歴史の勉強

下野国  飛山城

    

1.木橋と土塁、堀

2. 5号堀

3.土橋と門

4.古代竪穴建物

飛山城は栃木県宇都宮市の鬼怒川畔にあった中世城郭で、芳賀高俊によって永仁年間(1293~98年)に築かれたと伝えられる。芳賀氏は宇都宮氏の重臣で、宇都宮氏から養子を迎えて家督を継がせるほどの関係であった。
高俊が飛山城を築いたころ、宇都宮氏は八代貞綱の時代で、鎌倉幕府の引付衆でもあり、高俊は宇都宮氏との関係の緊密化を図っていたようだ。
南北朝動乱期に芳賀氏は宇都宮氏とともに北朝尊氏方に属し、その功により宇都宮氏当主の氏綱は上野、越後守護に、芳賀氏は守護代に任じられた。
天文年間(1532~55年)に入ると芳賀氏と宇都宮氏の関係は冷え込み、やがて芳賀氏は那須氏と手を結び宇都宮氏と敵対する。
一方で芳賀氏の間でも内部抗争が起こり、芳賀高照は那須氏と同盟して宇都宮氏を攻めて、その本拠の宇都宮城を占拠し、高照の弟高定は北条氏や壬生氏と結び、高照を攻めた。
高照は高定に殺され、宇都宮城は宇都宮氏に返還される。その後飛山城は宇都宮城や真岡城の番城的な存在となり、天正18年(1590年)に後北条氏が滅亡すると、秀吉の命によって破却された。

城跡は昭和52年(1977年)に国の史跡に指定され、平成12年(2000年)からは公園として整備が始められた。
城の西側と北側には鬼怒川が流れて天然の堀を成し、東側と南側には二重に堀が巡らされた。南側から東側にかけての外側の堀が6号堀で、城跡の入口の木橋が渡っている堀(写真1)である。
この6号堀には櫓台が5ヶ所、ほぼ等間隔に設置され、木橋の南側には4号櫓台があった。この木橋のかかるあたりが大手門であったようだ。
木橋を渡ると枡形虎口があり、帯曲輪が巡っていた。さらにすぐに5号堀(写真2)がやはり南側から東側に巡っている。この5号堀は比較的往時の姿をとどめている。

5号堀を土橋(写真3)で渡り、南側の曲輪に入る。南側の曲輪は竪穴建物(写真4)の跡が残り、そのうちのいくつかは復元されている。おそらく倉庫や貯蔵庫であったと考えられる。
東西に走る4号堀を土橋で渡った北側の曲輪には掘立柱建物群が発掘され、一部は復元されている。ここは主郭を守る兵士の詰所であったようだ。
さらにその北西には2号堀があり、その内側が主郭部であったようだ。主郭部の中にはさらに3号堀と1号堀があり、それらに囲まれて3つの曲輪があった。
飛山城史跡公園として堀や土塁、各種建物などが復元整備され、資料館として歴史体験館も設置されている。
(平成27年8月訪問 #131)

参考文献:飛山城跡(宇都宮市教育委員会)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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