歴史の勉強

信濃国  龍岡城

    

黒門跡

台所櫓

西側石垣

北東隅

JR小海線に乗ると龍岡城という駅がある。駅から徒歩30分ほどの距離にある龍岡城に由来する駅名で、この龍岡城こそが函館とともに日本に2つある五稜郭のうちのひとつである。
そのために龍岡城五稜郭とも称されるが、龍岡の名は明治になってから改称されたもので、江戸時代には田野口陣屋と呼ばれていた。
龍岡の五稜郭は、函館の五稜郭完成の3年後に建設が開始され、函館よりもかなり小さいが未完成である。ちなみに徒歩で行く場合は、JR龍岡城駅よりも隣の臼田駅の方が近い。

龍岡城を建設したのは三河奥殿藩主の松平(大給)乗謨(のりかた)である。奥殿藩の石高は1万6千石であったが、そのうち1万2千石は信濃佐久郡25ヶ村が占めていた。
幕末の文久3年(1863年)に藩主乗謨は、東海道筋の奥殿よりは信濃の方が支配の主力でありかつ安全であると考え、幕府の本領移転を願い出て許された。
西洋軍学に関心を持ち、築城法を学んでいた乗謨は、新たに建設する城を稜堡式城郭いわゆる星形にすることにして、その場所を田野口村に選定した。

工事開始は元治元年(1864年)3月とも文久3年(1863年)11月ともいうが、慶応2年(1866年)には石垣と土塁が完成し、翌慶応3年には本丸内に御殿も完成した。
このころ乗謨は老中格、陸軍総裁に任じられて多忙となり、そのために城の建設は遅れ、西側の堀は未完成のまま廃藩置県を迎えた。廃藩置県後に城は売却され、堀も埋められてしまった。
唯一台所櫓だけが大きすぎるという理由で売却されず、現存している。城址は長らく畑になっていたが、昭和7年(1932年)から9年にかけてに地域住民により復元されて、国指定の史跡になった。

星形の採用は角々に大砲を置くと、砲火の死角をほとんどなくすことができるという理由だが、龍岡城はあくまで試作の城であり、実際に大砲は西南角にしか据えられなかったようだ。
城は空から見るときれいな五角形をしており、西側の堀が未完成で、北西に黒門、北東に大手門、東に通用門、南に穴門がある。大手門の外側には駐車場と資料館が建っている。
本丸内全域が佐久市立田口小学校の敷地で、大手門を入ると校庭が広がる。その右手、黒門の西側に台所櫓が建つ。唯一の現存遺構だが、建設時より移設されている。

校舎の裏側が南側で、自然の形での堀が残る。堀の幅は東側で五間、ほかは四間である。穴門から北東角、大手門、黒門にかけては堀の外周を歩くことができる。
堀の石垣は全体的に低く、布積みで刎出しとよばれる天端部分が庇のように突出した造りである。西側や南西角の石垣には亀甲積みも見られる。これらの石は千曲川の佐久石が用いられているという。
城としては小ぶりであり、全部を見て回っても時間的に大してかからないが、文化遺産としての価値はかなりたかく、ぜひ見学をお勧めする。
(平成26年5月訪問 #118)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、城郭みどころ事典・東国編(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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