歴史の勉強

美作国  津山城

備中櫓


岡山県北部にあたる、美作国の主邑津山の地に、本格的に城が築かれたのは、近世に入ってからである。津山城は鶴山を削って築かれた典型的な平山城であるが、鶴山に最初に城を築いたのは山名教清であった。
山名氏は室町時代に美作守護でもあり、応仁の乱で細川氏と敵対した有力大名であったが、応仁の乱後は没落し、鶴山の城も廃城となった。
その後、美作国は周辺の有力大名である尼子、浦上、宇喜多氏らが入れ替わり支配し、不安定な状況が続いたが、関ヶ原役後は備前岡山の小早川氏の支配下となった。
しかし小早川氏は、わずか2年で無嗣断絶となり、代って慶長8年(1603年)に信濃から森忠政が美作一国18万5千石を与えられて入封した。忠政は織田信長の小姓であり寵童でもあった森蘭丸の弟である。

忠政は代々美作の守護所があった院庄の城を修築するつもりでいたが、その普請の途中で重臣と内室の弟が喧嘩をし、その挙句に2人とも死んでしまうという事件が起きた。
これを不吉とした忠政は、鶴山の地を城地として、名を津山と改めて築城を始めた。工事は大掛かりなものとなり、完成したのは元和2年(1616年)で13年を費やした。
しかも三の丸は未完成のままで、大手門枡形に建てられるはずの櫓門も石垣だけで建造は中止され、それに続く土塀も造られなかった。
これは元和元年に武家諸法度が公布され、新たな櫓や土塀が建造できなくなった為であり、そのために一部は未完成のまま放置されることになってしまった。

それでも津山城は日本一壮大な平山城であった。次の写真は郷土博物館に展示されている模型であるが、これを見てもその壮大さがよくわかる。
津山城模型
高石垣で鶴山全体を囲み五重天守を中心に、本丸、二の丸、三の丸が階段状に上中下の関係で連なり、三の丸の下には家臣の屋敷が並んで外郭を形成した。
外郭の東側には宮川が流れて天然の堀となり、残る三方には堀が掘られていた。本丸は平山城としてはかなり広く、天守のほかに櫓や御殿など31の建物と15の城門が設けられた。
二の丸には御殿のほかに櫓12棟、城門が7、三の丸には櫓17棟、城門11というから、その規模は姫路城に匹敵する。まさに名城であった。


三の丸冠木門

表中門

切手門

包櫓跡

現在の津山城址は鶴山公園となっており、城址へのゲートは、三の丸冠木門で往時は番所があった場所だ。すぐに枡形となり三の丸に入る。二の丸の石垣が聳え、その二の丸へは表中門を入る。
表中門の階段幅は広く、日本一ともいわれる。この門は長大な櫓門(模型写真のほぼ中央の門)であった。右手の階段は見付櫓へのもので、左に折れるとすぐに四脚門があり二の丸となる。ちょうど本丸備中櫓の東側下の場所に出る。
そこから180度向きを変え切手門となるが、表中門、四脚門、切手門と枡形を連続させたような構造で、見付櫓や備中櫓をはじめ多くの櫓から横矢が掛るようになっている。
切手門を入ると辰巳櫓から本丸表鉄門と、これも枡形の連続構造が続く。模型写真では本丸右側の門で、厳重な鉄門であった。表鉄門の右側には平櫓の包櫓があり、その背後には太鼓櫓があった。


天守曲輪正門と天守台

天守穴蔵

本丸東側石垣

月見櫓

荒和布櫓

本丸はその周囲を多くの櫓と、それを繋ぐ多門櫓で囲まれていた。その中で備中櫓が、築城400年を記念して平成17年に復元された。
備中櫓は本丸南側に張り出した石垣上に建てられた櫓で、天守に次ぐシンボルであった。櫓とはいえ御殿の一部としての機能も有し、御座之間、御茶席、御上段など御殿建築で造られていた。
このことからも奥向きの空間であったと推定されている。内部も復元されて見学可能のほか、復元関係のビデオも上映されている。

