歴史の勉強

遠江国  横須賀城

    

本丸南側の櫓門跡から本丸を見る

北の丸から中央奥に本丸を望む

本丸の南に残る三日月堀

撰要寺に移築され現存する不明門

静岡県掛川市南部ある横須賀城は、旧小笠郡大須賀町の市街地の外れに位置している。大須賀の地名は横須賀城を築いた大須賀康高に由来する。
大須賀康高は大須賀正綱の子として大永7年(1527年)に三河で生まれ、家康に仕えた。娘婿の徳川四天王のひとり榊原康政とともに活躍し、天正6年(1578年)にこの地に築城を命じられた。
築城目的は高天神城攻略の為であった。「高天神城を制する者は、遠州を制す」といわれた高天神城は、この地域としては最大級の要害であった。

古くは今川氏の城であった高天神城は、今川氏滅亡後は家康が領していた。しかし武田軍が遠江を蚕食しはじめると、攻防の城となった。しかし要害であった高天神は信玄の攻撃でも容易に落ちなかった。
しかし天正2年(1574年)、信玄亡き跡を襲った武田勝頼によって高天神城は攻略され、武田の遠州攻略の拠点となる。勝頼が設楽が原で織田・徳川連合軍に敗れて再起不能となるのは、天正4年のことである。
これにより高天神城は、遠州にぽつりと残った武田の城となった。家康にすれば目障りで仕方なく、一刻も早く落したかったに違いない。そこで高天神城攻略拠点として、横須賀に城を築いたのだ。
このほかに小笠、納ヶ坂、師々ヶ鼻など6ヶ所とも8ヶ所ともいわれる砦を築き、ようやく高天神城が落ちたのは、天正9年(1581年)のことであった。

高天神城は廃城となり、横須賀城は大須賀康高の居城となった。その後、家康の関東移封に伴い豊臣譜代の渡瀬繁詮が入り、次いで有馬豊氏が治めた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原役で家康が勝利し、有馬氏は福知山に移封され、代って大須賀忠政が6万石で入封した。忠政は榊原康政の子で、大須賀康高の養子であった。
しかし忠政の子の忠次は榊原家に男子がなかったために榊原家を継ぎ、大須賀の家は絶家となってしまう。その後、横須賀には松平(能見)氏二代、井上氏二代と続き、三河岡崎から本多利長が5万石で入った。
しかし利長は悪政を敷いたために一揆が起き天和2年(1682年)に改易された。その後に信濃小諸より西尾氏が2万5千石で入り定着し、8代180年余り続き明治維新を迎えた。

この城は海岸近く低い丘陵の上にある。江戸時代は今よりずっと海岸に近かったようだ。東西に長い城で、西より二の丸、西の丸、本丸、三の丸と並び、本丸域が公園として整備されている。
大手門は東西にあったが現在は市街地化されている。東大手門の西側に位置する三日月堀が残っており、その西北側に城址が広がっている。
本丸南側虎口には櫓門があり、現在は石垣が復元整備されている。石垣は天竜川の丸い河原石で、おそらく石垣用の石の確保が難しかったために、河原石が使われたとされる。これが横須賀城の最大の特徴となっている。
絵図からは本丸には三重四階の天守があったと考えられている。また北の丸にある松尾山は築城時の本丸と考えられており、この北東には巨大な空堀が残る。
城址から北西方向に少し歩いたところに撰要寺があり、ここには移築された不明門があるほか、寺内には大須賀氏と本多氏の墓がある。
(平成26年9月訪問 #115)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

城郭訪問録の表紙に戻る
歴史の勉強
Last modified -