歴史の勉強

阿波騒動

はじめに

阿波騒動とは、阿波徳島藩第11代藩主蜂須賀重喜が、久保田藩佐竹家の分家から養子となって徳島藩主となり、改革意欲に燃えて藩政改革を手がけるが、家臣たちの反発にあって失敗に帰す一連の出来事を指す。
つまり蜂須賀重喜の存在と行動が騒動の中心ということになる。
前半の重喜の藩主就任までは、悪人達が自分らが擁立を目指す重喜を藩主とするために陰謀をめぐらすというドラマ風な展開。重喜の藩主就任後は一転して改革派の藩主と守旧派の家臣たちの対立という、現代にも通ずるような形をとる。

蜂須賀氏は濃尾国境付近で主に水運業に従事していた蜂須賀小六正勝が、秀吉の与力となって以後、秀吉の出世に連れて大きくなっていき、正勝の子の家政の時に阿波一国の大名となった。
秀吉の死後は関ヶ原役を上手く乗り切り本領安堵。さらに大坂の陣での活躍を認められ淡路国を加増されて、阿淡二国25万7千石の大名となった。
以後明治維新まで転封もなく両国に君臨するが、小六正勝の血は正勝から数えて9代目(徳島藩主としては8代目)の宗英で途切れる。
宗英自身、一門ではあるが臣下として家老職にあった。しかし宗家に跡継ぎがなかったために、養子となって宗家を継いだのである。襲封時既に50歳を越えており、この宗英にも子がなかったために、隣国讃岐高松藩の松平家から養子として宗鎮を入れた。

重矩の死

やがて宗鎮の代となるが、ここからは蜂須賀の血統は他家の血になる。宗鎮は世子として2代前の藩主宗員の二男であった重矩を立てた。
この重矩は江戸深川の下屋敷にいて日夜文武に励み、藩内の期待も大きかったのであるが、この重矩が一夜上屋敷に招かれ藩主宗鎮と歓談したあと数日を経て死んでしまった。

話はこうだ。久保田藩主佐竹家の分家に壱岐守家というのがある。代々の当主が壱岐守を名乗ったのでそう呼ばれるのだが、2万石の大名であり秋田新田藩といわれていた。
ここの当主は当時佐竹壱岐守義道という人物だった。この義道は佐竹宗家の当主義真を毒殺して自分の長男義明に宗家を継がせたという噂もあり、相当な野心家であった。
この義道の四男を義居(のちに政胤)という。義道は義居をどこかの大藩の養子にと考えていたが、こちらから持ちかけるわけにもいかない。

そんな時、どこかの交際の席で徳島藩江戸家老賀島政良と出会った。この賀島政良という人も我欲が強く義道と似たところがあったらしい。
義道は賀島の性格をたちまち見抜き、賀島のことを調べてみた。すると賀島家はもともと1万石の知行であったが、祖父の代に何か失敗をやらかして5千石に減知されていることがわかった。
義道は賀島を屋敷に招いたりして親しくなっていき、ある時5千石を1万石に復するためには、自身が藩主を擁立すれば大恩を負った藩主がすぐに加増をすると吹き込む。
その擁立する藩主とは、もちろん義道四男の義居のことだった。ここに賀島は宗鎮の世子重矩を暗殺し、その跡に養子として義居を入れるという密約を義道と交わした。
そして世子重矩が上屋敷に来たときに酔い覚ましに出した薄茶に毒を仕込んで、重矩を殺したというのである。これで義居を世子に推薦すれば…ところがそうはうまくいかなかった。

重喜、藩主となる

宗鎮は今度は三代前の綱矩の子隆寿の子で、やはり分家を立てていた重隆を世子としたのである。賀島は落胆したが、そこは陰謀家であり、すぐに次の計略を巡らす。
今度は世子だけでなく藩主ともに毒を盛ることにした。さすがにすぐでは怪しまれるので、人々が重矩の死を忘れるまで待った。
重矩が死んでから3年ほどして、もうよかろうというので、やはり上屋敷での酒宴のおりに酒に毒を入れて出した。この時は賀島も杯を頂戴して飲み干し、後で解毒剤を服用したという。

