歴史の勉強

因幡国  鳥取城

    
鳥取城を訪れたのは平成21年8月7日のことだったが、この年は冷夏で雨が多い天候不順な夏で、この日も朝から雨が降っていた。何とか雨が上がったので目指す城跡へ。
鳥取城跡は市街地の北東、久松公園にある。久松山と書いて「きゅうしょうざん」と読むが、鳥取城跡は久松山山頂部のいわゆる山上の丸と山麓の山下の丸にはっきりと分かれている。
山上の丸は戦国期の山城であり、天文14年(1545年)に因幡国の守護であった山名誠通が、久松山に城を築いたことからその歴史が始まる。
当時の因幡の守護所は布施天神山城にあった。鳥取城の西方、湖山池の側である。久松山の城は天神山城の出城として築かれたものであった。
四職の一として勢威を誇った山名氏の一族も、一族の内紛や応仁の乱などの内乱で勢力は衰え、この地方では出雲から興った尼子氏が勢力を急速に拡大していた頃であった。

山名氏は尼子氏に圧迫されるが、その尼子氏も安芸から興った毛利氏に取って替られる。毛利氏の勢力が因幡にも進出をはじめた天正元年(1573年)、山名豊国は居城を天神山から久松山鳥取城に移した。
豊国は但馬守護山名祐豊の弟山名豊定の子で、父の豊定が山名誠通を破り天神山に居を構えていた。鳥取に入った豊国であったが、毛利に抗すべくもなく、やがて毛利の属将となり吉川経家の傘下となった。
天正4年(1576年)、中央で覇権を確立しつつあった織田信長は最後の将軍足利義昭を追放し、義昭を庇護した毛利氏との間で交戦状態となった。
織田軍の中国方面司令官は羽柴秀吉であった。天正8年(1580年)に鳥取城主山名豊国は秀吉に降伏したが、不満を持つ国人層は豊国に従わずに交戦を主張し、その要請を入れて毛利氏は吉川経家を鳥取城に派遣し、経家は4千の兵で籠城した。

天正9年(1581年)秀吉は2万の大軍で鳥取城を包囲し、ここに史上有名な「鳥取城の渇殺し」と呼ばれる戦いが始まる。太閤記をはじめ秀吉の伝記では必ず語られる戦いで、水も漏らさぬ包囲網を布いての兵糧攻めだった。
もともと兵糧が不足気味であった上に、4千人という過剰な人員を抱えて、城はたちまち餓えた。あらゆるものを食いつくし、最後は壁土まで煮て食したという。籠城4ヶ月吉川経家は自刃し、城は降伏した。
秀吉は鳥取城に側近の宮部継潤を入れた。宮部継潤は慶長4年(1599年)3月に没し、子の長煕が継いだが関ヶ原役で西軍に与して改易された。
宮部氏の後に入ったのは池田長吉が6万石で入封する。長吉は山上にあった城の中郭を山下に移し、ここから山下の丸が中心となる近世鳥取城の歴史となる。現在の鳥取城の基礎は、長吉によって造られた。

池田氏は典型的な織豊大名で、天文年間のはじめごろに池田恒利が信長の父信秀に仕え、その子の信輝(恒興)が信長の乳兄弟であったことで家運が上昇した。
もっとも信輝も、またその子の輝政も優れた武将であったことも事実で、信長死後は秀吉に仕え、さらに輝政の正室に徳川家康の三女督姫を迎えて家康の女婿となった。
関ヶ原役後に家康の女婿でもあった輝政は厚遇され、播磨姫路52万石を得た。このときに輝政の弟の長吉も戦功によって鳥取6万石を与えられた。
さらに督姫の子である忠継には備前岡山28万石、忠雄には淡路6万石が与えられて、池田一族は92万石の所領を得た。
慶長18年(1613年)に輝政が死去し、長子利隆(督姫の子ではない)は播磨姫路42万石、忠継は備前岡山38万石、忠雄は淡路6万石の大名となった。

この利隆の系統は、元和2年(1616年)に利隆が死去すると光政が継いで、幼少との理由で姫路から鳥取城主に移された。石高は32万5千石で10万石の減封であった。
この光政の鳥取入封のときに因幡、伯耆の大名は全て他国に移封となり、池田長幸(長吉の子)は備中松山に移った。
一方、岡山城主であった忠継は、元和元年(1615年)に没し、嗣子がなかったために将軍秀忠の命で弟の忠雄が31万5千石で岡山城主となった。このときに忠雄の旧領淡路は収公された。
忠雄は寛永9年(1632年)に死去し、わずか3歳の光仲が家督を継いだが、要衝岡山は幼児では治め難しとの理由で、鳥取の光政と交替転封となる。ここにおいて光仲の系統が鳥取池田家として定着し、明治まで続いた。

山上の丸は、本丸、二の丸、三の丸が西から東に並び、本丸北西には天守台が残る。この天守の最初の創建は明らかではないが、三重天守であったといわれ、その後池田長吉の時代に改築され二重天守となった。しかし元禄5年(1692年)12月に落雷により焼失し、その後は再建されなかった。
一方山下の丸は中心が二の丸で、二の丸の上に天球丸、天球丸の下には三の丸があった。三の丸には現在鳥取西高校がある。
この三の丸の南に現在も内堀が残り、三の丸への入口が大手門であった。大手門を中にして、南御門と北御門があった。県立博物館へ至る門が北御門である。
北御門から城跡に入って進むと二の丸に出る。江戸時代にはここが本丸であった。御殿が曲輪内にびっしりと建てられていたといい、東南に菱櫓、西南に三階櫓があった。山上の丸天守の焼失以後は、この三階櫓が城のシンボルであった。

天球丸は池田長吉の姉で若桜鬼ヶ城主山崎家盛夫人であった、天球院が住んだことに由来する。天球丸の入口には渡櫓と風呂屋御門があり、天球丸の東南隅にも三階櫓あった。
鳥取城は元禄の天守焼失以後もたびたび火災にあい、特に享保5年(1720年)の石黒火事と呼ばれる大火では、城内のほとんどを焼失し、その後二の丸には三階櫓が再建されたのみで空地となり、御殿は三の丸に移されたという。
明治になって城は取り壊され、明治22年(1889年)に池田家に払い下げられたが、昭和19年(1944年)に池田家から鳥取市に寄贈され、戦後になって石垣の復元が行われた。
冒頭にも記したように、この年は天候不順で、いつ雨になるかも知れず、山上の丸までは最低でも往復1時間はかかるとあって山下の丸のみの見学となった。


1.鳥取城跡と久松山

2.中仕切門

3.天球丸

4.二の丸表門

5.仁風閣

6.箕浦家武家門

写真1:久松山の頂上部が山上の丸。山下の丸の石垣のうち右側にひときわ目立つのが、二の丸三階櫓跡。
写真2:鳥取城唯一の遺構である中仕切門。北御門から二の丸への門である。
写真3:二の丸東南の菱櫓跡から一段上の天球丸を望む。
写真4:天球丸から二の丸を見る。二の丸表門の石垣郡で左隅が菱櫓跡。
写真5:明治40年(1907年)に皇太子行啓の宿舎として、三の丸に建てられたフレンチルネサンス様式の仁風閣。
写真6:鳥取県庁前に移築された箕浦家(2千石)武家門。
(平成21年8月訪問 #54)

参考文献:久松山鳥取城、その歴史と遺構(鳥取県立博物館)、場城郭みどころ事典・西国編(東京堂出版)、、よみがえる日本の城(学研)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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