歴史の勉強

元禄赤穂事件

一般的に忠臣蔵といえば江戸時代の中頃、泰平の時代とも呼ばれ一つの文化が花開いた元禄期に起きた、浅野内匠頭が吉良上野介に対して江戸城中で刃傷に及び切腹となった事件と、その翌年に起きた浅野家遺臣による吉良邸討ち入りの一連の出来事をさす。
忠臣蔵は日本人好みの事件で、数多く芝居、映画、テレビドラマなどで取り上げられているが、脚色も多いとされている。

だいたいにおいて物語の前半は、播磨赤穂藩主浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央にいじめられ、それに耐えかねて江戸城松之大廊下で吉良上野介に刃傷に及ぶが討ち洩らして即日切腹、赤穂藩は取り潰し。
一方の吉良上野介負傷するが何ら咎めなし。ここまでが前半でクライマックスは浅野内匠頭の切腹シーン
一方この事件を聞いた赤穂藩では大騒ぎとなるが、結局は大事に至らず城は接収されて、赤穂藩士は浪人。しかし筆頭家老大石内蔵助良雄のもとに浪人した藩士が集まり、主君の仇として吉良上野介を討つことを誓い、元禄15年(1703年)12月14日吉良邸への討ち入りを果たして、見事吉良の首を挙げるというのが後半で、雪が積もる吉良邸での討ち入りシーンが最高の場面となる。

赤穂藩浅野家
播磨赤穂の浅野家は、広島藩浅野家の一族ではあるが、本藩から分知された家ではない。大名としての浅野家初代長政が隠居した際に、徳川家康は宗家とは別に長政に隠居領を与えた。
当時宗家は紀伊和歌山37万石であり、のちに広島に移る。長政の隠居領はそれとはまったく関係なく常陸真壁に5万石が与えられた。この隠居領は長政の死後、その三男長重が継ぎ、常陸笠間、播磨赤穂と転封されて継がれた。
その系統の四代目が内匠頭長矩である。

浅野長矩と吉良義央
事件当時の赤穂藩は、この頃の小藩のほとんどがそうであったように財政が逼迫していて、その建て直しが急務であった。にもかかわらず、幕府は江戸市中の火消しや門番、各種普請の手伝い、朝鮮通信使や勅使の饗応役などの公役を各藩に課した。
江戸城や将軍家関係の諸寺社、河川工事などの土木系の公役は比較的大きな藩に、火消しや門番、饗応役などは中小藩に課されることが多かった。

長矩が藩主になったのは寛文11年(1671年)であるが、その後天和元年(1681年)に神田橋御門の門番、天和2年(1682年)3月には朝鮮からの使節である朝鮮通信使饗応役を努めている。
さらに元禄2年(1690年)には本所の火消し大名に任じられ、その後もしばしば火消し大名となり、元禄11年(1698年)に再び神田橋門番、元禄13年(1700年)には桜田門番となっている。
この間、注目すべきことには、天和3年(1683年)2月に勅使饗応役を努めていることである。勅使とは天皇のお使いで、この年3月に花山院定誠、千種有能が勅使として江戸に下向した際に、初めての勅使饗応役としてその接待にあたった。
勅使の饗応はそれなりにノウハウがいるので指南役がつく。つまり先生である。指南役を務めるのは高家と呼ばれる家格のものから選ばれ、この時の指南役は後の事件のときと同じ吉良上野介義央であった。

高家は朝廷との連絡や儀典を担当することなどが主な役割であるために、教養がありかつ名門であることが条件であった。但し大名ではなく旗本であるので領地はせいぜい数千石どまり、吉良家も4千2百石であった。
吉良家は足利将軍家と極めて近い家柄だから、たいへんな名門であり、氏素性の関してだけいえば江戸期の大半の大名はいうに及ばず、将軍家ですら問題にならなかった。
そのような家の当主である義央は、悪役のイメージが強く浪費癖があったのも事実であったようだが、有能であり、吉良の領地三河幡豆郡では今も名君として評価が高い。
天和3年の勅使饗応役が最初の二人の出会いであったが、この時長矩は何の問題もなく、無事に努めを果たしている。