数日後、毒が効いて宗鎮、重隆とも不例となった。死にはしなかったが廃人同様となり、公儀向きのことにはとても耐えられないということで、宗鎮は隠居、重隆も廃嫡ということになった。
ところが、ここでも養子として義居が…ということにはならなかった。高松藩から急遽宗鎮の弟至央が養子に迎えられて10代藩主となった。
しかし、この至央はわずか2ヶ月あまりで急死してしまう。ここでやっと義居が養子に迎えられて、名を重喜と改め阿淡両国の太守となるというのが前半である。

一般にはこのように語られているが、賀島政良は宝暦2年(1752年)5月に4千石を加増されている。目標であった1万石には千石足りないが、良しとしなければならない。
ところが、この宝暦2年というのは重矩が死去した翌年であり、重隆はまだ世子とはされていない時期である。(重隆が世子となったのは宝暦2年10月)
であれば、賀島は何も危険を冒してまで宗鎮と重隆に毒を盛らなくてもいいわけで、これをもって前記の話は相当に脚色されたものといわれている。

おそらく賀島がかなり我欲の強い人間であり、評判の悪い人間であったのは事実であろうし、また義道と交際があったのも事実であろう。
そこに重矩の不審の死、さらに宗鎮と重隆の急病、至央の急死が立て続けに起きた。江戸家老の賀島は、この時点で迅速に動かなければ蜂須賀家は取り潰されてしまう。
国許には相談する暇もなく、かねてから昵懇の佐竹義道の子義居を急養子としたのであろう。義居改め重喜という人は、世評はともかく徳島藩では悪評の高い藩主であるから、後世これらを含めて賀島が必要以上に悪役に仕立て上げられた感がある。

重喜の初入部

さて騒動後半である。義居改め蜂須賀阿波守重喜は、宝暦4年(1754年)8月幕府より朱印状を貰い、正式に藩主になった。翌宝暦5年阿波に初入部する。このとき重喜はまだ18歳であった。
重喜という人は決して愚昧な人物ではなく、むしろ聡明な人であった。この時もある考えを持っていたといわれる。それは藩主への権力の集中、一種の独裁制に近いものの実施であった。
このころの徳島藩の体制は家老仕置、つまり藩政を行うのは家老であり、藩主はある意味象徴的な存在であった。もともと藩政初期の四代綱通の代までは藩主の直仕置またはそれに準じる政治体制であった。
しかし五代綱矩は正勝の血は引いているとはいえ、家臣に降下して家老となった家から養子に入った。それがコンプレックスとなって藩政を家老に委ねた。綱矩の治世は52年にも及び、その間一通も判物を発給しなかったという。

この綱矩治世期以降、家老仕置が常態化し、それがやがて家老の専横を招くようになった。綱矩が没した後の藩主たちは、これを藩主独裁に戻したいと願ったが、いずれも果たせなかった。
重喜が藩主として独裁制への回帰を目指したのは、乱れ始めた藩内秩序を回復する意味でも当然のことであった。
重喜が独裁制、藩内秩序の回復を図った最大の理由は財政の逼迫にあった。このころには全国諸藩が例外なく財政難に陥り、徳島藩でも財政が逼迫し、累積赤字も巨額になってきている。家老以下役人に任せ切りにしていると、役人というのは昔も今も旧態を変えようとしないから、財政は悪くなる一方であった。

