歴史の勉強

下野国  宇都宮城

    

富士見櫓

富士見櫓内部

清明台櫓

本丸模型

宇都宮城は関東有数の歴史と伝統のある城であったが、戊辰戦争によって城はもとより城下や二荒山神社もことごとく焼失した。
明治以後は市街地が進み、昭和30~40年代には残っていた堀や土塁も埋め立てられたり崩されたりして市街地化され、本丸部分の一部が市街地の公園として御本丸公園と呼ばれていた。
平成元年(1989年)から発掘調査が実施され、その調査結果や文献資料などから本丸の一部を復元して城址公園化することとなり、平成19年(2007年)3月25日に新しい宇都宮城址公園がオープンした。
復元されたのは本丸西側の堀、土塁、土塁城の富士見櫓、清明台櫓、土塀であるが、土塁は土で築き上げるのは不可能との理由でコンクリート製であり、また堀に架かる橋は利用者の便宜を図って架けたもので、本来はなかった橋である。

宇都宮城は平安時代に藤原宗円が築城したと言われる。宗円は前九年の役の際に源頼義・源義家に従って京都から下って奥州征伐に向かった。
このとき宗円は二荒山神社で戦勝祈願を行い、その功あって前九年の役に勝利し、戦後に二荒山神社の社務職に任じられた。宗円は神社の南側に館を築き、これが宇都宮城の始まりであり、宗円は宇都宮氏の祖となる。
その後、宇都宮氏は500年以上に渡って宇都宮を中心として北関東で活動し、その拠点となったのが宇都宮城であった。
戦国時代に入ると宇都宮氏は戦国大名化するものの、小田原の後北条氏、常陸の佐竹氏、越後の上杉氏などの強大な勢力に挟まれて、有力な国人程度の力しか持ち得なかった。

下野は小田原の北条氏と常陸の佐竹氏の勢力がぶつかる場となり、宇都宮氏は有力な国人であった芳賀氏と対立し、宇都宮広綱は芳賀高照によって宇都宮城から追われ、真岡城に逃げた。
これを見た壬生城の壬生綱雄は小田原の北条氏康の支援を得て芳賀高照を宇都宮城から追い出して占拠した。広綱らは常陸の佐竹氏と結び宇都宮を攻めると、壬生綱雄は対決を避けて鹿沼城に退去し、広綱は宇都宮城を回復した。
やがて豊臣秀吉の小田原攻めが始まると、広綱は子の国綱は小田原に駆けつけ、秀吉によって所領は安堵される。しかし慶長2年(1597年)に国綱は突然領地を没収され、平安時代から二十二代に渡った宇都宮氏の支配は終わった。
宇都宮氏改易の理由は後継者を巡る騒動、領地の収穫高を偽って報告したこと、家臣間の騒動などと言われているが、真相はわかっていない。

宇都宮氏が改易された後、暫くは浅野長政が城代を務め、慶長3年(1598年)に蒲生秀行が会津から18万石で移ってきた。蒲生氏は関ヶ原の役で東軍に与し、その功で61万石となって会津に戻り、宇都宮には奥平家昌が上野小幡から10万石で入る。
家昌の跡を忠昌が継いで元和5年(1619年)に下総古河に転封され、代って下総小山から本多正純が15万石で入った。正純は家康のもとで辣腕をふるった謀臣で家康の死後に秀忠のもとに移る。
元和8年(1622年)4月に家康の七回忌に秀忠が日光東照宮に参詣する。13日に江戸を発ち岩槻、古河に宿泊ののち15日に宇都宮に宿泊し16日に日光に到着。
19日まで日光に滞在した秀忠は急遽帰路を変更して急ぎに急ぎ、宇都宮には寄らずに翌20日には江戸に入った。

このとき井上正就が派遣されて宇都宮城内の御成御殿の調査が行われた。その後、同年8月に正純は改易された出羽山形の最上義俊の領地接収のために山形に出張した。
山形で領地の引渡しを無事に終えた正純のところに幕府の使者が訪れ、正純の働きぶりが良くないことえお理由に宇都宮領の没収と出羽への転封を申し渡した。
正純はこれを拒否したために改易となり久保田城主佐竹義宣に預けられ、横手で幽閉されて寛永14年(1637年)に死去した。
正純改易の真相はよくわかっていないが、家康の時代から秀忠の時代に移り、今後の幕藩体制を確立するために家康の側近であった正純が排除されたざるを得なかったのであろう。
この事件がのちに脚色されて宇都宮釣天井事件として芝居や講談で広まることになる。

宇都宮城は将軍の日光社参の際の宿泊地であったことが、大きな特色であった。日光には家康の墓所である東照宮があり、宇都宮城はその守りの城としての役目も負っていた。
日光社参は江戸期を通じて19回行われが、二代秀忠が4回、三代家光が10回、四代家綱が2回と前期に集中している。ほかは八代吉宗、十代家治、十二代家慶が各1回行っている。これは日光社参には莫大な経費がかかり、幕府の財政難から実施が難しくなったためである。
日光社参が行われると宇都宮城下は多くの随行者でごった返し、城下の武家屋敷、寺院、商家、民家などは徴用されて随行者たちの宿となり、住人は庭に借屋を建てて寝たという。
宇都宮上本丸には将軍宿泊所としての御成御殿が建てられていたが、後期には御殿は取り壊されていて、将軍宿泊所としては二の丸御殿の奥に宿泊所を増設して対応した。

このように将軍宿所となることもあった宇都宮城は、本多正純改易の後は再び奥平忠昌が入封して二代続き山形に転封、その後は松平(奥平)氏、本多氏、奥平氏二代、戸田氏三代、松平(深溝)氏二代と目まぐるしく城主が代り安永3年(1774年)に戸田忠寛が肥前島原から7万8千石で入って幕末まで続いた。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争で宇都宮城は幕府軍と新政府軍の激戦地となり、城をはじめ城下町の大半を焼失した。明治になって城址は陸軍の兵営が置かれ、やがて北関東の守備師団である第14師団が置かれるが、明治22年(1889年)に払い下げられ、そののち市街化が進む。
昭和40年代には堀は全て埋められ、土塁もほとんど崩されて形ばかりの公園となっていたが、平成に入って宇都宮城の復元の最初として富士見櫓、清明台櫓、土塀が城址公園として整備された。今後本丸御殿などの復元も計画されている。
(平成20年11月訪問 #12)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、宇都宮城のあゆみ(宇都宮市教育委員会)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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