしてきた。
このことを知った徳川家康は、自身の養女満天姫を半ば強引に信枚の正室として送り込んだ。時の最大権力者のやることで、津軽家側ではどうにもならない。
満天姫はもともと家康の異父弟である松平(久松)康元の四女であったが、家康の養女にし福島正則の養嗣子であった正之に嫁がせたのだが故あって離縁し、正之の子である直秀を伴っての子連れ姫であった。

この満天姫というのが気が強い面があったらしく、辰姫のことを徹底的に嫌った。そのため信枚は辰姫を津軽家の飛地であった上野国勢多郡新田庄大館村においた。
辰姫はここで信枚の子平蔵を生み、やがてこの地で36歳で病死する。ちなみに満天姫は辰姫の津軽への改葬も許さず、辰姫が津軽の地に改葬されるのは、満天姫の死去後のことである。
一方、平蔵の方は乳母の半左衛門の妻に育てられるが、信枚は満天姫を必死で説得して、一命に関わる難行である百日潔斎の業までして、ついに平蔵の嗣を認めさせた。晴れて平蔵は江戸に移り、半左衛門はその側近となった。

寛永8年(1631年)二代信枚が没し、信義となった平蔵が三代藩主となる。信義は藩主となっても2年ほど江戸にとどまり、その後初入部となった。
上野国大館の飛地で生まれ隠れるように育てられ、その後も江戸藩邸の世界しか知らず、年もわずか15歳である。当然側近であった船橋半左衛門を頼ることとなり、信頼を寄せる。
初入部の時も半左衛門とその長男半十郎が若き藩主信義に寄り添うようにして、弘前城下に入ったという。在国の藩士が一同平伏して迎える中、船橋父子は下馬もせず、見下すような態度で藩士達を無視して通り過ぎたという。
当然国侍達は面白くない。面白くないが仕方がない。隠忍自重した。

信義は半左衛門を重用し、この翌年4百石を加増し都合1千石とした。津軽氏の表高は4万7千石だから、1千石といえば大身である。
さらに国許で政務を執ってきた津軽信孝と津軽建定の2人の重臣が罷免された。信孝は本姓を兼平氏、建定は乳井氏といい、もともと土豪の出身であり、古くから津軽氏に仕えて津軽姓を許されるほどであったから、譜代の重臣中の重臣である。
この2人が退けられて他国者の船橋が大身となったのだから大騒動になった。それまで新参者と軽視されていた藩士達は我先きに船橋のもとに集まる。乾四郎兵衛もその1人であった。
一方の譜代の侍達は信孝・建定のもとに集まり船橋追放を叫ぶ。藩内は二派に分かれて対立した。

寛永11年(1634年)7月三代将軍家光の上洛の際、津軽家も供奉をした。信義は自ら藩士1千を率い、その中に船橋父子、乾を始め譜代の信孝・建定も加わっていた。
供奉は無事に終わり、翌8月津軽一党も江戸に帰着した。この時譜代派は好機到来と見て、信孝・建定を筆頭にして藩邸を出て町家に籠城し「船橋追放か、我々に暇を出すか」と藩と幕府に訴えた。
藩では慌てて譜代派を説得したが失敗し、幕府の公裁となった。藩主信義出頭のもと、大老土井大炊頭利勝、老中松平伊豆守信綱、阿部豊後守忠秋らが事情を聴取した。
このとき信義の態度は神妙であり、結局何の科もなく、船橋父子・乾と信孝・建定の対決となった。町家に立て籠もっていた譜代派は説得されて藩邸に戻ったが、家中ではこの後も新参派、譜代派の対立が続いた。

幕府の裁定が下されたのは2年3ヵ月後の寛永13年(1636年)11月のことであった。喧嘩両成敗となり、船橋父子と乾四郎兵衛は伊予松山の松平家に、信孝と建定は長門萩の毛利家に預けられた。
やっと決着はついたものの、この裁決を不満とする藩士達は、新参・譜代を問わず国許や江戸から多くが浪人となって立ち退いた。
この結果国許では城番にもこと欠く始末で、下級武士や鉄吹職人まで動員して城の番士に仕立て上げて、城を警備するほどであった。
一説には藩士の半数近くが退散したとも言われている。このため藩では再び浪人を召抱えなければ、対面と軍役を果たせなくなってしまった。

弘前藩の場合、特に国許の藩士は戦国時代の気風を残す者が多かった。北辺の地であり、戦国の終末が遅く、中央政権に組み込まれた後わずかの期間をおいて関ヶ原役、そして江戸時代になったという事情から、保守的な気風が色濃く藩士の大半は武断派であった。
一方秀吉時代や江戸・上方の生活を経験した新参者からすれば、その気風は融通がきかない頑固者の集団と写り、軽蔑の対象であった。それが若年藩主の寵を得たことで一気に増幅し、やがて騒動に発展した。
それが船橋騒動であった。津軽家中に文治体制が定着するのは、次の四代信政の代になってからである。

参考文献:奥羽津軽一族(新人物往来社)、日本歴史叢書・弘前藩(吉川弘文館)、新編物語藩史(新人物往来社)、東北の名族興亡史(新人物往来社)、江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、別冊歴史読本「御家騒動読本」(1991年新人物往来社)

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