歴史の勉強

伯耆国  米子城

見上げるばかりの大天守台の石垣

    
伯耆国は、江戸初期に中村一忠が17万5千石で米子城主となったものの若くして没し、その後加藤貞泰が6万石で入るも大坂の陣の功により伊予大洲に移り、元和3年(1617年)池田光政が因幡・伯耆両国合せて32万石を得て鳥取に入った。
このとき米子城には一族の池田由政が入っている。その後光政は同族の岡山城主池田光仲と入れ替わりになり、光政が岡山へ、鳥取へは光仲が入る。光仲幼少の故山陽道の要地岡山は任せがたし、との理由であった。
光仲系統の池田家は池田氏の宗家で、光政系統より5千石多い32万5千石の鳥取藩主、また米子には重臣の荒尾内匠助成利を入れ、以後幕末まで米子城は荒尾氏の支配下となった。

その米子城は経緯からいえば当然天守など許されるはずはなかったが、例外的に大小2つの天守が存続を許されている。大天守は望楼型四重五階といい高さ約21m、小天守も同じく望楼型で三重四階、高さ17.7mであったとされる。
2つの天守とも望楼部(上層階)が袴腰状の板壁という仮設のような景観であり、特異な形を示していたらしい。この2つの天守は幕末まで現存し、明治維新後に37円で地元古物商に売却され、明治13年(1880年)に解体されて、風呂屋の薪になってしまう。残念なことであった。


本丸への枡形、鉄門と呼ばれる櫓門があったという

水手門、本丸の裏門にあたる

二の丸枡形、ここから本丸への登山道が続く

二の丸に移築現存する小原家長屋門


米子城は中海に面した湊山に築かれた浮城であった。室町中期、応仁の乱のころに山陰に覇を唱えた山名氏の一族で伯耆守護であった山名教之が築いたのが、城のはじまりとされる。
教之が築いた城は、近世米子城の山麓にあった三の丸付近、飯山と呼ばれるあたりにあった。その後、隣国出雲の尼子氏の勢力が増し、斜陽の山名氏を駆逐して、米子城も尼子氏の支配するところとなるが、その尼子氏も安芸から興った毛利元就に滅ぼされる。
毛利氏は山陰山陽10カ国を領有する、全国屈指の戦国大名となり、元就の孫(元就二男吉川元春の子)広家には尼子氏の本拠であった月山富田城が与えられた。

広家は富田城を改修するとともに、天正19年(1591年)に新たに米子の湊山に築城をはじめた。これは富田城が狭隘であることもあったが、米子が広家の領地のほぼ中央にあることや水上交通の要地としてすでに町場が形成されていたこと、さらには隠岐への便がよいことなどの積極的な理由があった。
このときの城の縄張は、ほぼ近世米子城に受け継がれている。すなわち湊山山頂に天守曲輪群、山麓に政庁や居館、東側の飯山には采女丸を置き、南側に喰い込んだ深浦から中海まで堀を通じた。この深浦には荒尾氏時代には御船頭屋敷や船小屋などからなる御船手曲輪が設けられている。

しかし広家の米子築城工事は、朝鮮への出兵などでなかなかはかどらなかった。この広家の造ったのが小天守であったといわれる。
広家は衆知の通り、関ヶ原役では家康の内通して不戦、戦後の毛利家の安泰を図ったとされるが、家康は西軍総大将であった毛利輝元を長門・周防両国に押し込め、広家もまた周防岩国に去った。
代って駿河から入ったのが中村一忠である。一忠は築城を再開し、大天守や二の丸御殿を造営、完成を見るが若くして急逝し、嗣子がなかったために御家断絶となった。
したがって、米子城の多くは吉川広家と中村一忠が築き上げたものである。

近世米子城は本丸に大小天守のほか二重櫓が三棟、多門櫓が五棟、内膳丸(中村一忠の重臣横田内膳正村詮に由来する)に二重櫓一棟、多門櫓一棟、二の丸に二重櫓一棟、多門櫓一棟、御殿、三の丸に二重櫓一棟と本丸を極端に重視していた。
防御施設としては中途半端な形であるが、想像するに吉川氏、中村氏ともに在城期間が短く、充分に城が整形されないうちに池田氏の陪臣時代を迎え、城の整備自体がしにくくなってしまったのではなかろうか。

現在、城址は公園化され、公園東側の二の丸跡に移築された荒尾氏の家臣小原氏の屋敷の長屋門がある。二の丸から本丸へ向けて登山道を登るが、二の丸跡付近には駐車場がないために、城の西側の湊山公園の駐車場から、内膳丸を経て本丸に至る登山道を利用する方がよい。
二の丸からの登山道と駐車場からの登山道は途中で合し、その少し先から本丸の石垣群が見えてくる。見上げる大天守の石垣群、鉄門から本丸への虎口に至る石垣、さらに本丸内の門や裏手にあたる水手門一帯の石垣など壮大で、おそらく城下から見上げる大小2つの天守は圧巻であったろう。
(平成22年8月訪問 #52)

参考文献:城郭みどころ事典・西国編(東京堂出版)、よみがえる日本の城(学研)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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