歴史の勉強

三河国  東条城

    

主郭虎口の櫓門

主郭の物見櫓

平成の大合併で西尾市になったが、旧吉良町にあった中世城郭が東条城だ。小高い丘陵を中心にした平山城で、いかにも中世の城というより砦という感じを持つ。城の目の前に県道318号が走っているが、住宅が並んでいて、注意していなければ見逃してしまう。少し離れたところに小さい駐車スペースがある。
現在は古城公園として整備されており、大手門を模した簡素な冠木門があり、本丸跡には模擬物見や櫓門が建てられているが、いずれも想像上の建造で、これらがあったという確証はないようだ。なお、この復元事業は平成元年(1988年)の竹下内閣による「ふるさと創生事業」によって行われたようだ。

城の主格は比較的狭く、城全体の大きさからいっても、砦程度で数百人規模の小さな城塞であったようだ。遺構としては、北西の八幡神社裏にわずかに土塁の跡が残る程度である。標高80mほどの丘陵だが、周囲にはほかに高い場所がなく、丘自体は急激に立ち上がっているために、防御力はそれなりにあったと思われる。
この城の築城年などは不明だが、承久3年(1221年)に足利義氏が築き、その三男の吉良義継が城主になったという。この付近は吉良荘という荘園で、古矢作川を境に西側を西条、東側を東条と呼び、義氏は長男の長氏を西条に置き、三男の義継は一族として東条を治めたようだ。
義継から四代目の貞家は奥州管領となって多賀城に移り、ここに東条の地は西条吉良氏の領地となった。その後、室町時代になると西条吉良氏に内訌が起きた。西条吉良四代目の満義の四男尊義が東条のちを押領して独立した。この尊義の系統は、東条の地を支配して西条吉良氏と一世紀近くにわたり争うこととなった。

やがて戦国期になると吉良氏は内訌の影響もあって衰退し、駿河の今川氏の圧迫を受ける。東西吉良氏は和議を結び、東条吉良持広が西条吉良義安を養子にすることで合一された。しかし今川氏には抗しきれずに降伏し、その庇護のもとで家名を保った。
桶狭間の戦いで今川氏が敗れると、今度は松平氏の圧迫を受けた。永禄4年(1561年)に松平氏に攻められて吉良氏は滅亡、東条城には松平一族の家吉が入り東条松平家を起こした。家忠は天正9年(1581年)に没したが子がおらず、東条松平家は家康の四男忠吉が継いだ。
忠吉は駿河沼津城を与えられたために東条城には入らず、廃城となった。なお吉良氏の方は足利一族の名門ということで、のちに再興され江戸期には高家として続いた。元禄赤穂事件の吉良義央が有名である。
(平成25年8月訪問 #103)

参考文献:関連ホームページ

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