歴史の勉強

甲斐国  躑躅ヶ崎館

    

1.大手口土橋

2.西曲輪南側土塁

3.西曲輪北虎口

4.味噌曲輪

戦国武将の中で最も著名なひとりである武田信玄の館である。信玄の父で甲斐守護から戦国大名化した武田信虎が、永正16年(1519年)12月に、あらたに営んだ守護館であり、信虎-信玄-勝頼と武田氏三代に渡って政庁として、また城として甲斐国支配の中心となった。
天正10年(1582年)に武田氏は滅亡し、甲斐国は徳川家康の支配下に入る。家康は甲斐に平岩親吉を入れ、館も改修された。
天正18年(1590年)に家康は豊臣秀吉の命により関東に移され、甲斐には秀吉の甥秀勝が入るが、秀勝は翌年に岐阜に移り、代って加藤光泰が甲斐を領した。
光泰は新たに甲府城の築城を始めたとされているが定かではなく、躑躅ヶ崎館を修築拡張して政庁としたとの説もある。光泰は在封わずか2年で朝鮮の陣中で没し、その跡には五奉行の一人で秀吉の親戚であった浅野長政が甲斐の領主となる。
いずれにしても甲府城が完成したのは、長政の時代であり、躑躅ヶ崎館が廃城となったのは甲府城完成後の文禄年間のこととされる。

館は甲府駅から北へ約2kmに位置しており、その規模は東西約290m、南北約200mで、高さ8mほどの土塁と幅10m以上の堀で囲まれている。
主郭は東曲輪、中曲輪と呼ばれる部分で東側に大手口(写真1)があり土橋で渡る。土橋には石垣が残るが、この石垣は武田氏時代のものではなく、その滅亡後に加藤光泰か浅野長政により改修されたときのものとされている。
主郭内には武田神社が鎮座している。主郭部の西北に天守台跡があり石垣も残るというが、崩壊の危険があるらしく立入は禁止されている。天守台も武田氏滅亡後に入った加藤光泰か浅野長政により築かれたとされる。
主郭部の西には堀を挟んで曲輪があり、西曲輪と呼ばれる。西曲輪は信玄の長男義信の婚姻を機に拡張されたといわれる。
西曲輪の南北の虎口は、武田氏特有の枡形虎口で、南側虎口(写真2)は土塁の形状もよく残っている。西曲輪南虎口土塁の基底部は約20m、高さは約6m、上部の幅約6mで基底部には石積みも残る。北虎口(写真3)は土橋も残り、発掘調査では門跡も見つかり、石積みが確認されている。

東、中、西の各曲輪の北側には味噌曲輪(写真4)、御隠居曲輪が付属し、この曲輪も後から拡張されたとされ、信玄の母らが居住していたらしい。
南側は堀を挟んで重臣の屋敷や寺社が配された城下町を形成していた。すぐ南側には重臣の高坂氏や穴山氏の屋敷跡がある。
さらに南側2kmの地点には一条小山の砦があり、これが後の甲府城である。また館の北側、約2.5kmにある丸山の尾根筋には、詰城である要害山城が築かれていた。
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」というのが信玄の考え方で、ライバルの謙信の春日山城や北条氏の小田原城に比べれば質素な躑躅ヶ崎館であるが、それなりに備えをしてはいたのである。
(平成20年12月訪問 #39)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、城郭みどころ事典・東国編(東京堂出版)、城郭探検倶楽部(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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