刃傷松之大廊下
元禄14年(1701年)2月浅野長矩は二度目となる勅使饗応役となる。3月に東山天皇の勅使柳原資廉と高野保春、霊元上皇の院使清閑寺煕定の江戸下向が決まり、勅使饗応役に長矩、院使饗応役には伊予吉田藩主伊達左京亮が任じられた。指南役は吉良上野介である。
このとき吉良は別の役目で上京中であり、2月末まで江戸にいなかった。そのために長矩は一人で勅使を迎える準備をするはめになった。この空白がのちの事件に影響したと見る説もある。

勅使、院使の一行は2月17日に京都を発ち、3月11日に江戸に到着し伝奏屋敷に入った。長矩も勅使、院使に紹介され饗応の任務が始まった。
翌12日勅使、院使は江戸城に入り将軍綱吉に勅宣、院宣を伝奏、さらに13日には将軍主催の猿楽が演じられて勅使、院使が鑑賞している。ここまでは何事もなく無事に進行した。
14日、予定では勅使、院使が江戸城に入ると将軍綱吉が先に伝奏された勅宣、院宣に対しての奉答を行なうことになっていた。

その儀式の直前午前10時ごろというが、江戸城本丸松之大廊下で吉良上野介が旗本梶川与惣兵衛と立ったままで打ち合わせをしているところへ、突然長矩が「この間の遺恨覚えたるか」と叫び、吉良上野介に脇差で切りつけた。
吉良は不意を討たれて額と背中を斬られるが梶川が長矩を押さえ、近くに居た高家の品川伊氏、畠山義寧らが吉良を運び去ったために刃傷は失敗に終わった。
長矩は身柄を拘束され目付多門伝八郎重共らの取調べを受けた。事件はすぐに綱吉にも報告された。綱吉は激怒したが、尊王心が厚い綱吉らしく儀式の場所を変更し、ほぼ予定通り式次第を進行させた。
午後1時ごろ長矩は奏者番田村右京大夫(陸奥一関藩主)邸へお預けとなった。

綱吉は大事な儀式を台無しにしたことで怒りが収まらなかった。綱吉は徳川十五代将軍の中で一、二を争うほどの秀才であり、尊王心も厚いが、反面癇癖症であった。
綱吉は長矩の即日切腹、赤穂藩の取り潰しを即決した。これは異例のことである。殿中で刃傷に及んだとはいえ、仮にも5万石の大名である。目付多門伝八郎も取り調べの必要を訴えたが、綱吉は聞く耳を持たなかった。
長矩を預けられた田村右京大夫もまさか即日切腹になるとは思ってもいず、幽閉の準備をしている最中に上使が到着、長矩の切腹と改易を宣告する。
午後5時ごろ田村邸において大目付庄田安利、目付多門伝八郎、同大久保権左衛門らの立会いで切腹して果てた。

刃傷の原因
刃傷に至った原因についてはいろいろといわれている。
まず浅野家が吉良家に対しての贈答をケチったことから、吉良が長矩に意地悪をして饗応のノウハウを教えずに辱めたという説。しかし、贈答はこの時代の当然の風習であり、浅野家が格段に落ちる贈答しか行なわなかったというのも考えにくい。もっとも吉良は強欲であったのも事実であり、そういう意味では少なかったといえるのかもしれない。
また、饗応のノウハウは天和3年に一度饗応役を努めている長矩が全く知らぬはずはなく、覚えていないにしても屋敷にはそのときの記録が残っているはずであり、調べれば済むことも多くノウハウを教えなかったからというのもおかしい。

