歴史の勉強

大和国  大和郡山城

平成23年3月の東日本大震災とその後の高速千円終了により、もともと四国を予定していた恒例の夏季旅行は関西に変更。
ここのところの夏季旅行は国県道走行とお城巡りを兼ねていて、平成23年は国道24号を走って和歌山に乗り込んで2泊したあと、県道を繋いで大和郡山に至った。
近鉄橿原線からも堀を挟んでよく見えるのが大和郡山のお城。車で行く場合は追手門脇に駐車場というか砂利敷きの駐車スペースがあって、そこに停める。

駐車場は追手向櫓(左)と追手門(右)のすぐ脇

車を降りると右手には追手門、左手には追手向櫓が建つ。大和郡山城は平城京南端の九条大路が、西二坊大路と西三坊大路と交わる中間あたりの南側、つまり京の少し外側に位置する。
室町期中ごろまでは土豪が砦や館を構えていたが、天正年間に筒井順昭がここに陣屋を置き、さらに順昭の子の順慶がそれを城に発展させた。
筒井氏は筒井城に住していたが、大和を平定した織田信長は順慶を郡山城に移住させ、筒井城を破却させたのだ。天正7年(1579年)から工事が開始され、天正11年(1583年)には天守も造らた。
信長の死後、その後継者となった豊臣秀吉は、天正13年(1585年)に筒井氏を伊賀上野に移し、その跡に自身の弟で最も信頼する側近の秀長を入れた。
秀長の所領は大和、紀伊を中心に100万石、郡山に本拠を置いて大和大納言と呼ばれる。しかし秀長は兄秀吉に先立って天正19年(1591年)に病没し、跡を秀保継いだがわずか2年で死去してしまう。

文禄4年(1595年)に五奉行のひとりであった増田長盛が20万石で入封し、長盛によって外堀や城下町が整備された。慶長5年(1600年)の関ヶ原役では長盛は西軍に与したために領地は没収、大和郡山城は廃城となった。
大阪の陣が終わり、徳川の覇権が名実ともに確立した元和元年(1615年)に譜代大名の水野勝成が6万石で入封、公儀の普請で荒れ果てた城を整備した。
勝成はまだ整備途中の元和5年(1620年)に備後福山に転封となり、その跡には松平(奥平)忠明が12万石で入った。追手門や追手向櫓は、この水野・松平時代に再建整備された。追手門は昭和58年(1983年)に追手向櫓は昭和61年(1986年)にそれぞれ再建された。
追手門を入り緩く短い坂を上ったところが法印曲輪跡で、この南東隅に追手東隅櫓が建つ。この櫓は多門櫓とともに昭和59年(1984年)に再建された。近鉄線から見えるのはこの東隅櫓と多門櫓である。

内堀を挟んで本丸域を見る。夏草が凄い。

法輪曲輪から案内に従って城跡を巡る。すぐに内堀越しに本丸を望むことができるが、とても街中とは思えないどこかの渓谷のような雰囲気だ。シーズンオフの夏だから草が凄く、石垣もよく見えないほどだ。
散策路はここから本丸域を北〜西に巡る。西側に出るとそのすぐ西は郡山高校のプールとグラウンドがある。ここが緑曲輪の跡で、そのさらに西には堀を挟んで麒麟曲輪があった。緑曲輪と麒麟曲輪の間の堀は今でも残っている。
やがて舗装された道路に出で左に曲る。この舗装道路の右が一帯が郡山高校で、かつてはここに二の丸御殿があった。そして左手に鳥居が見えてくると本丸への入口である。

本丸への竹林門跡。この先に柳沢神社、さらにその奥に天守台がある。

まっすぐ進むと竹林門跡があり、その先に柳沢神社がある。いわずと知れた柳沢吉保を祀る神社である。水野氏の跡を継いだ二代城主の松平忠明は、二の丸御殿を造営し以後二の丸が藩庁となった。
しかし忠明も在封期間は長くはなく、寛永16年(1639年)に播磨姫路に移り、交替転封でその跡には本多政勝が15万石で入封した。本多氏は政勝-政長-忠国と続いたが、家督を巡る御家騒動で忠国は陸奥福島に転封された。
その後松平(藤井)信之8万石時代を経て、本多忠平が12万石入った。この本多氏は先の本多氏とは同族で、徳川四天王のひとり本多忠勝の系統である。
先の政勝・政長・忠国が忠勝の長男忠政から続く嫡流で、忠平は忠政の三男忠義の系統である。この忠義系本多氏が5代続いたが、忠烈が享保8年(1723年)嗣子なくして没して改易、翌享保9年に入ったのが柳沢氏である。

柳沢氏はもともと徳川綱吉の家臣であり、本来であれば大名になどなれる家ではなかった。それが綱吉が将軍となり、側用人であった吉保が綱吉の引きもあって15万石の甲府城主となった。
ドラマの水戸黄門などでは善の水戸光圀に対して将軍側近として悪を企む悪玉として描かれているが、秀才ではあるが偏執狂で、しかも養子としての僻目がある綱吉に仕えて、政治的には安定した時代を運営したその手腕は並々ならぬものがった。
しかしそれも綱吉の後ろ盾があったためで、綱吉死去後は急速に力を失い、隠居して跡を吉里に譲った。こうなると徳川家の聖地のひとつである甲府に柳沢家を置くわけにはいかなくなってくる。
だいたい甲府は江戸が危機に陥ったときの将軍家の逃げ場所であった。その大事な地を柳沢吉保を与えたのだから、吉保がいかに綱吉から信頼されていたかがわかる。吉里は大和郡山に転封となったが、石高はそのまま15万石で、以後明治維新まで柳沢氏がこの地を治めた。

天守台。隅の下段の色違いの3つが羅城門の礎石といわれる。

さて神社の裏手には天守台が残る。この天守台は松平(奥平)時代のものと考えられている。大和郡山城の築城、整備の際にもっとも困難を極めたのは石材の確保といわれ、秀長入封の際の拡張では奈良の家ごとに五郎太石の供出が課されたほどだ。
したがってこの天守台にも寺社の礎石や石仏、石塔、墓石、地蔵などが転用されている。天守台北側にはさかさ地蔵と呼ばれる、さかさにされた転用地蔵が祀られている。
一方天守台への上り口脇には平城京羅城門の礎石が転用されたと伝えられる。色がはっきりと違いすぐにわかるが、羅城門の礎石かどうかはわかっていない。
天守台から再び神社脇に戻り、白沢門跡から橋を渡ると毘沙門曲輪で、この曲輪内には柳沢文庫がある。本丸と毘沙門曲輪は往時も極楽橋で結ばれていた。
昭和35年(1960年)に柳沢氏の末裔が設立した図書館が柳沢文庫で、その脇を進むと法印曲輪に戻る。時間があれば駐車場へのアクセス路を戻り、鉄門跡から近鉄の踏切を渡って左に折れ、東隅櫓と多門櫓を線路と堀越しに眺めながら散策するのも良い。
(平成23年8月訪問 #76)

参考文献:城郭みどころ事典・西国編(東京堂出版)、、よみがえる日本の城(学研)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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