歴史の勉強

志摩国  鳥羽城


1.本丸西側の石垣

2.本丸東南側の石垣

3.答志島遠景

4.本丸から三の丸を見る

5.二の丸石垣と土塀

6.日本丸模型

水軍で名を馳せた九鬼氏の城である鳥羽城は、近鉄・JR鳥羽駅から南へ500mほど歩いた、市役所の裏手にある。二の丸の跡にかつて鳥羽小学校があったが、小学校は老朽化により移転して廃校、無人の校舎とグラウンドが残る。
その校舎脇からグラウンドへあがる階段脇に石垣(写真1)が残る。階段をあがったところがグラウンドであり、本丸跡である。絵図によると本丸には天守と三基の二重櫓があった。
鳥羽城の別称を錦城というが、魚類保護の為に海側を黒に山側を城に塗り分けたことから、二色=錦城になったと言われる。また鳥羽の浮城とも呼ばれその言葉通り典型的な海城で、往時は三方を海に囲まれていた。
城自体は輪郭式で小学校跡から本丸を見上げながら二の丸を歩くことも出来る。本丸の東側から南側にかけても石垣(写真2)が残る。

本丸の東側の二の丸からは答志島(写真3)が望める。答志島は、この鳥羽城を築いた九鬼嘉隆が自刃したところだ。九鬼氏は伝承によれば紀伊国牟婁郡九木浦の出自とされ、やがて泊浦(鳥羽)に移り海賊衆=水軍として志摩の浦の中心的存在となっていった。
戦国期に嘉隆が出て織田氏、次いで豊臣氏に仕えて水軍の将として名を馳せ志摩鳥羽で5万石を有する大名となった。天正14年(1586年)、それまで波切を本拠としていた嘉隆は鳥羽に築城を開始した。
その後小田原征伐、さらに文禄・慶長の役と続くが、文禄の役では緒戦は勝ち進んだものの、李舜臣の全羅道水軍に破れて制海権を奪われた。
続く慶長の役では九鬼水軍は参陣せず、慶長2年(1597年)に嘉隆は家督を嫡子守隆に譲って隠居した。嘉隆の隠居は慶長の役に出陣できなかったことが原因で、プライドが許さなかったのではないかとも言われている。

関ヶ原役で九鬼氏は、嘉隆と守隆の親子が東西に分かれて争った。守隆は家康に従って上杉征伐に赴き、その後も東軍として行動する。しかし父の嘉隆は石田三成の誘いにのって西軍に与し、鳥羽城を陥落させた。
鳥羽城陥落の報せに守隆は急遽志摩に戻り、父嘉隆と対峙した。しかし守隆は、自身の城の攻撃や父に弓引くことを躊躇し、戦闘には熱心ではなかったようだ。
関ヶ原で東軍が勝利すると、守隆は家康のもとに赴いて父嘉隆の助命嘆願に奔走した。家康はなかなか赦さなかったが、最後には嘆願に負けて嘉隆を赦した。
しかし答志島に移って謹慎していた嘉隆は、慶長5年10月12日に答志島で自刃してしまっていた。嘉隆は自刃のときに首は鳥羽城の見える位置に置けと遺言したという。首塚はその遺言どおり答志島の笠脱鼻の筑土山にあって、鳥羽城を睨んでいるという。

答志島の望んだあとですぐに目を下に向けると、近鉄線の線路(写真4)が見えるがその付近が三の丸で、鳥羽水族館のあたりに大手門があった。海城らしく大手門が海に向っている。
一方、南側には市役所があって、階段を下りたところに石垣と土塀(写真5)が残る。石垣は現存で土塀は復元で、家老の屋敷のあったところだそうだ。ここに鳥羽幼稚園があったが、小学校同様に移転して廃園になっている。
この土塀のところに絵図入りの説明板があるが、この絵図は守隆時代のものという。家老屋敷の石垣に沿って細道を進むと大山祇神社に出る。そこから東に向うと相橋が架るが、そこには相橋櫓門があった。
橋が架かる川はかつての堀の一部である。
鳥羽駅に戻る途中、鳥羽ガイドセンターの看板があり、その2階に無料の郷土資料展示室があった。日本丸(文禄の役の旗艦で全長約34m、全幅12m、1500石積み百丁櫓、乗員180人、大砲3門の巨船)の模型(写真6)や大戸、太鼓などが展示されている。
(平成23年3月訪問 #70)

参考文献:城郭みどころ事典・西国編(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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