当然改革が必要となるが、封建制度下において改革を行なうためには上からの指示、つまり藩主が方針を示して率先してやっていくしか方法はない。そのために権力の集中が必要であると重喜は考えていたようだ。
ここに一つ障害がある。それは重喜が他家から来た養子で、しかもそこが2万石の小藩であったことである。徳島藩の藩士たちは、口ではいろいろと尊ぶようなことを言うが、「しょせん2万石の小藩より入った繋ぎの殿様」と思っている。
これは当時の一般的な考え方であり、重喜も当然知っていた。
繋ぎの藩主とは、家老に言われたとおりに行動し、嗣子を残すのが仕事で、それ以外のことは家老に任せておけばいいのである。
このあたり凡庸な人間ならそのまま受け入れるのだろうが、聡明な重喜にはコンプレックスとなった。

初入部の時、徳島城の城門に近づくと「まず武器庫を見たい。武備の検査をいたす」と言ったという。これには家臣も驚いた。
太平の世が続き武器庫など名のみで、中身はいいかげんにしてある。これは何も徳島藩だけのことではない。重喜もそれを知っていての発言だが、仮にも藩主の言だ。
誰も答えられず、それを見て重喜は家臣たちを叱責したという。この一事が、この後の重喜と家臣たちの関係を表している。重喜にすれば小藩からの養子と侮られないための示威的な言動であったのだが、家臣たちからすれば意地悪でひがみっぽい殿様ということになる。
初入部のとき、まだ城に入る前からこの有様であった。

職班官録の制

重喜は先に書いたように藩主独裁論者であった。しかも自分の考え方ややり方に自信を持っていた。もっとも独裁など自信がなければできるものではない。
重喜は阿波に1年いて、宝暦6年(1756年)参勤のために江戸に向かった。その際に、
・奉行に少しでもも私曲があれば調べて江戸に報告し、指図を待て。
・士民で大罪を犯した者や藩士のうち遊学する者、病気の療養で国を離れる者は江戸に申告して藩主の決済を得よ
などと指示していった。権力集中化政策の第一歩であった。

宝暦7年(1757年)は在府、翌8年に再び阿波に戻った重喜は、ここでとんでもない爆弾を投げた。この爆弾の名を職班官録の制という。なお、職班官録の制とは「阿波国最近文明史料」の呼方で、蜂須賀家文書では役席役高制と表現している。
早い話が家臣の知行地を固定給部分と職能給部分に分ける制度である。
封建体制のもとでもっとも重視されたのは家柄であり、家柄と職は連動していたといってよい。家老は家老になれる家の中から選ばれた。
能力があろうがなかろうが、あるいはほかにもっと能力のある者がいようが関係はなかった。逆に家柄が低ければ、どんなに有能であっても重臣クラスにはなれなかった。
職班官録の制は、これを打破するのが目的だった。

それに一度職に就いて加増がなされると、その職を辞しても加増はそのままであった。これが藩財政圧迫の原因の一つであった。
これも含めて各家に固定給を付し、役職に就いたときだけ役職給がつき、職を辞せばまた固定給だけになる。現代では珍しくない制度だが、この当時の武士の最重要なものは封地であった。
封を増やすために戦い、その戦いのプロが武士である。天下泰平となって戦いはなくなったが、武士の考え方まで変ったわけではない。職班官録の制は、その根本を否定するものであった。

この制度はなにも徳島藩だけのものではなく、八代将軍吉宗も足高の制として幕府で実施しており、他藩でも行なわれていた。
そういう制度であったから家老たちは内心は反対ではあったが、表面上は受け入れようとした。唯一人を除いては…
反対したその家老を山田織部真恒という。真恒は重喜に対し諌書をしたため反対した。諫書の趣旨は従来の体制を重喜一人の考えだけで変更するのは先祖に対して尊敬の念が欠けており、嫡流であっても3年間は父道を改めないのが道理であるのに、養子であればなお一層父祖の道を改めるには慎重であるべきというものであった。

重喜はこの諌書に激怒し、隠居すると言い出した。山田の諫書の新法反対の部分は多くの藩士の賛同するところであり、表立って争論とならなかったが、重臣たちは不遜な表現の部分を攻めた。
そして重喜に対し隠居を思いとどまるように願い出た。重喜もこのままでは大騒動に発展しかねず、幕府からも責任を問われるのでは志半ばとなってしまう。
重喜は隠居をやめ山田真恒を閉門とし、その代わり職班官録の制は引っ込めた。

