歴史の勉強

青山伯耆守忠俊

青山忠俊は、天正6年(1578年)に遠江浜松で生まれ、幼少時より秀忠に近侍し、慶長8年(1603年)常陸江戸崎に5千石を賜り、慶長12年(1607年)から家光の傳役となった。
慶長15年(1610年)書院番頭、翌16年に下野鹿沼に5千石加増され大名に列した。慶長18年(1613年)父忠成が死去し、その遺領2万8千石を継いだ。その際に弟幸成と通直に1千5百石づつを分知し、差し引き3万5千石となる。
大坂の陣では冬の陣、夏の陣ともに出陣して功あり、その後酒井忠世、土井利勝とともに家光の撫育にあたった。

家光は厳正な酒井忠世、明敏な土井利勝、剛勇な青山忠俊から教育を受けて将軍としての資質を身につけたといわれる。
この3人の人選をしたのは家康であったといわれ、忠世には慈悲深く思いやりのある行動をとるように教育せよと命じ、利勝には判断力を身に付けさせるようにせよと命じた。そして忠俊には何事にも屈せずに勇気ある人物に育てよ命じた。
もともと家光の幼少の頃からの傳役であった忠俊にとっては、この人選はさらなる名誉であった。責任感が強い忠俊は家康に頼まれたとおり、家光を勇猛果敢な将軍にするためだけに生きようと決心した。

戦国時代を生きた忠俊は、剛直な性格であった。
剛直な人物は時として煙たがられ、またそのために損をする。だが当人は至って大真面目であり、絶対に節を曲げないから、周囲からは頑固で頑なな人物とされ、さらに煙たがられる。
忠俊もそんな人物であった。家光が少しでも道に外れたことをしたり言ったりすると、すぐに諫言をした。諫言を受け入れないと諸肌脱いで「それがしの申すことお聞き入れなくば、すぐさまこの首を刎ねられよ」と迫るから家光も渋々ながら従わざるを得ない。
忠俊も筋金入りであるから手加減などせず、いつもこの調子でやるから家光もいい加減いやになったであろう。

こういう場面では利勝や忠世がなだめ役になった。この辺は阿吽の呼吸であり、3人の連携は上手くいき家光は次第に次代の将軍らしさを身につけていった。
元和2年((1616年)家康が死去し、名実ともに秀忠の時代になる。すでに老中になっていた忠世や利勝は政務が忙しくなり教育係に専念できなくなってくる。
この年忠俊も老中に就任、そのために新たに酒井忠利、酒井忠勝、内藤清次らが家光の教育係になった。ただ責任感の強い忠俊は、老中就任後も家光の養育についてはいろいろと意見を言っていたようである。

元和9年(1623年)7月秀忠は将軍職を家光に譲り隠居し、大御所となった。翌8月の家光の上洛には忠俊も嫡男宗俊とともに供奉。家光の晴れ姿を見て忠俊は泪するほど嬉しかったであろう。
しかし、その2ヵ月後の10月19日、忠俊は老中を罷免され改易されてしまう。所領の武蔵岩槻4万5千石は収公(元和6年に1万石加増のうえ武蔵岩槻城主になっていた)され、上総大多喜2万石に減転封される。
この2万石は秀忠の配慮であったというが、やがてその2万石を忠俊は返上し、下総細戸に蟄居たのち寛永元年(1624年)相模高座郡に、翌2年には遠江国小林村に移される。さらに弟幸成の領地である相模国今泉村に移るように命ぜられて、寛永20年4月15日66歳でにその地で没した。

老中罷免、改易の理由については家光の勘気をこうむったとされる。一説には忠俊が公の席で家光に諫言し、これが勘気をこうむった直接の原因とされるが、忠俊ならいかにもやりそうなことではある。もし本当なら家光とすれば面目丸つぶれであり、忠俊が勘気をこうむるのは当然である。
しかし、逆に忠俊ならやりそうなことであるだけにフィクションくさいとも言える。あるいは、諫言ではなくごく軽い苦言くらいのことを、さも大げさに言ったのかもしれない。
いずれにしても、忠俊改易の真相を糊塗する方便であり、その裏にはさまざまな事情があったことは確実である。

一つには秀忠と家光の確執である。家光は将軍となったものの、秀忠は大御所として後にいた。秀忠を中心に旧世代のグループがおり、一方家光を中心とする新世代のグループがある。
旧世代は戦国の遺風を持つ人物で、土井利勝や井上正就らで、忠俊も当然ここに属する。一方の新世代は将軍側近の若手官僚グループで松平信綱、阿部忠秋、酒井忠勝、稲葉正勝らである。
旧世代グループからすれば将軍側近の若手は頼りない面々であるが、若手からすれば旧世代グループは煙たい存在であった。

土井利勝あたりは、そのあたりは起用に動いたが、剛直な忠俊はことあるごとに意見をいい、口を出した。特に家光は歌舞伎に熱を上げたり、男色趣味に走ったりと極端な遊びを好んだ。
忠俊にすれば、将軍ともあろう人間がそんなことにうつつを抜かすのも側近が悪いからだということになり、叱責する。叱責された方は面白くないし、頑固爺の繰言としか思わなくなる。
さらに春日局の存在があった。春日局は家光の将軍就任までは利勝や忠俊を頼りにしていたが、家光が将軍になると若手官僚グループを支援するようになった。
若手グループの稲葉正勝は春日局の実子で、老中の一員でもあった。春日局は今や政治を操るほどになったのである。

利勝や忠世は時代の流れを的確に読み、徳川長期安定政権を目指すための将軍権力強化こそが第一であると考えていた。そのためにも将軍の力で諸大名を押さえ込むことが肝心であり、その点は春日局も同じ意見であった。
そのためには将軍の権威は絶対であり、時には非情にもならなければならない。正義や友情では権威は保てない時代になっている。もはや武の時代ではないのである。
そこが忠俊にはわからなかった。おそらく理解できなかったのだろう。そのために忠俊は犠牲になった。剛直に過ぎ非情にもなれない不器用な人間であった忠俊は、政治の流れに飲み込まれたと言える。

忠俊の嫡男宗俊は、忠俊が蟄居するとこれに従い、その後も父とともに命ぜられるまま遠江小林村、相模国今泉村に移った。
宗俊は父のことを敬愛し、尊敬していたようだ。また忠俊の弟の幸成(摂津尼崎5万石)の兄忠俊を敬愛していたようだ。ちなみに相模国今泉村は幸成の領地であった。
宗俊は寛永9年(1632年)に赦免されて、寛永15年(1638年)書院番頭となり武蔵・相模国内で3千石を賜る。慶安元年(1648年)に信濃2万7千石を加増されたほか、1万5千石を預けられて小諸城主となり、ここに青山家は大名に復した。
同時にこの年家光は宗俊に将軍家世子家綱の教育係を命じている。その時家光は宗俊に、「お前の父のしたように教育してくれ」と言ったという。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、日本史辞典(角川書店)、歴史読本スペシャル29「お家取り潰し」

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