歴史の勉強

伊勢国  津城

復興された三重櫓

   
(左)城跡の北側の堀、手前の石垣が二の丸跡、後方石垣が本丸跡である。
(中)二の丸の隅櫓台石垣。玉櫓と呼ばれる二重櫓があった。
(右)二の丸にある入徳門。十代藩主で名君といわれる高兌によって建てられた藩校有造館講堂の正門。

   
(左)本丸南西にある天守台。幕府を憚って天守は建てられなかった。
(中)本丸南外にあった犬走りに出る埋門で、この手前は広大な堀であった。
(右)本丸内に建つ築城の名手でもあった藤堂高虎像。

「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」とうたわれ、参宮街道の要地である津は、かつては安濃津といわれ古くから港として栄えたところであった。
この地は藤原南家の流を汲む工藤氏を祖とする長野氏が鎌倉期以来支配していた。その一族細野藤敦が永禄年間(1558~69年)に岩田川と安濃川に挟まれた地に城を築いたのが、津城の起源とされる。
永禄11年(1568年)に織田信長が伊勢に侵攻し、弟の信良(のちの信包)を長野氏の養子にすることで和議が成立した。信包は津に入城すると交通の要衝の地の城として城郭を拡張整備した。
城の縄張りは滝川一益によるとされ、五重の天守をあげて天正18年(1580年)に城の完成をみた。信包は豊臣時代の文禄3年(1594年)に丹波柏原に転封され、その跡には秀吉側近のひとり富田信広が5万石で入封した。

信広は秀吉のお伽衆として側に侍したが、石田三成とは反目していたとされる。信広は秀吉没後は家康に接近したが、慶長4年(1599年)病により隠居して嫡子信高に家督を譲り、ほどなく死去した。
信高は関ヶ原役では当初会津征伐軍に加わったが、西軍による伊勢国攻撃に備えて分部光嘉(伊勢上野)、古田重勝(伊勢松坂)らとともに急遽帰国し、分部光嘉とともに居城津城に籠城した。
津城は西軍の攻撃で開城し、信高は光嘉とともに敗戦の責を負い高野山に入って謹慎した。信高の妻が手槍をふるっての活躍もこの籠城戦でのことである。
戦後に津城籠城戦の戦功で2万石を加増され城下の復興に取り組んだが、慶長13年(1608年)9月に伊予板島10万1千石に加増転封となり、板島丸串城に居した。

入れ替わりに伊予板島から津に入封したのが藤堂高虎である。高虎の封地は伊賀一国10万540石、伊勢安濃郡・一志郡で10万400石、伊予越智郡内で2万石の合計22万石余りであった。
この転封は家康の意向によるものであった。家康はこの時期、大坂城に拠る豊臣秀吉を滅ぼし、徳川幕府の後顧の憂いをなくすことに没頭していた。
そのための大坂城攻撃の際、敗れたときは家康は伊賀上野城に引き、秀忠は井伊家の城下である彦根に引く事を考えていた。
そのために高虎は入国早々、伊賀上野の城と伊勢津の城の整備修築にかかる。このときに津城は本丸の拡張、石垣修築、虎口の変更などが行われ面目を一新した。

高虎は、築城技術に長け居城だった板島(宇和島)、今治などのほか丹波篠山、膳所城などを築城し、江戸城の改築にも手腕を発揮していた。家康がこの高虎の築城技術にも着目したの当然であった。
大坂の陣が終り徳川政権が安定すると、長年にわたり家康に尽くしてきた高虎は加増されて、津藩の表高は32万石となった。
その後も高虎は秀忠・家光に対し忠勤を励み、その信頼は厚く外様ながら譜代以上に信頼を得た。藤堂氏が江戸期には一度の転封もなく、要地に封ぜられ続けたのも、この高虎の故とされる。
そのために幕府に対して恩義を感じ、基本的に公儀第一であった。しかし幕末には変わり身をして裏切り、幕軍に対し砲撃をしている。

現在の津城はかつての規模からは想像できないほど小さな公園で、周囲は官公庁に囲まれている。絵図や復元図、古写真などを見ると広大な堀に囲まれた湖中に浮ぶような城である。
堀の巾は本丸の南側では50間(約100m)ほどもあったというが、その後に埋め立てられたり、戦災の瓦礫の捨て場になったりして、城の西側と北側にわずかに残るのみである。
本丸は長方形であったが面積は狭く御殿が所狭しと建ち並んでいたようである。本丸の周囲は多門櫓で取り囲み、東西に櫓門を設けていた。
北東と南西に三重櫓(丑寅櫓、戌亥櫓)を、南東と東西の櫓門脇に二重櫓(月見櫓、太鼓櫓、伊賀櫓)を配し、南西隅には小天守台を伴う天守台があった。しかし天守は幕府を憚って築かれなかった。
櫓のうち東鉄門の枡形に、昭和33年模擬復興された櫓が建てられているが、位置も意匠も本来のものとは異なっている。

本丸天守台の東と南には内堀との間に犬走りが設けられていた。本丸南側の多門櫓の一部を切り開いて埋門が設けられていた。これは火災などの非常用とされる。埋門の南側は埋められて公園や宅地になっているが、かつて広大な堀であった。
本丸の西側に西の丸があり、狭い土橋で連絡されていたが、土橋は両側に塀を設けた廊下橋であった。西の丸の南西に櫓門が設けられ、その脇に二重の隅櫓(玉櫓)が配されていた。
現在西の丸は日本庭園として整備され、その中に十代藩主で名君といわれる高兌(たかさわ)によって建てられた藩校有造館講堂の正門入徳門が移築されている。
一方、本丸東側の東の丸には門もなく、未整備のままであった。この東の丸はその外側の三の丸とともに、堀と川を経由して直接海へ舟で出入りできるようにする計画であったが、大坂の陣の終結をもって計画は放棄され未完成のままであった。

本丸と西の丸、東の丸を広大な内堀が取り囲み、その外に二の丸がある。二の丸は複雑に城塁を折り曲げてあり、各所で横矢が掛かるようになっていた。
城門と櫓の部分にのみ石垣が築かれ、ほかは土塁とされた。南に中島口、西に伊賀口、北に京口の3つの門が開かれ、その外側を囲む三の丸と土橋で結ばれていた。
土橋はすべて途中で折り曲げられた筋違橋であった。また二の丸の櫓はすべて平櫓で12基が配されていた。津城は平野部に築かれた平城であるが、築城の名手高虎によって手厚く防御された城であった。
(平成23年3月訪問 #71)


参考文献:よみがえる日本の城(学研)、城郭みどころ事典・西国編(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

城郭訪問録の表紙に戻る
歴史の勉強
Last modified -