対立の激化

宝暦10年(1760年)重喜は出府し、翌11年に帰国する。この年あたりから重喜と家老たちの対立は段々と激しくなってくる。
まず、会計検査をしたところ、藩の歳入をはるかに上回る歳出が続き、負債が30万両もあることが重喜に報告された。重喜はすぐさま倹約令を出し、隠居すると言い出した。家老たちへのあてつけである。
次に平島公方問題が起きる。平島公方とは戦国時代に阿波に避難した足利十代将軍義稙の子義冬の子孫のことである。避難したといっても当時の阿波守護であった細川氏とその執政三好氏に匿われたのであるが、この子孫が連綿と那賀郡平島に住し、この頃でも平島公方といわれ敬われていた。

所領はわずか百石だが家柄がいいから公家衆を初め交際範囲が広い。交際費が不足気味なので百石の加増を要求してきた。これを聞いた重喜は、百石の加増をするのに条件を付けた。
格式を捨てて徳島城下に住み家臣となるなら百石の加増を聞くというのだ。没落したとはいえ相手は源氏の名門で蜂須賀家などとは比較にならない。
その名門意識だけで生きているようなものだから、絶対に承諾できるような条件ではなかった。このあたり重喜の小藩出身コンプレックスから抜けきれない。
結局、条件をつけただけで参勤のため江戸に出府した。

江戸に入った重喜は大倹約令を出した。まず藩主の費用を千両から2百両、つまり五分の一とすることを宣言、食事も質素にし衣服も原則として新調せず、乳母の数も一人にするなど徹底したものであった。
ここに国許から報せが入る。家老合議のうえで平島公方に百石の加増をしたというのだ。激怒した重喜は怒りの手紙を国許に発する。
驚いた国許では賀島政良ら家老が弁明のために江戸に出てきたが重喜は会わない。ついに筆頭家老の稲田九郎兵衛まで引っ張り出した。

重喜は稲田には会った。そして稲田を説得して味方にしてしまったのだ。このあたり筆頭家老とはいえ稲田九郎兵衛は、あまり頭の出来が良くなかったらしい。
この結果、重喜の改革が矢継ぎ早に実施される。まず大倹約令、公儀向きを除く一切の費用の節減であった。次に景気浮揚策として淡路国由良港の開港と城下郊外大谷の藩主別邸の建造、藩からの借金の帳消し、社倉の設置、それ増税である。
ところが宝暦12年(1762年)に帰国すると、ここに意外な事件が起きていた。先に閉門を申し渡された山田織部真恒が重喜を呪詛調伏していることが発覚したのだ。
既に閉門は解かれていたが、山田は重喜に対する不平不満の塊となり、呪詛に走った。

山田の呪詛の一件は、徳島城下近郊の沖浜村にある歓喜院という山伏が行った。山田はこの歓喜院をもともと信仰しており、正妻の安産祈願などをしていたが、重喜を憎むあまり歓喜院に重喜呪詛を依頼した。
山田家は徳島藩では稲田家、賀島家に次ぎ5千石を給される家老の家柄であった。これほどの重臣が藩主を呪詛するなど謀反である。山田は捕らえられ切腹させられたが、これは当然至極なことである。
重喜にすればこの一件は、改革に向けて大きく前進するための格好の材料であった。山田の行動そのものにも大きな問題はあるが、これほどの敵失は望んでも望めるものではなく、重喜は独裁性実現に向けて動き出すこととなる。

幕府の介入

この後明和3年(1766年)初頭、帰国中であった重喜は念願の職班官録の制の実施に踏み切った。
第一班を家老として定員5名、知行は5千石〜1万4千5百石、第二班中老で定員37名、知行は4百石〜3千石、第三班は物頭で定員12名、知行は5百石〜千石、以下中下級に及ぶ。
さらに門閥を打ち破るための抜擢人事を行なった。
ところが、この前後の阿波は水害や日照りなど天災が続き、士民の不平不満は高まり、その怒りの矛先が重喜の改革に向かった。