次に赤穂で行なわれている塩の製法を吉良が知りたがったのに教えなかったことから対立したというもの。赤穂は上質の塩の産地であったが、吉良も自領の三河で塩田をもっており、赤穂の塩の質の良さに驚いた吉良が塩の製法を教えて欲しいと迫ったというのだ。
しかし、三河で塩田が盛んになるのはもっとのちのことで、このころは塩田はまだなかったといわれている。
さらに吉良が長矩の正室阿久里に横恋慕したとか吉良が浅野家秘蔵の茶器を望んだとかいう説もあるが、いずれにしろ長矩の取調べは行なわれず真相はわからない。

長矩という人は生来短気な性格であったといわれ、感情が激すると胸が苦しくなる「痞(つかえ)」という病気を持っていたとされる。おそらく精神的な病気であり、ストレスがたまりやすい人間であったのであろう。
忠臣蔵では悲劇の藩主とされる長矩だが実際は暴君でもあったらしく、領民には重税を掛け、年貢も厳しく取り立てたために、長矩切腹の報が伝わると領民は喜び赤飯を炊いて祝ったとされる。

もっとも財政難の赤穂藩であったのである程度の苛政は致し方がなかったかもしれないが、ここまで嫌われていたということだと忠臣蔵のイメージとはかなりかけ離れる。
さらに刃傷の際の長矩の手際の悪さもひどいものらしい。脇差とは本来突くためのもので、体ごとぶつかっていくべきだった。それを刀のように振り回したのだから討てるはずがない。
しかも吉良は負傷ですんで、手当てを受けた後自力で退出している。討ち果たしたのならともかく、討ちもらしているのだ。このへんも芝居などでの長矩のイメージを修正すべきだろう。
一方の吉良は前に書いたとおり領地では名君であったらしく、今でも三河では崇められ、悪役イメージとはちがっていることにも注目したい。

その後
ともあれこの刃傷事件によって赤穂藩は取り潰された。赤穂では最初状況がわからず、その後取り潰しの報が伝わると藩内は騒然となった。
やがて続々と様子が伝わってくるに従って抗戦派と開城派に分かれた。広島の浅野宗家からは使者が来て穏便に城を開け渡すように言ってきたし、親戚筋の三次藩浅野家や大垣藩戸田家からも同様の使者が来た。
そして最後は筆頭家老大石内蔵助良雄の決断により開城となる。大石はこの時、お家再興を目指し、仇吉良上野介を討つとの方向で抗戦強硬派を説得し、無血開城にこぎつけた。

そして1年半後、元禄15年(1702年)12月14日大石内蔵助と赤穂浪士の一行は江戸本所松坂町の吉良邸に討ち入り、見事吉良上野介の首級を挙げて仇をとった。
この仇討ちは義挙とされ、幕府も赤穂浪士の助命に動く。将軍綱吉ですら助命に傾いたという。しかし助命すれば先の切腹が間違いであるということになって、綱吉に傷がつくことや赤穂浪士の今後のことを考えて切腹を命じた。
一方、刃傷のときは場所柄をわきまえて手向かいせずお咎めなしであった吉良側は改易となり、当主吉良義周は諏訪に流された。

なお、討ち入り参加の赤穂47士以外にも赤穂藩士は大勢いた。取り潰される前の赤穂藩には約3百名の家臣がいたとされるから、大半は討ち入りに参加しなかった。
この不参加組はかなり悲惨であったという。武士の風上にも置けぬものとして幕末までその子孫は批判にさらされ、ほとんどのものが変名で暮らしたという。
また、広島の浅野宗家は当初係わり合いを恐れて赤穂の無血開城を進めたりしたが、討ち入り後は掌を返したように宣伝に努め、内蔵助の遺児大三郎良武を1千5百石で召抱えている。

また、この事件で浅野長矩の弟大学長広は閉門処分となったし、長矩の正室阿久里の実家三次藩浅野家も蟄居となった。
それから吉良上野介の子綱憲が養子に行った米沢藩上杉家であるが、綱憲は吉良邸討ち入りの報に接すると直ちに助太刀を考えたらしい。大石内蔵助も上杉の助太刀を警戒していた。
しかし実際には上杉の親戚筋の高家畠山義寧がこれを止めに入り、上杉の助太刀はかなわなかった。

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