歴史の勉強

延宝郡上騒動

美濃郡上八幡は、関ヶ原役後に遠藤但馬守慶隆が封ぜられて郡上藩2万7千石の藩祖となった。遠藤氏は入封ののち大坂の陣への参陣や駿府城、彦根城、名古屋城などの普請手伝いに駆りだされたこともあって、当初より財政は苦しかった。
藩祖慶隆から慶利、常友と継ぎ、常友が延宝4年(1676年)に49歳で没すると四代常春が襲封した。三代常友は治世30年に及び、その間城下町の整備、八幡城の修築、歌集常縁集編纂などを行い、また検地を行って年貢の増微を図り新田開発に努め財政難に対処しようとしたが、小藩ゆえ悪化していく財政を立て直すには、遠かった。

常春は襲封時10歳と幼少であったために、常春の伯父にあたる美濃大垣藩主戸田氏西をはじめ、板倉周防守、常友の弟で分家して旗本となった常昭(乙原遠藤氏)、常紀(和良遠藤氏)が常春の後見となった。
重臣の顔ぶれは江戸詰家老遠藤十兵衛・池田庄兵衛、国家老遠藤新左衛門・遠藤杢助、仕置家老松井縫殿助・野田九右衛門らであった。
重臣たちは逼迫した藩財政を立て直すために、年貢の増微か支出の削減かを迫られていたが、延宝5年(1677年)に評議の末に年貢増微の方針を決定して領内に布れた。

当時の郡上藩の年貢の基準率いわゆる定米は約32%といわれているが、そのほか付加税である口米が一石について4升、また枡も納枡という3割増の枡が使われ、それらを全て合せると52%程度の税率であった。
これが基本の税で、このほかに雑税として綿や雑穀、薪、大豆、茶、紙など多くの物品に税がかかり、そのうえに人足として徴発される労役がある。
このうえに増税であるから、たちまち農民の反発を呼び、増税中止を藩に訴えた。しかし聞き入れてくれるはずもなく、8月には大島村の十左衛門、川辺村の喜兵衛ら農民代表20名が江戸藩邸に出訴をした。
農民の訴えは年貢や諸税、諸役を慶隆の代に戻し、人足徴発の軽減、昨延宝4年未進の借米・借金の返済を十年賦とすること、新田開発を中止することなどであった。

一方、藩側も増税一色というわけではなく、増税派と反対派があった。増税派は農民の出訴を知ると遠藤七郎右衛門を江戸に上らせて、増税の意見具申を行う。
事態を憂えた反対派の国家老遠藤杢助は半ば強引に江戸に出府して、常春や後見役に農民の窮状を述べ、増税を強行すれば御家の一大事を招く恐れがあると説いた。対案として家臣の俸禄六分の一を減じて財政を財政を補填すべきて訴えた。
杢助の進言は常春はじめ後見役の入れるところとなり、増税は中止され家臣の俸禄削減が決定された。さらに杢助らが農民を煽動していると讒言した遠藤七郎右衛門の知行は没収された。
また年貢は7%免除され、口米は一石につき3升、雑税も引き下げられ、借米・借金の十年賦も認められた。農民は喜び杢助に深く感謝した。

しかし俸禄を削減された家臣の不満は大きく、同志を集めて杢助を糾弾した。即ち百石以上の藩士が連判して杢助の罪状を挙げた訴状を野田九右衛門が江戸藩邸に提出した。
藩邸では後見役戸田氏西らが協議し、紛争を鎮めるために杢助に切腹させることにしたが、それを知った杢助は反訴状を江戸藩邸に提出した。
野田九右衛門は、これを杢助の女婿であった遠藤新六郎が内通したことによるものと思い込んで、新六郎の邸に乱入したが、捕らえられて斬首された。

一方、郡上では延宝6年(1678年)正月2日の歌初めに増税派を中心に、杢助暗殺が計画される。だが、この計画は事前に洩れ、杢助を慕う農民が城下に結集して暗殺計画は失敗した。
これにより増税派と杢助一派の対立はますます激しくなり、増税派は再三杢助を襲撃しようとする。後見役戸田氏西は、大から使者を出して集結した農民を説得し、また尾張藩も自領であった美濃洲原に藩兵を派遣するなど事態は悪化していった。
同年2月に江戸から郡上に使者が出されて、杢助と増税派の国家老遠藤新左衛門が事態紛糾の責を負って隠居した。その後も家中一同や農民に対して説諭が続けられたが事態は好転せず、延宝8年(1680年)2月には家中不和による農民の困惑を農民5人が江戸藩邸に出訴する騒ぎとなった。

ようやく天和2年(1682年)3月になって家臣一同から和合の誓詞が出され、翌天和3年杢助、新左衛門ら48人に御暇など関係者が処罰されて、騒動は終結した。
延宝郡上騒動とは財政立直しの方策を巡る増税派と歳出削減派の争いに領民、家臣の思惑がからみ騒動に発展し、それを喧嘩両成敗的に解決しようとするが失敗して、さらに事態が紛糾するという現代にも通じる話でもある。

参考文献:別冊歴史読本「御家騒動読本」(1991年新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)

遠藤氏のページに戻る
大名騒動録の表紙に戻る
歴史の勉強
Last modified -