そこに追い討ちをかけるように明和4年(1767年)幕府は木曽川と揖斐川の治水工事の公役を課してきた。この時期にと重喜は歯噛みしたことであろうが、幕命であり拒否はできず、なんとかやり繰りして乗り切った。
これなども幕閣に対する根回し資金の不足が遠因である。
さらに平島公方問題が再燃した。平島家では重喜を危険人物と見做し、格式の保全や増録を目指して広範囲な運動を展開した。
江戸城大奥の実力者であった老女松島や川越藩主松平家などの親族、親交のあった京都の公家衆などを引き入れての大掛かりな運動であり、これだけでも重喜を隠居させるに充分な勢力であったともいわれている。

明和6年(1769年)重喜は参勤により出府した。藩内の対立、不和は幕府に聞こえ、幕府は、
・代々の家法をなぜ乱したか
・国民が難儀に及んでいると聞くが、これは新法のせいではないか
・重喜は遊興におぼれ、国民が難儀しているというが本当か
と質問してきた。
重喜はこれに対して一切の弁明をしなかった。おそらくストライキであろう。内政について幕府に介入されるいわれはない。幕府に何者かが訴えたのだろうが、それを真に受けた幕府の問いに不信の念を抱いたのだろう。

徳島藩では親戚の高松松平家などに相談し、隠居願いを出すか押し込めするかとまでなったが、結局幕府により同年10月強制的に隠居させられ、家督を嫡子治昭に譲る。
明和7年(1770年)に深川の下屋敷に移り、安永2年(1773年)に帰国を許された。帰国すると完成していた大谷の別邸に入り、今度は著名な金蒔絵師観松斎桃葉を召抱えたり、陶芸や茶道に嵩ずるなど派手で豪奢な生活を始めた。
これがまた幕府に聞こえ、幕府は重喜を江戸に呼んで幽閉しようとしたが、治昭は老中に哀訴し、江戸幽閉は免れた。
治昭の諌めもあって、以後は質素な生活に戻り、享和元年(1801年)10月20日64歳で死去した。

おわりに

この時期、15万石の出羽米沢藩では上杉治憲(鷹山)の改革が始まる。治憲の襲封は明和4年(1767年)だから重喜の改革の末期で、恐らく治憲も参考にしたのではないか。
治憲も小藩から養子に入った人物で重喜と同じような立場にあり、藩内の反対派の反発も徳島藩と同様であった。しかし治憲は成功し、今でも江戸期を通しての名君中の名君と評価されているし、米沢でも尊敬されている。
対して重喜の評価は改革に失敗した藩主とされ、徳島でも評判はあまりよくないという。

治憲は抵抗にあうと説得した。重喜の失敗は説得せずに強い態度に出たり、拗ねたり、いやがらせの行動をしたりした。聡明すぎたのだろう。言ってわからなければ強行し、そのうち言うのも面倒くさくなった。わからない人間に言うのは無駄だと考えたのかもしれない。
幕府から詰問されたときに弁解しなかったのも、ストライキの一種だ。これでは人は付いてはこないし、反発するばかりである。
重喜の改革は見る限り積極的であり、まっとうなものが多い。反対するほうがどうかと思うものばかりである。打ち続く天災など不幸な面はあったにしろ、やり方さえ間違えなければ成功し、上杉治憲とともに名君と称えられたかもしれない。

本稿は列藩騒動録(海音寺潮五郎・講談社文庫)、新選御家騒動下巻・蜂須賀家騒動(新人物往来社)、歴史と旅平成8年3月10日臨時増刊号のうち阿波騒動、歴史読本2005年3月号御家騒動録のうち阿波騒動を参考に書いています。なお前半部分は「阿淡夢物語」「泡夢物語」によるところが大きい(海音寺氏の著書の記述)ようです。

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