歴史の勉強

陸奥国  涌谷城

    

太鼓堂下の石垣

天守閣風資料館

太鼓堂

元和元年(1615年)に幕府から一国一城令が出され、大名は城を一つしかもてなくなった。もっともこれは建前で、例外も多くあった。仙台藩では仙台城と伊達氏の重臣片倉氏の拠る白石城の二つの城が認められたが、そのほかに藩内の城は認められなくなった。
当時多くの藩では地方知行制、つまり重臣を藩内の要地に居住支配させる体制を取っていたが、これにより地方知行制から蔵米制への移行が加速される。重臣も城下に住まわせ、年貢は藩が一括して収納し重臣に給与する形が蔵米制だ。
いってみれば地方分権から中央集権に変り、それによって藩主の独裁権が強化される一方で重臣は官僚化していったのである。それは群雄割拠の戦国期から平和期への移行を意味してもいた。
一方で大藩では地方知行制を維持した藩も多くあった。仙台藩のそのひとつで、仙台藩は明治まで地方知行制を維持した。しかし一国一城令で城が持てなくなったために藩では要害と称するのだが、実態はまさしく城であった。

仙台藩にはこうした要害が21もあった。涌谷の地は室町時代は名門大崎氏の支配地であった。大崎氏は足利一門の斯波氏が奥州管領となり、大崎地方を所領としたこといはじまるが、戦国期にはその権威は失墜し、隣国の葛西氏や戦国大名として勢力を伸張した伊達氏との抗争に明け暮れるようになった。
その後豊臣秀吉の小田原征伐に参陣を命じられたが、名門意識もあって無視し、その結果改易され領地を没収された。隣国の葛西氏も同様の運命をたどり、葛西大崎領30万石は秀吉の側近であった木村吉清、清久父子にに与えられたが、木村父子は経営に失敗し、大一揆を招く。
一揆は秀吉の命を受けた伊達政宗、蒲生氏郷により鎮圧されたが木村父子は改易され、その跡は伊達政宗に与えられた。このときに政宗は父祖の地で長年本拠にしてきた米沢を取り上げられている。

伊達領になった涌谷には亘理美濃守重宗が配せられた。亘理氏の入部は天正19年(1591年)のこととされ、8885石を拝領した。
重宗の跡を継いだ定宗のときに伊達姓を許されて伊達一門となり、寛永元年(1624年)に加増され1万石、さらに寛永21年(1641年)には2万石となった。
慶安4年(1651年)に隠居した定宗の跡を継いだのが宗重である。宗重は万治2年(1659年)に加増されて2万2640石とされ、以後明治維新までこの石高で、涌谷伊達氏が治めている。

伊達安芸宗重は伊達騒動の一方の主役としても有名である。伊達騒動があれほどの大騒動になったもとは伊達宗重と伊達宗倫の所領争いであった。
だがその実態は、幕府首脳の仙台藩改易の筋書きに乗せられた伊達一族の伊達兵部と、それを阻止しようとする伊達宗重らの闘争であったというのが定説である。
それが兵部派と安芸宗重派に分かれての抗争となり、兵部の甥であり藩祖政宗の孫である宗倫と安芸宗重の所領争いという具体的な事件で表面化したものであった。
この騒動によって安芸宗重は幕府大老酒井忠清邸での裁決の席で兵部派の原田甲斐に斬られて落命する。原田甲斐は従来大悪人であるとされていたが、山本周五郎氏の「籾の木は残った」で新たな解釈が与えられた。

さて、涌谷城の大手門は江合川に架る涌谷大橋付近であったとされる。そこから川に沿うように城地が広がり、涌谷神社の鳥居があるところが詰の門、そこから二の丸への坂を上ったところに中の門があった。
その中の門に達する途中の石垣は涌谷城の見所のひとつとされるが、残念ながら一部が地震で崩壊し積み直しがなされている。
中の門を入ったところが二の丸で、そこには天守を模した町立資料館と太鼓堂が建つ。太鼓堂は隅櫓であり、藩政時代からの遺構で天保4年(1833年)に再建されたものといわれる。
仙台藩の要害では遺構がほとんど見られないことから、この太鼓堂は極めて貴重なものとされる。太鼓堂と模擬天守から真っ直ぐ進んだところにあるのが涌谷神社で伊達安芸宗重を祀る。この神社が本丸跡である。
石垣、太鼓堂など仙台藩21要害のうちもっとも見ごたえのあるのが涌谷である。
(平成22年9月訪問 #62)

参考文献:城郭みどころ事典・東国編(東京堂出版)、涌谷城パンフレット、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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