備中櫓の北側が天守になる。津山城天守は五重五階で、最上重以外には破風が一つもない層塔型といわれる天守であった。層塔型というのは各重を少しづつ低減させて積み上げた天守である。
これに対し一重または二重の入母屋造の基部を設けて、その上に望楼を乗せたものを望楼型天守と呼ぶ。したがって望楼型では基部と望楼は別々なもので、例えば岡山城のように基部は不等辺五角形でも望楼は正方形にできた。
ところが層塔型では一重目から正方形に造らなければならず、慶長15年(1610年)の小倉城天守が初めての層塔型であった。その小倉城を模して造られたのが、津山城天守であった。

望楼型の天守は基部には必ず入母屋破風があるが、層塔型では破風は必要ない。もっとも飾りとしての千鳥破風を設ける場合も多いが、津山城のように最初期の層塔型天守では破風は設けられなかった。
この天守は明治期まで残っていて、古写真を見ても非常にすっきりとした天守であった。また天守の最上階は建造時は廻縁であったが、風雨を避けるためにのちに板壁で囲われた。
さらに天守四重目の屋根はごく短い板葺であった。これには伝説があって、築城時には天守は四重までに制限され、五重天守は幕法違反であった。したがって藩主森忠政は江戸城内で五重天守を詰問された。

それに対し忠政は四重であると主張し、幕府は役人を派遣して実況見聞することになった。そこで忠政は家臣伴唯利を津山に派遣して、幕府役人が来る前になんとかするように命じた。
唯利は仙術を使って一夜で津山に戻り、四重目の屋根を切り落として板葺とした。板葺の屋根は重数に加えなくて良いことになっていたので、幕府の役人を欺いたのだった。
この話は伝説であるが、津山城の四重目の屋根が板葺であるのは、五重を四重とするための方便であったようだ。

天守は独立式で、天守曲輪に入るのも厳重であった。本丸から天守へは石垣で挟まれた狭く屈折した通路を通り、さらに狭い門を通過して天守に達する。
天守へは南側の突き出た部分に鉄板の張られた入口があり、そこを抜けると地階にあたる穴蔵で、この穴蔵から階段で上がった。
このほかに本丸域では、本丸東側は南から包櫓、太鼓櫓、多門櫓である走櫓と矢切櫓、月見櫓が連続し、合坂とよばれる向かい合わせに作られた石垣上への狭い階段が残っている。
月見櫓石垣は孕み出しがみられるが安定してしまったようだ。月見櫓の北側が十一番門となりさらに粟積櫓、大戸櫓、長屋櫓と続いて搦手からの虎口である裏鉄門となる。
裏鉄門には腰巻櫓が付属し、道明寺櫓や荒和布櫓などの櫓跡を経て、搦手にあたる裏下門に至る。


移築薬医門(大隈神社)

移築四脚門(中山神社)

このように壮大な津山城は、森氏の居城として四代を経たが、元禄10年(1696年)に四代藩主森長成が27歳で病没し、二代藩主長継の子で家臣になっていた衆利が急遽末期養子として迎えられた。
ところが衆利は江戸に家督御礼の挨拶に向かう途中、伊勢桑名で発狂乱心してしまい、改易となった。
その後は越前松平家が10万石で入城し、明治維新を迎えた。明治維新後は老朽化を理由に、天守はじめ全ての建物は破却されてしまった。
現在市内大隈神社薬医門が、同じく中山神社に二の丸四脚門が移築されて残るのみである。
(平成22年8月訪問 #99)

参考文献:城郭みどころ事典・西国編(東京堂出版)、城郭探検倶楽部(新人物往来社)、よみがえる日本の城(学研)、城のつくり方図典(小学館)、津山城パンフレット、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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