歴史の勉強

出羽国  山形城

    
山形に城が築かれたのは南北朝期のころとされる。延文元年(正平11年、1356年)に奥州探題斯波家兼の二男兼頼が出羽探題として山形に入部したことに始まる。
斯波氏は足利氏四代泰氏の庶長子家氏が奥州斯波郡(現在の岩手県紫波郡)を本領としたことで、斯波氏を称したとされる足利一門でも名族であった。
南北朝期に越前守護には宗家の斯波高経が、若狭守護にはその弟の家兼が任じられていたが、文和3年(1354年)に家兼が長男直持、二男兼頼とともに奥州探題として多賀国府入りした。
これは足利尊氏による斯波氏の弱体化を狙った人事であった。奥州に入った家兼は1年半で没し、その跡を長男直持が継いで大崎氏となり、二男の兼頼は出羽山形に入って最上氏を名乗った。

最上氏は山形盆地を中心に村山郡・最上郡に勢力を伸ばし、各地に同族を配置して大名化していくが、十二代義光が積極的に領土を拡大、拡張して戦国大名として覇を競った。
義光は特に隣国米沢の伊達氏と争ったが、のちに豊臣秀吉に接近して豊臣大名となった。山形城が大々的に改修整備され、近世城郭となるのは、この頃であったとされる。
さらに義光は秀吉在世中から徳川家康へも接近し、関ヶ原役では東軍に属して南隣の西軍上杉氏を牽制し、その功によって庄内三郡と出羽由利郡33万石を加増された。
その結果、置賜郡を除く現在の山形県全域と秋田県の一部が封地となり、合わせて57万石の大大名となった。義光はまず城下町山形の整備に取り掛かった。

しかし義光は家康一辺倒の態度を取ったために家督相続に禍根を残す。家康に近侍させていた二男家親に家督を継がすべく、長子義康を廃嫡暗殺した。
慶長19年(1614年)正月に義光は69歳で死去し、家督は家親が継いだが、最上家内はしっくり行かなかった。元和3年(1617年)に家親は36歳で急逝し、これ以後家臣間に内紛が続き、ついには元和8年(1622年)に改易となった。
旧最上領は分割され、山形には鳥居忠政が24万石で入部した。ほかの旧最上領は庄内は酒井氏、新庄は戸沢氏、上山は松平(能見)氏にそれぞれ与えられた。
いずれも鳥居氏とは縁故関係があり、鳥居一党として奥羽の押さえの役目が与えられていたらしい。しかし、その鳥居氏も次の忠恒が無嗣で死去し、領地は一旦収公される。先祖の功により改めて弟忠春に3万石が与えられて、鳥居氏は信濃高遠に転封となった。

変わって高遠から三代将軍家光の弟保科正之が20万石で入り、7年の在封で会津へ転封となった。奥羽の押さえとしての大藩の時代はここまでで、以後松平越前家、松平奥平家、堀田家、秋元家、水野家など譜代大名が入れ替わり立ち代り入り、失脚した老中などが関東から移る左遷地の感があった。
その交代も頻繁で最も長く在封した秋元家でも78年、最も短かった堀田正仲はわずか1年しかいなかった。石高も徐々に減って最後の藩主水野家のころにはわずか5万石であった。
この間に広大な城域は荒れ果てていった。城内の二の丸、三の丸などの武家屋敷は全て壊わされて、薪として売り払われ、さらにその跡地は農地にされて、かつての奥羽の重要地も城下の真ん中に畑ができるまでに落ちぶれた。
秋元氏初代の涼朝などは、山形転封の際に広大な曲輪を縮小し、荒廃した城内を整理するように命じられたというが、あまりにも荒れ果てた様子を聞き山形には一度も入らずに隠居したという。


山形城模型:鳥居忠政による改修後の姿で、中央の堀に囲まれた部分が本丸、その周囲の不整形な堀に囲まれたのが二の丸。

義光時代の山形城は絵図によると、東西144m、南北133mほどの本丸を二の丸が囲み、さらにそれを三の丸が囲む、典型的な輪郭式の城であった。
本丸は方形で東西に城門が設けられ堀が巡らされていた。二の丸は442mほどで北に2ヶ所、東西南に1ヶ所づつ虎口があった。二の丸の南東側は堀が円弧を描いていた。
本丸の西側にも堀が二重となり、本丸の堀と二の丸の堀が結ばれていた。二の丸もまた堀で囲まれており、その外側の三の丸は東西1521m、南北1632mあり家臣の屋敷が並んでいた。
最上氏の後に入った鳥居忠政は、山形城に大規模な改修を施した。現在の本丸はこのときの改修後の姿である。本丸の門は北と南東となり、西側の堀も一重となった。
二の丸の南東の円弧も方形に改修されて、北側の門も1ヶ所となった。この結果、二の丸は東西南北に1ヶ所づつの門を持ち、全ての門は内枡形となった。
枡形部分は石垣で築かれたが、そのほかは全て土塁であった。天守は最上氏時代から築かれず、鳥居氏時代の櫓は本丸の北東、北西、南西に二重隅櫓が、二の丸の北側と北東隅、南西隅、南東隅に二重櫓、西側中央に三重櫓が配された。


復元された東大手門:橋の下には堀と線路。

関ヶ原役の際に山形領は、南隣の上杉軍の侵攻を受け長谷堂合戦が起きたが、そのときに霞が立って上杉軍から山形城の位置を隠したとされる。
そのことに由来して山形城には霞城、または霞ヶ城の別名がある。現在残るのは二の丸と本丸の領域で全体が霞城公園として整備されている。
城の模型写真の下側の門が二の丸東側の門で、東大手門と呼ばれる。平成3年に櫓門形式で復元された。門に入る橋の下にはJR奥羽本線と堀がある。
東大手門の櫓門は平櫓に挟まれた門の部分が、両脇の櫓より低くなっていたが、復元は通常の櫓門形式によっている。二の丸域は公園化されて野球場、プール、体育館、歴史博物館などの各種施設があるが、二の丸を囲む堀は全て残っている。


左:西不明門、中:二の丸南側の横矢、右:最上義光像。


左:復元された本丸一文字門枡形、右:復元された本丸東側の土塁と堀。

二の丸を囲む堀を一周すると、虎口に対して塁線には屈曲がつけられて、横矢が随所に掛っているのがよくわかる。北、西、南の虎口にも石垣が残っている。
塁線の土塁は大規模なもので、堤防を思わせる。一部は塁上の歩行も可能である。なお、有名な馬上の最上義光の像は東大手門を入ったところにある。
本丸の南東側の門を一文字門といい、明治になって埋められてしまったが近年発掘が行われ、平成10年には石垣が復元された。本丸を囲む堀も復元されている。
本丸も二の丸同様に枡形部分が石垣で築かれ、ほかは土塁である。山形城の特徴は本丸に比べて二の丸の防御力が格段に高かったことだ。
本丸を囲む土塁は二の丸に比べて直線的であり、横矢も掛らない。本丸内には最上時代は御殿が営まれていたが、時が下り秋元時代には荒廃し、御殿も三の丸に作られた。

最上時代には優に百万石の実力とまでいわれた巨城山形城は、明治に建物が全て解体され、歩兵32連隊の衛戍地となると堀も埋められてしまったが、近年になって発掘や復元が行われ、現在も本丸内の発掘調査が行われており、御殿の復元計画もあるという。
(平成21年9月訪問 #79)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、城郭探検倶楽部(新人物往来社)、城郭みどころ事典・東国編(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

城郭訪問録の表紙に戻る
歴史の勉強
Last modified -