歴史の勉強

下総国  結城城

    

内堀跡

聰敏神社

搦手口

関東の名族結城氏は、藤原秀郷(俵藤太)を祖とする小山氏の庶流で、養和元年(1181年)小山政光の四男朝光が、志田義広の乱鎮圧の功により、下総国結城郡の地頭に任じられ、結城氏を称したことに始まる。
朝光の母は頼朝の乳母であり、前年の元服の際も頼朝が烏帽子親になり、自身の一字を与えて朝光と名乗らせるなど信任が厚く、「結城系図」によれば頼朝落胤であるという。
身籠った女を小山政光に与えというものであるが、そうだとすると頼朝は自分の母親ほどの乳母を妊娠させたことになり、信用できる話ではない。

それはともかく、この朝光は秀でた武将であり、多くの戦功を挙げて結城氏の地盤を固めた。
しかしその後の結城氏は勢威は振るわず、当主の相次ぐ早世もあって勢力は衰退し、変わって庶家である白河結城氏の勢力が伸長した。
南北朝期にはいると白河結城氏は南朝方に付いたが、衰退していた宗家は小山氏とともに一貫して北朝方であり、これにより結城氏の威勢は大きくなり、関東八家に数えられるほどになった。
足利幕府は武士の地の関東に、その鎌倉府を置いて関東地方を管轄させた。その長は一般には鎌倉公方と呼ばれたが、永享10年(1438年)に鎌倉公方足利持氏と、その執事である関東管領上杉憲実の対立から、乱が発生した。
持氏を嫌う足利六代将軍義教が介入して上杉憲実を支援し、持氏は翌永享11年に敗れて自刃した。

このとき持氏の二男春王丸、三男安王丸、四男永寿王丸は鎌倉を脱出し、結城氏に匿われた。
永享12年(1440年)に上杉憲実に率いられた幕府軍は結城城を包囲し、結城氏の十一代当主氏朝とその子の持朝は1万の兵力で結城城に籠城した。
氏朝ら籠城軍は善戦したが、翌嘉吉元年4月に城は陥ち、遺児たちは捕えられた。これが結城合戦である。
遺児たちは京に護送される途中、春王と安王は義教の命により美濃垂井で斬られた。
永寿王は、義教が嘉吉の乱で暗殺されてしまったこともあり、結局助命された。この永寿王丸が鎌倉公方足利成氏となった。

一方結城氏は結城合戦の結果氏朝、氏持が自刃したが氏朝の末子七郎が城を落ち、佐竹氏に匿われていた。
成氏が鎌倉公方として復活すると、七郎は功によって十三代結城当主成朝となり、結城家は再興された。
足利成氏はやがて関東管領上杉憲忠と対立し、結城成朝らが憲忠を襲撃して殺し、ここに享徳の乱が起きた。
成氏はやがて鎌倉を追われ、下総古河に移って古河公方といわれることになる。
結城氏は終始古河公方を支持し、十五代政朝は中興の祖で周囲の豪族を屈服させ、結城氏の版図を拡大させた。さらに跡を継いだ政勝は小山氏と同盟して勢力を広げ、最盛期を迎えた。

しかし支持していた古河公方は衰退し続け、さらに新興勢力である小田原の後北条氏や、関東管領職を譲られた越後の上杉謙信の侵攻が激しくなり、勢力を維持するどころか家を保つのが精一杯の状態となる。
やがて豊臣秀吉の小田原征伐があり、結城氏は小田原に参陣してその配下となり家を保った。
このときに不参であった小山氏は改易され、その所領は結城氏に与えられた。
当主であった晴朝には子がなかったので、関東に入った徳川家康の二男秀康を養子に迎え入れた。

この秀康が関ヶ原後に越前福井に転封され、松平を名乗り、徳川時代の名門越前松平家の祖となるのは周知の通りである。
このとき晴朝は健在であり、結城家の家督は秀康五男の直基が継いだが、慶長19年(1614年)に晴朝が死去すると、直基も松平に改姓し、関東の名族結城氏は名実ともに消滅した。
秀康転封後の結城城は一旦廃城となるが、元禄13年(1700年)に水野勝長が1万8千石で入り、明治まで十代にわたってその居城となった。公園内には勝長を祀る聰敏神社がある。

現在の結城城は、市街地の外れにその一部が城址公園として姿をとどめているに過ぎない。とてもかつての攻防の地とは思えない小規模な公園で、遺構もほとんどない。
現在は開発されてしまって面影もないが、想像するにかつては湿地帯の中の小丘であったのだろう。そうでもなければ1万の軍勢が長期に籠城できるはずがない。
公園化されているのは城の北東部の一部にあたるというが、遺構として残るのは堀跡ぐらいである。
公園としても魅力に乏しいもので、関東の名族の城の末路としてはふさわしいのかもしれないが、さびしい限りである。
(平成23年7月訪問 #106)

参考文献:歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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