歴史の勉強

三河国  吉田城

    

本丸南側空堀

水の手門跡と鉄櫓

辰巳櫓跡

愛知県の豊橋は江戸時代まで吉田と呼ばれていた。明治に入り伊予の吉田と区別するために明治政府より改称を命じられ、豊川に架かる橋の名から豊橋と改名した。
この地は南下してきた豊川が、朝倉川と合流し、その合流点でほぼ直角に西に向きを変える地点で、また東海道が通じるほか、三河湾や渥美半島を抑える要地でもある。
永正2年(1505年)に豊川と朝倉川の合流点、今の城址公園である豊橋公園の地に牧野古白が今橋城の名で城を築いたのが、吉田城の前身である。当時は今川氏の勢力圏で、今川氏の三河攻略の前進基地の役割であったと考えられる。
今橋を吉田と改めたのは今川義元で、義元は城代を置き東三河攻略の拠点としたが、永禄3年(1560年)に桶狭間で織田信長に討たれ、今川氏は急速に衰えていく。

三河の地は今川の属将となっていた松平元康(徳川家康)が、今川と決別して独立し、以後三河統一を開始した。永禄8年(1565年)に家康は、吉田にあった今川氏の城代小原鎮実を追い三河一国は徳川領となった。
家康は重臣の酒井忠次を吉田に入れ、これ以後は吉田は家康の遠州攻略の前進基地となる。天正18年(1590年)に家康が関東に移封されると、この地には池田輝政が15万2千石入った。豊臣秀吉による対徳川戦略の一環で、秀吉は子飼いの大名を東海道筋にズラリと配置したのだった。
輝政は直ちに城の拡張をはじめ、堀も二重三重にした。しかし慶長5年(1600年)の関ヶ原役により輝政は播磨姫路に加増転封され、以後東海道筋には徳川譜代の大名が配置されることになる。
すなわち松平(竹谷)氏二代、松平(深溝)氏二代、水野忠清、水野忠善、小笠原氏四代、久世氏、牧野氏二代、松平(大河内)氏、松平(本庄)氏と150年余りの間にめまぐるしく城主は交代し、寛延2年(1749年)に松平(大河内)信復が入封して定着、六代にわたって在城して明治に至った。

城地の北側には豊川、朝倉川が東西に流れて天然の堀を成し、北西に三重の川手櫓、北東には二重の入道櫓があり、その間の川筋には水の手門を開けた川手脇多聞櫓があって、川からの攻撃に備えていた。
その直上が本丸で、本丸北側には高石垣が築かれ、現在は三重の鉄櫓が復興されているが、この櫓は天守代用で御三階と呼ばれ、今とは位置が違っていた。ちなみに江戸時代の石高はいずれの藩主も10万石に達せず、天守など建てられなかった。
本丸の南側には、土塁の上に石垣を築いた鉢巻石垣が見られ、西側に三重の千貫櫓、東側に同じく三重の辰巳櫓があがっていた。現在も本丸南側には、空堀や石垣が残る。

吉田城の石垣には多くの刻印や符牒が刻まれ、その種類は50以上確認されているという。天下普請でもない吉田城に、これだけの刻印や符牒が残るのは不自然であり、名古屋城築城の際に余った石垣を用いたようだ。
本丸の南側には二の丸が広がり、コの字状に本丸を囲んでいる。二の丸から本丸への虎口には櫓門である休足門あり、千貫櫓、辰巳櫓とともに本丸を守っていた。
二の丸には雷櫓、着到櫓、評定櫓の三基の櫓が配された。二の丸の外側を大きく包み込むように三の丸があり、その南側が大手門である三の丸御門で、現在の豊橋公園正門である。
(平成26年12月訪問 #132)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、城郭みどころ事典・東国編(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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